上 下
13 / 19

第十二話

しおりを挟む
 王国の南には乾燥した荒野が広がっていた。人が住むには厳しい不毛の地であるが、王国が保有する唯一の鉱山があった。その鉱山の手前に鉱夫たちの町があって、衛兵が少ないこともあって、治安が良くないことでも有名だった。

 司教の筋書きでは、フローリアは三ヶ月前に神の言葉を聞き、場所が遠いので司教の力を貸してもらおうと申し出た。司教は協力を惜しまないと言ったが、場所が場所だけに、フローリアの身の安全を考え、入念に準備を整えて、奇跡に臨むことになった。

 フローリアが神の言葉を聞いてから、できるだけ早く奇跡を起こして貰うのだが、いつになく、時間をかけて準備をした。時間をかけたからこそ、審問官の奇跡の見学を可能にしたのだが。

 南の鉱山に訪れるのは初めてだった。ここで採掘される鉄鉱石を仕事で取り扱っているが、ここまで来ることはまずない。でも、自分に関係するところで奇跡を起こせるのは嬉しかった。

 聖堂騎士団の紋章が刻まれた馬車から、黒いヴェールを被った修道女が降りる。

 フローリアがヴェールを被っているのは、この辺りが埃っぽいのと、強い日差しのため、という理由が付いていた。実際は、フローリアの顔を審問官の視線から遮るためだ。

 市井では奇跡の少女フローリアの顔が広く知られていた。しかし、それは画家が美化して描いたもので、本物とは似て非なるもの。ヘラとはあまりに違う顔だった。

 フローリアの顔が広く知られていても、実際の顔を審問官に見られるのはあまり良くなかった。ヘラは王都にいて、気をつけてもついうっかり遭遇してしまうことだってあるかもしれないからだ。

 ヴェールにはより顔を隠しやすくするためか、細やかな花の刺繍が施されている。

 そこからは歩きだった。目的地は荒野の奥深く。司教の行った調査により、鉱山の採掘作業の妨げとならないように、それでいて鉱山の前に広がる町に奇跡の影響が届くようにしなければならない。あらゆる条件に合う場所を探した結果、これから向かう場所で奇跡を起こした方が良い、との結果が得られた。

 これから目指す場所は馬車では進めない。フローリアはいつもと同じ裾の長い修道服を着ていて、これからの道は過酷そうだ。

「フローリア様、足元にお気をつけください」

 付き従う騎士がフローリアに気遣いの言葉をかけた。

「はい、ありがとうございます」

 ヘラは、数年の付き合いと二年間の奉仕活動のおかげで、聖堂騎士団の顔を覚えていた。しかし、それはヘラのこと。フローリアは、聖堂騎士を自らに課せられし使命に協力してくれる人として、とても尊敬しているのだ。

 今は、フローリアでなければならない。

 修道服の裾を汚す砂や、足を引っ掛けようとする出っ張った岩、細かく滑りやすい地盤や、容赦なく吹き付ける乾いた風。歩みを脅かす荒野の住人に気をつけながらフローリアは慎重にその場所を目指す。

 二刻ほどして、身の丈ほどある大きな岩がゴロゴロと転がっているところへと出た。

 足元も細かな岩や砂の絨毯から、足音が響く岩盤の大地へと変わる。ヘラの木の靴と、付き従う聖堂騎士の鉄のブーツが固い大地を叩く。岩場に三つの足音が響いた。

 ここが今日の舞台である。





      ○





 そして先行するフローリアの後には、三つの人影があった。審問官ガルニエと案内役兼護衛の二人の聖堂騎士である。フローリアの起こす奇跡を少し離れたところからうかがおうとしていた。

 ガルニエは、奇跡とやらをこの目にできると首を伸ばす。しかし、すぐに聖堂騎士の一人に制止された。何が起こるか分からないので気をつけて欲しいようだった。

 奇跡とは言うが、何が起きるか誰にも分からないそうだ。いや、一人知っている人がいる。神だ。とは言っても、これが本当に奇跡かどうか、いや、必ず何かしらの仕掛けがあり、奇跡などではないのだろう。

 信念からこれから起こることへの否定が行われるも、ぶどう酒の井戸の記憶から、もしかしてという思いが湧き上がる。

 どちらにせよ、ガルニエのすることはいつもと同じだ。奇跡とやらを調べ、徹底的に真実を追究する。それが審問官の仕事でもある。

 ガルニエと同じく、各地で報告される奇跡を調べる審問官たちはガルニエと違っていくつも奇跡を認め、聖女や聖人を生み出している。しかしガルニエにとって奇跡を認めることは信念を曲げること。そして実際に起こったことへの探求、追及をやめ、考えることも放棄した、いわゆる負けを認めたことだと考えていた。

