18 / 22
十七.道場
しおりを挟む
道場の門をくぐるや否や、柚月は馬から飛び降りた。
興奮気味の馬を、証が手綱を引き継ぎ落ち着かせる。
「父上を! 柚月様がいらっしゃいました!」
証が道場に向かって叫ぶと、道場から道着を着た門下生たちが、わらわらと顔をのぞかせた。
「柚月様が?」
「どれだ、どれだ?」
皆、中級以上の武士の子息たちだ。
城での柚月の噂を耳にしている。
噂の小姓様を一目見ようと、稽古どころではない。
柚月が玄関に着くと、そこにも好奇の目を輝かせた顔がいくつも覗いていたが、柚月はそれをまるで気にせず、通りかかった道着姿の少年に名乗ると、清名への取次ぎを頼んだ。
急に噂の小姓様に声をかけられ、しかも、切迫した表情の柚月は凛々しく、その目にまっすぐに見つめられた少年は、緊張と舞い上がる気持ちから、「は、はい!」と声が裏返る。
そこに、騒ぎに気づいた清名が現れた。
門下生たちが、そろいもそろって浮足立っている。
「稽古に戻れ!」
清名の一喝が響いた。
道場から覗いていた好奇の顔が、今度は我先にと慌てて引っ込んでいく。
柚月が声をかけた少年も、慌てて道場に戻ろうとする。
それを清名が呼び止め、どういうわけか、手ぬぐいを濡らしてくるよう言いつけた。
少年は疑問に思ったが、聞けるわけもない。訳も分かわないまま、道場の奥へと走っていった。
「清名さん」
「お前はまず拭け」
清名は柚月を遮ると、首元をさするしぐさをしてみせた。
柚月は、清名の行動が何を意味するのか分からない。
疑問に思いながらも、真似て自身の首を手の甲でこすると、赤い紅がついた。
「え! あれ⁉」
慌ててさらにこすると、ますます甲が赤く染まる。
「いや、これは」
柚月が言い訳するように言いかけたところに、女が現れた。
どここか武家の娘なのだろう。
凛とした雰囲気の女で、髪を一つに結い、門下生なのか、道着を着ている。
「これで、よろしいのですか?」
そう言って、女は清名に濡れた手ぬぐいを差し出した。
先ほどの少年が、女の背に隠れて清名の方をうかがい見ている。
清名は手ぬぐいを受け取ると、柚月に渡した。
「拭いたら来い」
清名は落ち着いた声でそう言うと、元来た廊下を戻っていく。
柚月は、首の皮まではぐのかと思うほどの勢いで口紅を拭きとると、急いで清名の後を追った。
清名は自室にまでは戻らず、来客用の部屋か、玄関からさほど離れていない部屋に入っていった。
「すみません」
柚月は部屋に入るなり、詫びた。
突然来たこと、というより、とんでもない姿で来てしまった方のことだ。
「構わん。急ぎか」
清名は冷静だ。
柚月の首の口紅のことなど、みじんも気にしていない。
すでに座って柚月の要件を待っている。
柚月の表情が、ぐっと引き締まった。
何かあった、とそれだけで分かる。
「急ぎ、雪原様にお会いしたい」
柚月は清名の前に座るなりそう切り出し、一旦言葉を止めると、声をさらに低くする。
「できれば、城の外で」
清名は黙って頷くと、ある寺の名を告げた。
都の西、比較的城の近くにある寺だ。
「そこで待て」
それだけ言うと、清名は部屋を出て行った。
柚月が部屋を出ると、玄関のところに先ほどの女がまだ立っていた。
「お預かりします」
柚月は一瞬、何のことだろうと思ったが、女がちらりと柚月の手元を見る。
手ぬぐいを握ったままだ。
「あ」
素直に返そうとして、柚月は差し出しかけた手が止まった。
手ぬぐいには口紅がついている。
女子に渡していいものか。
柚月は一瞬が躊躇った。
だが、持っているわけにもいかない。
そもそも、借りたものだ。
「ありがとうございました」
柚月はやや気まずそうに、だが、丁寧に頭を下げた。
変な人だな、と女は思った。首に口紅なんてつけて、遊び人なのだと思ったが、うらはらに、随分誠実な面を持っている。
「お帰りですか? 証に送らせましょうか。どうせまだ、厩にいます」
女の申し出を、柚月は微笑んで断った。
その人のよさそうな笑みに、女はますます、変な人だ、と思う。
柚月としては、これから行く先を人に知られたくはない。
足早に道場を出た。
その背を、女は玄関から見送った。
この女が誰なのか。柚月がそれを知るのは、もう少し先のことになる。
興奮気味の馬を、証が手綱を引き継ぎ落ち着かせる。
「父上を! 柚月様がいらっしゃいました!」
証が道場に向かって叫ぶと、道場から道着を着た門下生たちが、わらわらと顔をのぞかせた。
「柚月様が?」
「どれだ、どれだ?」
皆、中級以上の武士の子息たちだ。
城での柚月の噂を耳にしている。
噂の小姓様を一目見ようと、稽古どころではない。
