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第四話

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 その日は春休み前の最後の礼拝日で、いつもより多く人が大聖堂に集っていた。王都には各地方から貴族や裕福な商人が集まり、春休みには故郷で過ごすために、これまでの感謝とこれからの旅の無事を祈って大聖堂での礼拝に参加するのだ。大聖堂とはいえ、集まる人全てを納めるのは難しく、大聖堂の前の広場にも人だかりができていた。

 彼らは礼拝の参加者でもあり、今日の奇跡の観客で、目撃者でもあった。

 ヘラはその日、労働者の少女の格好をしていて、広場なり、大聖堂なりいても明らかに浮く姿だったので、大聖堂の外にある物陰に隠れて遠くから様子を見守っていた。

 大聖堂に集う人々は貴族や商人ばかり。そんな中にくたびれた格好のヘラが飛び込んだら、スリか何かに勘違いされてしまうことだろう。

 大聖堂ではもう一刻ほど前に礼拝が始まり、開け放たれた重厚な扉の向こうから聖歌隊の歌声が漏れる。もう間もなく礼拝が終わるだろう。つまり、今日の奇跡が実行されるということだ。

 ゆっくり息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

 司教は礼拝中に決して始めないことを忠告した。目撃者が少なくなることと、聖堂騎士や司教の対応が遅れることへの心配はもちろん、大事な礼拝が中断されるのを良しとしなかった。

 少しして、礼拝が終わったのか、大聖堂の中から人が出てきた。広場に集まった人々がざわめく。

 そのときだった。ゴボッと不気味な音がして、舗装された道の端にある側溝から汚水が溢れ始めたのだ。

「うわっ、何だ!?」

「嫌だわ」

 人々はサッとその場を離れ、溢れる汚水から離れようとした。

 王都は下水が整っているが、まれにこのように下水が溢れることがあった。珍しいことではなかったが、もちろん嬉しいことではなかった。辺りに鼻が捻じ曲がるような酷い匂いが立ちこめ、足元には汚水が広がる。汚水が広がると同時に人々の悲鳴も上がり、傍から見ると面白い光景だった。

 しかし、汚水が溢れているのは一箇所だけではなかった。この大聖堂の前の広場、すべての下水口から汚い、虹色に怪しく照り返す水がとめどなく溢れていた。

 人々は慌てて汚水から離れようとするが、汚水は人々を追い詰め、半ば恐慌に落としかけていた。

 フローリアはそのとき現れた。

 みすぼらしい労働者の少女の登場に、人々はいぶかしむ。

 しかし少女はためらわずに汚水の中を歩き、人々の視線を集めた。

 ヘラはゆっくりと五十を数えた。たっぷりと時間をかけて五十を数えると、十分注目を浴びることができたようだ。ちらりと視界の端で鮮やかな白いものが大聖堂の入り口に出てきたのが見えた。

 これで、役者は揃い、舞台は整った。

 人々の前で、少女はゆっくりと腕を上げ、胸の前で手を組んだ。そしてそっと目を閉ざし、祈りを捧げる。

 そして、ヘラは魔法を使った。

 全く、司教様は勝手な事を言う。

 ヘラは心の中で毒づいた。

 司教は大々的にやろうと言うものだから、奇跡の度にヘラの負担が大きくなってゆく。奇跡は回を重ねるごとに派手に、もしくは大規模になってきた。できないことはなかったし、これまで成功させ続けてきた。でも、いつか期待に添えなくなるんじゃないかと心配でもあった。

 少女の周りに人はいない。少女はくるぶしまで汚水に浸し、ただ祈りを捧げている。すると、少女の足元から汚水が白く輝き、浄化されてゆく。

 ヘラは目を閉ざしているが、人々の驚きの声、やがて湧きあがる歓声に魔法がうまくいったと確信した。

「道を開けろ」

 馴染みのある人の怒ったような慌てた声にヘラは手を解きほぐし、目を開け、顔を上げる。

 浄化された水を荒々しく跳ねさせて、聖堂騎士に人々を避けさせ、出来上がった道を司教が通る。陽の光を受けて、まばゆい輝きを放つような白い法衣の裾が水に濡れるのも構わない。

 人々は奇跡の少女と、それを悪魔の使者と非難していた司祭の遭遇に、息をのむ。

 司教も人々と同じように先ほどの奇跡を目の当たりにしていた。大聖堂の入り口の前で。

 司教はヘラ、いやフローリアの前に来るやいなや、すっと膝を折り、頭を下げた。

 フローリアが戸惑ったように人々は見えたはずだ。

 司教から頭を下げたら戸惑う振りをしなさいと指示があった。でも、ヘラはあの司教が本当に自分に頭を下げるなんて、と信じられなくて本当に戸惑った。

「信じられないことですが、あなたは本当に奇跡を起こせるようです。今までの非礼をどうかお許しください」

 人々はその様子をまざまざと見つめ、司教の改心を様々な思いでそれぞれ受け止めていた。

 後に『聖女の迎合』という名画のモデルとなる一瞬は、多くの人々の心に刻み込まれた。




 その日、噂の奇跡の少女が司教によって手厚く保護され、彼が管理する修道院に入ることが発表された。そして、その決定だけでなく、ようやく噂の少女が「フローリア」という名前であることが公表された。

 翌日、すっかり慣れた聖堂騎士団の本部で、ヘラは昨日の一件を大々的に伝える新聞に目を通していた。

「すごい」

 新聞には一連のことが事細かに書かれていた。奇跡の内容、司教の改心、少女がフローリアという名前だということと、彼女が修道院に入ることになったことも。

 けれども、司教の計画とずれてしまったことが一つあった。

 司教はフローリアを神の言葉を聞く存在、預言者としたかったのだが、新聞にでかでかと書かれた文字は『聖女』。そして新聞の発行と同時にその言葉が広まり、預言者フローリアではなく、聖女フローリアとして人々は受け入れたのだった。

 けれどもこれは些細なことだった。司教も計画に支障はないとしていたし、ヘラもそのほうが親しみやすいと感じていた。と、同時に面白かった。あの司教の読みが外れたのだ。

 それにしても、だ。ヘラは司教の狙いがようやく分かって、驚きを通り越して唖然としてしまった。

 なぜ司教が厳しくフローリアを非難したのか。なぜ聖堂騎士に人々の不信を集めたのか。

 そういったことへの疑問がようやく解消したのだ。

 すべては昨日の茶番のため。人々が聖女フローリアの身柄を司教に安心して託すためだったのだ。

 司教は聖女と司教の対立を描き出し、自らを悪役に仕立て上げたのだ。そして、悪しき司教の犬、聖堂騎士も聖女の敵として、目を光らせている。悪者は聖女だけでなく、敬愛する国王まで傷つけ、人々はさらに司教や聖堂騎士を疎むようになった。元々、市民は地位の高い人、裕福な人を良く思わない。そんな感情も手伝って、司教と聖堂騎士の悪者っぷりを市民は描き出していったのだ。

 そして悪者は最後に討たれなければならない。その決戦が昨日の一件だったのだ。

 人々の目の前で、悪者は観念し、聖女の味方となった。しかもその味方は王国でも有数の富と権力を持つ人物で、この国最高の聖職者で、私設部隊を保有している。聖女フローリアは奇跡で人々を救い、悪者を討っただけでなく、最高の仲間を手に入れたのだ。

 司教はこの構図を作り出すために二年前から動いていたのだ。

 まんまとフローリアを手元に置いておくだけでなく、人々の支持まで手にしたのだ。司教の手腕は相変わらず恐ろしいものだった。

 何はともかく、一部読み違いはあったものの、ほとんどは司教の思惑通りに事は運び、聖女フローリアは司教の手元にやってきて、聖女の後見人的立場になった。

 そしてヘラは四年間通った女学院を卒業し、司教の弟マイルジークが経営する会社に勤め始めた。
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