 奇跡や聖女や聖人の認定は、つまりはそうしておけば面倒から解放されるという審問官の職務放棄なのである。

 ガルニエの視界を阻むのはむき出しの岩石。白っぽいので石灰石かと思ったが、存外硬い。視界の中心には黒い修道服にヴェールを被った一人の少女。ヴェールも黒く、刺繍が施されているのか、顔の造形まで伺えない。顔の輪郭を確かめるのがせいぜいだった。

 そんな少女に付き従った二人の聖堂騎士は離れたところで様子を伺っている。

 いよいよ始まるようだ。

 ガルニエはとても落ち着いていた。これまで審問官として、いろいろな物を見てきた。場慣れしているとも言えるだろう。そして、奇跡と呼ばれてきたものを見ても、心は動かなかった。物知らずな人が見れば奇跡と思っても、知識がある人が見れば、ごく普通の現象だったりする。

 過去に、大陸の南の国で聖女らしき女性が現れたと報告があり、ガルニエが派遣されたことがある。南国の蒸し暑い気候に辟易したのをよく覚えている。貴人や富豪がやれ休暇だバカンスだと南国に行きたがるが、ガルニエにとっては南国は暑いし、虫がいるし、日差しは強くて眩しいし、と散々なところだった。有難がって行く人々の気が知れない。

 そのときの聖女や、彼女が起こしたという癒しの奇跡は、神の御業でもなんでもなかった。

 南国のある女が神の導きによって花を見つけた。その花は赤く、とてもかぐわしい匂いを放ち、蜜は万病に効いたという。女はその花を栽培し、国中に広め、花の聖女ともてはやされたが、ガルニエは女を捕らえ、国中に広がったその花をすべて燃やし尽くした。

 その花はとんでもない毒花だったのだ。

 花は麻薬のようなもので、花粉を吸うだけで気分が高揚し、幻覚を見せる。ほろ苦いという蜜を舐めれば快感を得られるが、同時に体中の神経を狂わす。そしてひどい中毒症状まで引き起こし、最終的には体を蝕む。

 女は人々を癒していたのではなく、麻薬中毒に落としていたようなものだった。
 花は国中に広がっており、片を付けるためにはそのすべてを燃やすしかなかった。自分をよく思わない奴らからは国を燃やしたと陰口を叩かれたが、他にどうしろと言うのだ。危険な花なのだからこうするしかないだろうに。

 捕らえた花の聖女とやらもひどい中毒に陥っていた。捕まえるときには呂律の回らない舌を動かして喚き、自分が神の子だとか、花の妖精だとかそんなものだと信じていて、目の焦点も合っていなかった。

 彼女はその後、総本山で神を騙り、人々を狂わせたとして裁判を受けさせるために護送されたが、道中隙をついて馬車から飛び出し、足をもつれさせて、地面に頭を打ち付けて命を落とした。

 重症の件の花の中毒者として医者に解剖を頼むと、女の脳は溶け始めていたというから恐ろしいことだった。

 この一件はガルニエが担当した中でも最悪なものだったが、これまで彼は担当してきた聖人や聖女、奇跡の報告はすべて真実を突き止めて否定してきた。

 彼の持論、信念は『神はいる。でも人間を見守っているだけ』だった。

 そもそもかつて大罪を犯し、楽園を追い出した人類に、新たな大地を与えてくれただけでも寛大である。それ以上をして貰おうなんていくらなんでもずうずうしい。

 だいたい、新たな大地を与えてくださるまで何年要したという。二千年だ、二千年。人々は神に許しを希い、ようやく大地を与えられた。神が何かして下さるには、何百年、何千年という時間をかけて祈りを捧げ続けなければならないのだろう。

 岩場の只中に立つ少女は胸の前で手を組み、祈りを捧げている。

 しばらく見ていても、何も起こらない。荒野の乾いた、誇りっぽい風が吹き抜けていくだけだ。

「何も起こりませんが、どういうことですか?」

 ガルニエは、傍の聖堂騎士に尋ねる。

「分かりません。でも、もう少し待ってみましょう」

 ガルニエは頷き、祈りを捧げ続ける少女を見つめた。

 しかし、それからずっと待ってみても、何も起こらなかった。ふと懐中時計を取り出し、確かめてみると、もう二刻近く祈りを捧げ続けていた。岩場にはむき出しの岩が突き出し、日陰を作っているものの、少女にはカンカン照りの日差しが照り続けていた。このままでは少女の方が日差しにやられてしまう。

 止めたほうがいいだろう。

 ガルニエが足を踏み出してすぐだった。めまいのように体がふらついて、額に手をやる。めまいを感じるようなことはなかったはずだ。大変貧相なこの国の食事でもしっかり食べているし、きちんと休息も取るようにしている。

 また、めまいを感じる。

 それはめまいではなかった。めまいと思っていたそれは、大地の揺れ、地震だった。少しずつ岩盤の大地を揺らしていたものが、少女の前に噴き上げ、姿を現す。

 水だった。

 噴き上げた水は大きな飛沫を撒き散らし、辺り一帯に大雨のように降り注ぐ。雲一つない晴天に大雨。まるで天気雨のようだった。

 水は、すさまじい勢いで噴き出し続け、辺りを湿らせるどころか、水溜りができて広がり、そして池のようになるのもあっという間だった。そして、池のような水溜りもすぐに溢れて、地面の傾斜に従って流れ、少女フローリアより低いところにいたガルニエたちのほうに向かって流れ出す。

 ガルニエの方へ流れ出した水ははじめくるぶしまでの水深だったが、それが腿、膝の高さへと達した。

 危険を感じて、慌てて騎士たちに声をかける。

「避難しましょう、もっと高いところへ」

 と、言ってもガルニエにとって高いところは少女がいるところであり、上流で、水が流れてくる方でもあった。

 すでに少女の姿はなく、ガルニエ自身ももう少女に気を向けている場合ではなかった。

「審問官様、こちらに!」

 聖堂騎士が手を引き、大岩の陰にガルニエを連れ込んだ。そして、流れを妨げる大岩のおかげで、何とか流されるのを回避する。大岩は流されるのを阻止してくれたが、それもいつまで持つか分からない。今もなお、水の量は増えていて、水かさは増してきているのだ。また、大岩の陰からでは上流の様子が分からず、いつ出ていいのかも分からない。聖堂騎士は水から上がれる岩を見つけて、ガルニエを引き上げてくれた。

 ようやく身の安全を確保でき、突如出来上がった川を眺めた。

 水の勢いは凄まじく、地面に転がっていた大岩を押し流し、辺りの光景を一変させていた。

 水の威力を、自然の猛威をまざまざと見せ付けた。

「これは、すごいものですね……」

 目の前の光景、身を持って感じた経験、危険にガルニエも深く息を吐く。

「奇跡とはいつもこうなのですか?」

 聖堂騎士に尋ねる。

 騎士は鉄のブーツを脱いで、何とか濡らさずに済んだ布でズボンを拭っているところだった。

「え、あ、すいません。もう一度お願いします」

「いつもこうして危険なことをしているのですか? あのフローリアという娘は!」

「まさか! 今回はたまたまですよ」

 慌てて騎士は叫んだ。

「聖女様も何が起きるか」

「まだ聖女ではありません」

「失礼しました。フローリア様も何が起こるか分からないそうです」

 ガルニエの鋭い指摘に、騎士は気後れしたようだ。

「でも何が起こるか分からないから、審問官様をきちんとお守りするように命じられておりました。この通りきちんとお守りできて良かったです」

「そうですね、この通り濡れた以外はなんともありません。ありがとうございます」

 ガルニエも、上着を脱いで、濡れた裾を絞る。

 ここに来る前、鉱山の前に広がる町に立ち寄ったことを思い出す。その町はあまりに潤いがなく、乾ききり、人々の心も荒んでいるようだった。しかし、今出現したこの川が、その町を潤すだろう。もしかしたら押し流すかもしれない。どちらにせよ、ガルニエにはどうしようもないことだった。でも、奇跡をうたっているのなら、大丈夫だと思いたい。

 しかし、これが奇跡か。災害とも言えるだろう。いや、神を騙った人災か。

 だが、人災だとしてもあの少女がどうやって水を噴き出させたのか。祈りを捧げ、水が湧く。因果が分からない。本物の奇跡なら因果を探ろうなんて馬鹿げているが、生憎ガルニエは審問官だ。神の御業かどうかを判断しないといけない。だから、まずは今起こったことが、神の奇跡ではないと考えるところからはじめないといけなかった。

 フローリアが南の鉱山で奇跡を起こし、乾いた地域に川を作り上げたという話は瞬く間に広まり、信心深く気の早い者はすぐに南の鉱山へと足を向けた。

 そして、当のフローリアは、自ら起こした奇跡で噴き出した水に飲まれ、流されて腕だか足だかを折ったらしい。

 自ら起こしたことに巻き込まれるとはずいぶん間抜けな話である。

 ガルニエは数日、鉱山前の町に滞在し、川や奇跡が起きた水源をできる限り調べたが、彼があの時見た通りのことが起こったとしか言えなかった。つまり、水が岩盤を貫いて噴き出し、山下に向かって流れているのである。

 何か仕掛けがあったのでは、とも思ったが、その片鱗すら見つけられなかった。表情が渋いガルニエとは対照的に、町の人たちは村の近くに川ができたことを大喜びしていた。

 この村では水が金と同じように扱われ、掘り出した鉄鉱石と交換して得られるものでもあったのだ。

 なるほど。あの危なっかしい奇跡でも、一応は人を救っているというわけだ。

 ガルニエは結局、この不可思議な出来事の因果を解明することができないまま、王都に戻ることにした。
しおりを挟む

処理中です...