柚月が玄関に着くと、そこにも好奇の目を輝かせた顔がいくつも覗いていたが、柚月はそれをまるで気にせず、通りかかった道着姿の少年に名乗ると、清名への取次ぎを頼んだ。
急に噂の小姓様に声をかけられ、しかも、切迫した表情の柚月は凛々しく、その目にまっすぐに見つめられた少年は、緊張と舞い上がる気持ちから、「は、はい!」と声が裏返る。
そこに、騒ぎに気づいた清名が現れた。
門下生たちが、そろいもそろって浮足立っている。
「稽古に戻れ!」
清名の一喝が響いた。
道場から覗いていた好奇の顔が、今度は我先にと慌てて引っ込んでいく。
柚月が声をかけた少年も、慌てて道場に戻ろうとする。
それを清名が呼び止め、どういうわけか、手ぬぐいを濡らしてくるよう言いつけた。
少年は疑問に思ったが、聞けるわけもない。訳も分かわないまま、道場の奥へと走っていった。
「清名さん」
「お前はまず拭け」
清名は柚月を遮ると、首元をさするしぐさをしてみせた。
柚月は、清名の行動が何を意味するのか分からない。
疑問に思いながらも、真似て自身の首を手の甲でこすると、赤い紅がついた。
「え! あれ⁉」
慌ててさらにこすると、ますます甲が赤く染まる。
「いや、これは」
柚月が言い訳するように言いかけたところに、女が現れた。
どここか武家の娘なのだろう。
凛とした雰囲気の女で、髪を一つに結い、門下生なのか、道着を着ている。
「これで、よろしいのですか?」
そう言って、女は清名に濡れた手ぬぐいを差し出した。
先ほどの少年が、女の背に隠れて清名の方をうかがい見ている。
清名は手ぬぐいを受け取ると、柚月に渡した。
「拭いたら来い」
清名は落ち着いた声でそう言うと、元来た廊下を戻っていく。
柚月は、首の皮まではぐのかと思うほどの勢いで口紅を拭きとると、急いで清名の後を追った。
清名は自室にまでは戻らず、来客用の部屋か、玄関からさほど離れていない部屋に入っていった。
「すみません」
柚月は部屋に入るなり、詫びた。
突然来たこと、というより、とんでもない姿で来てしまった方のことだ。
「構わん。急ぎか」
清名は冷静だ。
柚月の首の口紅のことなど、みじんも気にしていない。
すでに座って柚月の要件を待っている。
柚月の表情が、ぐっと引き締まった。
何かあった、とそれだけで分かる。
「急ぎ、雪原様にお会いしたい」
柚月は清名の前に座るなりそう切り出し、一旦言葉を止めると、声をさらに低くする。
「できれば、城の外で」
清名は黙って頷くと、ある寺の名を告げた。
都の西、比較的城の近くにある寺だ。
「そこで待て」
それだけ言うと、清名は部屋を出て行った。
柚月が部屋を出ると、玄関のところに先ほどの女がまだ立っていた。
「お預かりします」
柚月は一瞬、何のことだろうと思ったが、女がちらりと柚月の手元を見る。
手ぬぐいを握ったままだ。
「あ」
素直に返そうとして、柚月は差し出しかけた手が止まった。
手ぬぐいには口紅がついている。
女子に渡していいものか。
柚月は一瞬が躊躇った。
だが、持っているわけにもいかない。
そもそも、借りたものだ。
「ありがとうございました」
柚月はやや気まずそうに、だが、丁寧に頭を下げた。
変な人だな、と女は思った。首に口紅なんてつけて、遊び人なのだと思ったが、うらはらに、随分誠実な面を持っている。
「お帰りですか? 証に送らせましょうか。どうせまだ、厩にいます」
女の申し出を、柚月は微笑んで断った。
その人のよさそうな笑みに、女はますます、変な人だ、と思う。
柚月としては、これから行く先を人に知られたくはない。
足早に道場を出た。
その背を、女は玄関から見送った。
この女が誰なのか。柚月がそれを知るのは、もう少し先のことになる。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
一よさく華 -幕開け-
八幡トカゲ
ライト文芸
ソレは、さながら、妖――。
偶然を装った必然の出逢い。
細い月が浮かぶ夜、出逢ったその人は人斬りでした。
立派なのは肩書だけ。中身なんて空っぽだ。
この国は、そんな奴らがのさばっている。
将軍の死の疑惑。
そこから、200年続いたうわべだけの太平の世の終焉が始まった。
「この国をいい国にしたい。弱い人が、安心して暮らせる国に」
動乱の中、その一心で「月」になったひとりの少年がいた。
少年はやがて青年になり、ある夜、ひとりの娘に出会う。
それは、偶然を装った、必然の出会い。
そこから、青年の運命が大きく動き出す。
都の闇夜を駆け抜ける影。
一つよに咲く華となれ。
一よさく華 -渡り-
八幡トカゲ
ライト文芸
自分を狙った人斬りを小姓にするとか、実力主義が過ぎませんか?
