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第四章 擾瀾の影
六.いつもの天井
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柚月は邸に戻ってくると、そっと、裏木戸から入った。
心の重さが足に感染っている。
離れの角を曲がると、待っていたかのように、廊下に鏡子が座っていた。
「おかえりなさい」
柚月は胸の奥からこみあげてくるものを、ぐっとこらえた。
「すみません。勝手に出かけて」
鏡子はただ微笑んでいる。
「新しい寝巻、部屋に置いておきましたから」
優しい声に、柚月はせき止められなくなった。
「鏡子さんっ…」
去ろうとしていた鏡子の背が振り向いた。
庭の柚月は、肩を落とし、突っ立っている。
うつむいているせいもあるが、暗くて顔は見えない。
だが。
「俺…」
声が震えている。
「俺、志なんて、そんな立派なもん、何もないんです」
弱い人が安心して暮らせる国にしたいと言った。
今も確かにそう思っている。
心がそう決めている。
だがそれは、国を思ってのことではない。
この国を憂えて、どうにかしたいと思ったわけではない。
そんな、立派なものではない。
佐久間に会って気づいた。
そんな立派なものではなくて。
きっと。
「俺、ただ…、みんなとの暮らしを、守りたかっただけなんだ」
そう、明倫館の皆との。
皆、下層階級の者ばかり。
地位も金も無い。
でも。
「ただ、楽しかったから」
あの頃、幸せだった。
自分がいなくなっても、皆はあの頃と変わらないでいてほしい。
どこかでそう願っていた。
だが、現実は違う。
殺しあっている。
あの頃の皆はいない。
あの頃の明倫館は、もう、無い。
それが、佐久間の話で、柚月の中ではっきりと現実になった。
鏡子は裸足のまま庭に降り、柚月に駆け寄ると、そっと首に手をまわして自分の肩に抱き寄せた。
「そうですか」
優しい声。
記憶にはないが、母のような温かさがある。
それが沁みた。
柚月は鏡子の肩に額を押し当てたまま、肩を震わせた。
「そうですか」
鏡子はもう一度そう言い、柚月の頭を優しくなでた。
その様子を、渡り廊下の先から見ている人物がいる。
雪原だ。
鏡子は昼間、雪原の元に使いを送り、手紙の件を知らせていた。
雪原から返事には、柚月が出かけるようでも止めないように、とあった。
雪原が別宅に戻ったのは、柚月が出かけたすぐ後だ。
鏡子は雪原に言われた通り、黙って見送っていた。
柚月はもう、戻ってこないかもしれない。
互いにそう思っていたが、雪原も鏡子も、口にはしなかった。
雪原の方には、戻ってきたら、何か情報を得てくるだろうという算段もあった。
が、実際戻ってきた柚月の姿を見て、ほっとしたのも事実だ。
雪原は、二人の様子をしばらく見つめた後、静かに自室に戻っていった。
翌朝、柚月が目覚めると、障子がほんのり白く明るくなり出していた。
もうすぐ日の出だろう。
腫れた目が重い。
布団に入ったまま、ごろんと仰向けになると、まだ薄暗い中に、天井が見えた。
いつもの天井だ。
柚月は迷った末、雪原に佐久間と会ったことを報告した。
そして最後に、両手をつき、深々と頭を下げた。
「手前勝手なお願いですが、擾瀾隊の皆を、助けてやっていただけないでしょうか」
さらに、
「お願いします!」
床に額を押し付けて重ねた。
が、雪原は答えなかった。
だが、その日のうちにあばら家に調べに入ったのは、政府が管轄する警備隊ではなく、清名と雪原の護衛隊だった。
清名は別宅にやってくると、何も得られなかったという報告をして帰っていった。
おそらくあのあばら家は、柚月と会う為だけに用意した場所だったのだろう。
雪原は鏡子に茶を頼んだ。
鏡子が茶の用意をして部屋に行くと、雪原は本を読んでいた。
茶を置いても、本から目を放さない。
だが、鏡子が立ち去ろうとすると、「ちょっと」と呼び止める。
そして鏡子が上げかけた腰を再び下ろすと、その腿を枕にしてごろりと横になった。
――珍しい。
鏡子はすこし驚いたが、すぐにピンときた。
「昨夜、ご覧になっていたのですか?」
柚月を抱きしめたことだ。
抱きしめたと言っても、頭を抱き寄せただけ。
柚月も腕をだらりとたらし、鏡子に触れたりしなかった。
だが雪原は、「ん?」と聞き返したきり答えず、目を閉じてしまっている。
妬いたのだな。
鏡子はくすりと笑うと、雪原の髪をなでた。
ややふてくされた横顔が、愛おしかった。
心の重さが足に感染っている。
離れの角を曲がると、待っていたかのように、廊下に鏡子が座っていた。
「おかえりなさい」
柚月は胸の奥からこみあげてくるものを、ぐっとこらえた。
「すみません。勝手に出かけて」
鏡子はただ微笑んでいる。
「新しい寝巻、部屋に置いておきましたから」
優しい声に、柚月はせき止められなくなった。
「鏡子さんっ…」
去ろうとしていた鏡子の背が振り向いた。
庭の柚月は、肩を落とし、突っ立っている。
うつむいているせいもあるが、暗くて顔は見えない。
だが。
「俺…」
声が震えている。
「俺、志なんて、そんな立派なもん、何もないんです」
弱い人が安心して暮らせる国にしたいと言った。
今も確かにそう思っている。
心がそう決めている。
だがそれは、国を思ってのことではない。
この国を憂えて、どうにかしたいと思ったわけではない。
そんな、立派なものではない。
佐久間に会って気づいた。
そんな立派なものではなくて。
きっと。
「俺、ただ…、みんなとの暮らしを、守りたかっただけなんだ」
そう、明倫館の皆との。
皆、下層階級の者ばかり。
地位も金も無い。
でも。
「ただ、楽しかったから」
あの頃、幸せだった。
自分がいなくなっても、皆はあの頃と変わらないでいてほしい。
どこかでそう願っていた。
だが、現実は違う。
殺しあっている。
あの頃の皆はいない。
あの頃の明倫館は、もう、無い。
それが、佐久間の話で、柚月の中ではっきりと現実になった。
鏡子は裸足のまま庭に降り、柚月に駆け寄ると、そっと首に手をまわして自分の肩に抱き寄せた。
「そうですか」
優しい声。
記憶にはないが、母のような温かさがある。
それが沁みた。
柚月は鏡子の肩に額を押し当てたまま、肩を震わせた。
「そうですか」
鏡子はもう一度そう言い、柚月の頭を優しくなでた。
その様子を、渡り廊下の先から見ている人物がいる。
雪原だ。
鏡子は昼間、雪原の元に使いを送り、手紙の件を知らせていた。
雪原から返事には、柚月が出かけるようでも止めないように、とあった。
雪原が別宅に戻ったのは、柚月が出かけたすぐ後だ。
鏡子は雪原に言われた通り、黙って見送っていた。
柚月はもう、戻ってこないかもしれない。
互いにそう思っていたが、雪原も鏡子も、口にはしなかった。
雪原の方には、戻ってきたら、何か情報を得てくるだろうという算段もあった。
が、実際戻ってきた柚月の姿を見て、ほっとしたのも事実だ。
雪原は、二人の様子をしばらく見つめた後、静かに自室に戻っていった。
翌朝、柚月が目覚めると、障子がほんのり白く明るくなり出していた。
もうすぐ日の出だろう。
腫れた目が重い。
布団に入ったまま、ごろんと仰向けになると、まだ薄暗い中に、天井が見えた。
いつもの天井だ。
柚月は迷った末、雪原に佐久間と会ったことを報告した。
そして最後に、両手をつき、深々と頭を下げた。
「手前勝手なお願いですが、擾瀾隊の皆を、助けてやっていただけないでしょうか」
さらに、
「お願いします!」
床に額を押し付けて重ねた。
が、雪原は答えなかった。
だが、その日のうちにあばら家に調べに入ったのは、政府が管轄する警備隊ではなく、清名と雪原の護衛隊だった。
清名は別宅にやってくると、何も得られなかったという報告をして帰っていった。
おそらくあのあばら家は、柚月と会う為だけに用意した場所だったのだろう。
雪原は鏡子に茶を頼んだ。
鏡子が茶の用意をして部屋に行くと、雪原は本を読んでいた。
茶を置いても、本から目を放さない。
だが、鏡子が立ち去ろうとすると、「ちょっと」と呼び止める。
そして鏡子が上げかけた腰を再び下ろすと、その腿を枕にしてごろりと横になった。
――珍しい。
鏡子はすこし驚いたが、すぐにピンときた。
「昨夜、ご覧になっていたのですか?」
柚月を抱きしめたことだ。
抱きしめたと言っても、頭を抱き寄せただけ。
柚月も腕をだらりとたらし、鏡子に触れたりしなかった。
だが雪原は、「ん?」と聞き返したきり答えず、目を閉じてしまっている。
妬いたのだな。
鏡子はくすりと笑うと、雪原の髪をなでた。
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