人斬り 柚月一華(ゆづき いちげ)。
動乱の時代を生きぬいた彼が、消えることのない罪と傷を抱えながらも、新たな一歩を踏み出す。
すべてはこの国を、「弱い人が安心して暮らせる、いい国」にするために。
新たな役目は、お小姓様。
陸軍二十一番隊所属宰相付小姓隊士。宰相 雪原麟太郎(ゆきはら りんたろう)は、敵方の人斬りだった柚月を、自身の小姓に据えた。
「学びなさい。自分で判断し、決断し、行動するために」
道を失い、迷う柚月に雪原は力強く言う。
「道は切り開きなさい。自分自身の力で」
小姓としての初仕事は、新調した紋付きの立派な着物を着ての登城。
そこで柚月は、思わぬ人物と再会する。
一つよに咲く華となれ。
※「一よさく華 -幕開け- 」(同作者)のダイジェストを含みます。
長編の「幕開け」編、読むのめんどくせぇなぁって方は、ぜひこちらからお楽しみ下さい。
泣いてもω(オメガ) 笑ってもΣ(シグマ)
武者走走九郎or大橋むつお
ライト文芸
神楽坂高校の俺は、ある日学食に飯を食いに行こうとしたら、数学の堂本が一年の女子をいたぶっているところに出くわしてしまう。数学の堂本は俺にω(オメガ)ってあだ名を付けた意地悪教師だ。
ωってのは、俺の口が、いつもωみたいに口元が笑っているように見えるから付けたんだってさ。
いたぶられてる女子はΣ(シグマ)って堂本に呼ばれてる。顔つきっていうか、口元がΣみたいに不足そうに尖がってるかららしいが、ω同様、ひどい呼び方だ。
俺は、思わず堂本とΣの間に飛び込んでしまった。
古屋さんバイト辞めるって
四宮 あか
ライト文芸
ライト文芸大賞で奨励賞いただきました~。
読んでくださりありがとうございました。
「古屋さんバイト辞めるって」
おしゃれで、明るくて、話しも面白くて、仕事もすぐに覚えた。これからバイトの中心人物にだんだんなっていくのかな? と思った古屋さんはバイトをやめるらしい。
学部は違うけれど同じ大学に通っているからって理由で、石井ミクは古屋さんにバイトを辞めないように説得してと店長に頼まれてしまった。
バイト先でちょろっとしか話したことがないのに、辞めないように説得を頼まれたことで困ってしまった私は……
こういう嫌なタイプが貴方の職場にもいることがあるのではないでしょうか?
表紙の画像はフリー素材サイトの
https://activephotostyle.biz/さまからお借りしました。
演じる家族
ことは
ライト文芸
永野未来(ながのみらい)、14歳。
大好きだったおばあちゃんが突然、いや、徐々に消えていった。
だが、彼女は甦った。
未来の双子の姉、春子として。
未来には、おばあちゃんがいない。
それが永野家の、ルールだ。
【表紙イラスト】ノーコピーライトガール様からお借りしました。
https://fromtheasia.com/illustration/nocopyrightgirl
陽だまりカフェ・れんげ草
如月つばさ
ライト文芸
都会から少し離れた、小さな町の路地裏商店街の一角に、カフェがあります。 店主・美鈴(みすず)と、看板娘の少女・みーこが営む、ポプラの木を贅沢に使ったシンプルでナチュラルなカフェには、日々ぽつりぽつりと人々がやって来ます。 いつの頃からそこにあるのか。 年齢も素性もわからない不思議な店主と、ふらりと訪れるお客さんとの、優しく、あたたかい。ほんのり甘酸っぱい物語。
アーコレードへようこそ
松穂
ライト文芸
洋食レストラン『アーコレード(Accolade)』慧徳学園前店のひよっこ店長、水奈瀬葵。
楽しいスタッフや温かいお客様に囲まれて毎日大忙し。
やっと軌道に乗り始めたこの時期、突然のマネージャー交代?
異名サイボーグの新任上司とは?
葵の抱える過去の傷とは?
変化する日常と動き出す人間模様。
二人の間にめでたく恋情は芽生えるのか?
どこか懐かしくて最高に美味しい洋食料理とご一緒に、一読いかがですか。
※ 完結いたしました。ありがとうございました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる