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【最終話】勘違いの初恋(9)
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突然の呼び出しにも関わらず隆之介はすぐに駆けつけてくれた。彼の匂いを嗅いだらすぐに呼吸が楽になって安堵した反面、このようなことになった理由を話さなければいけなくなってしまった。できれば自分の過去は語りたくなかったけど、これだけ迷惑をかけておいて黙っていることもできない。
一旦自宅に寄って母に頼まれたものを渡すため玄関で「ただいま」と声を掛ける。すると母がリビングから出てきた。
「おかえりなさい。おつかいご苦労さま――あら? もしかして……隆之介くん?」
「ご無沙汰してます」
隆之介が頭を下げると、母は1オクターブ高い声で言う。
「まぁ、本当に大きくなったのねぇ! さぁどうぞどうぞ、上がってちょうだい」
「あ、いえ。これから行くところがあるんです。また今度改めてご挨拶に来ますので」
「あらそうなの? もしかして澄人も一緒に?」
「はい。遅くならないうちに送り届けますのでご心配なく」
母は「あら」とか「まあ」を連発して驚きつつ、嬉しそうに僕たちを見送った。
「久しぶりに顔を見られて良かったわ。美和子さんにもよろしくね」
美和子さんというのは隆之介の母のことだ。同年代なので気が合うようで、今もたまに連絡を取っているらしい。
僕たちはまだ話し足りなそうな母を残して家を後にした。
◇
今回隆之介が乗ってきた車は以前海に行った時の車じゃなかった。それに隆之介とは違う匂いがしたので聞いてみたところ、友人から借りてきてくれたそうだ。
「無理言ってごめんね。お友達怒ってないかな?」
「仲いい奴だからいいんだよ。俺、スミくんに会えなくて落ち込んでてさ。気晴らしにって友達の家でゴロゴロしてただけだから」
「そうなの? それにしてもごめん……」
数ヶ月前父や兄と訪れて以来久々に山岸家の敷居をまたいだ。やはりここはいい匂いがするし落ち着く空間だ。隆之介の匂いだけじゃなく、家そのものの木材の匂いや庭の植物の香りが重なり合ってそれらが調和しているんだろう。
「いいからいいから。ほら、この前ケルンコンサートのアナログレコード版聴いてみたいって言ってただろ? 父さんが持ってるからこっち来て」
手招きされて、以前僕が倒れた時に寝かされたオーディオルームに案内される。隆之介は目当てのレコードを探し出し、慣れた手つきでプレーヤーにセットしてくれた。針を落として少し待つと、静かにピアノの演奏が始まった。
「母さん出掛けてるみたいだから俺コーヒー入れてくるね」
「ありがとう」
隆之介が勧めてくれたジャズピアノのアルバムが気に入って最近よく聴いている。だから曲は聴き慣れたものだったけど、アナログレコードだと音が少し違って、音楽にそれほど詳しくない僕が聞いてもより柔らかく温かみを感じた。我が家にはないかなり大きなサイズのスピーカーから出る音は、普段イヤホンで聞くのと違い空気を通して耳に触れる振動が新鮮だった。
見慣れない大きなレコードジャケットを眺めながら曲を聴いていたら、隆之介が湯気の立つコーヒーを手に戻ってきた。
「どう?」
「すごくいい。僕の家、ちゃんと音楽聴くための部屋なんてないからこうやってスピーカーから聴く音の違いは知らなかったんだよね」
「そうだよな。俺も親父が好きじゃなかったらわざわざアナログで聴こうと思わなかったと思う。でも最近CDよりレコードの売上って伸びてるみたいだね」
「そうなんだ」
手渡されたコーヒーを口に含むと、苦味と共にふくよかな香りが鼻を抜けていく。
「なんだか贅沢な気分。わがまま言って連れてきてもらった上にコーヒーまでありがとうね」
「おいおい、ただの俺の実家だよ? 本当にスミくんって――こんなことで感謝されたの初めてだよ」
「そうなの?」
「だって、今まで付き合った子たちはあそこのディナー連れてけとか、これを買ってくれとか、まあ大体そんな感じ」
「へぇ……」
僕にしてみれば、お店も知らないし欲しいものが何なのかも自分でよくわからないだけだ。自分としてはそれがつまらない人間のような気がしてならなかった。
「僕、人を避けてきたから誰かとどこかに行きたいとか、何か物を欲しいって気持ちにあまりなったことがないんだ」
「そうなんだね。あのさ、さっきの話だけど聞いてもいい?」
「うん。すごく昔の話だしこんなこと未だに引きずってるの本当に恥ずかしいんだけど、笑わないでくれる?」
隆之介は目を見て頷いた。
「笑ったりしないよ」
「ありがとう。実は……本当はキスしたの、あれが初めてじゃなかった」
「え?」
「えーと、正確には唇の端っこにかすったくらいなんだけど――フェロモンのせいで中学生の時親しくもないアルファの生徒に無理やりされたんだ」
「まじかよ」
隆之介が眉間に皺を寄せた。
「それを別の生徒に見られてて、そのアルファの彼女にも伝わって……中学校時代それが原因でいじめられてたんだ」
「スミくん、そんなことがあったなんて俺知らなくて……この前いきなりキスしてごめん。怖かったよな、本当にごめん」
彼が真剣な顔をして僕の手を握って謝罪してくる。彼はアルファなので、僕がそれを恐れてその後会うのを避けるようになったと思ったんだろう。
「違うよ。あの日のことは隆之介くんのことが嫌だったわけじゃないんだ。むしろ逆っていうか……」
「逆?」
「うん。その……中学の頃言われたのが、オメガだから誰彼構わずフェロモンで誘惑する奴だとかそんなことで」
「スミくんがそんなことするわけないだろ!」
「自分でもそのつもりだったんだけど、この間隆之介くんにキスされて怖くなったんだ。もしかして自分がフェロモンで無意識のうちに君のことを誘ったんじゃないかって。中学の頃言われたことって、自分では否定してたけど本当は自分にそういう部分があったんじゃないかって――」
「はぁ? そんなんじゃないよ。俺がしたかったからしたの! しかも強引だったし本当に悪かったよ」
僕は首を振った。
「隆之介くんが悪いなんてことないんだ。隆之介くんには感謝しかなくて――僕、中学でそのことがあってから自分の匂いも他の人の匂いも嫌になった。だけど、この家に来たらすごくいい匂いがして僕にとって唯一安らげる場所だったんだ。それが隆之介くんと一緒に出かけるようになったら、外でもマスクをしなくたっていられるようになった。僕にとっては世界が一変したみたいな感覚だったんだ」
「……本当?」
「うん。でも、今日たまたま入った花屋に中学校の時の同級生がいてね」
「え……」
「しかも、彼が昔僕の悪い噂を流してた女性と結婚したって言うんだ」
さっきの渡辺との話を思い出すと胃が痛くなりそうだ。だけど、今は隣に隆之介がいてくれるので苦しくはなかった。
「あの頃の嫌な思い出しか無い同級生に何事もなかったように世間話をされてさ。今どうしてるんだ、とか……。はは、僕がメンタル弱いだけなんだけどね。昔のことなんて気にするなみたいに言われてパニックになっちゃって。しかもマスクするのも忘れてて、怖くなって……昔のことを思い出してどんどん呼吸が苦しくなったんだ」
「そういうことだったのか」
「うん。それで、どうしても苦しくて電話しちゃった」
「スミくん、抱きしめてもいい?」
「え? うん……」
隆之介が隣に座る僕の肩に腕を回して体を引き寄せた。彼の肩に頭を預けたらいい匂いがして、つい思ったことを口にしてしまう。
「こうすると落ち着く。ただこうやってこの家でずっと座ってたいな」
「ずっといたらいい」
「ふふ。昔学校で嫌な思いをしてたとき……僕が学校でなんて言われてるか、隆之介くんにだけは絶対知られたくなかった。だけど今こうやって全部話したらなんだか気が楽になったよ」
「もっと早く話してくれたらよかったのに」
「そうかもしれないね。そしたら、嫌なこともすぐ忘れてしまえたかも」
本当は誰かに打ち明けて、昔の嫌な人たちのことなんて記憶から消してしまえばよかったんだろう。どうせいじめてきた人たちはこちらのことなんてなんとも思っていなかったんだから。
「でも今日話してくれてありがとう。俺、スミくんのことが好きだからスミくんのことはなんでも知りたいって思ってた」
「こっちこそ聞いてくれてありがとう。幻滅させてごめんね。ずっと良いお兄ちゃんでいたかったんだけど」
「俺は、スミくんが良いお兄ちゃんなんて嫌だよ」
「え?」
僕はびっくりして隆之介の顔を見上げた。優しく話を聞いてくれていたけど、もしかして本当に愛想を尽かされた――?
「スミくん俺のこと好きでしょ? 恋愛って意味で。俺は好きだよ。お兄ちゃんとしてじゃなく、男としてスミくんのこと真剣に好きなんだ」
「え――……」
「無意識に誘惑しちゃいそうになるくらいには好きなんだよね? なら俺と付き合ってよ」
「いや、だからそれは僕がオメガで隆之介くんはアルファだからっていうだけで……」
「何年がかりで恋してたと思ってるんだ? 俺はオメガだったら誰でも好きになるような男じゃないよ。スミくんだから好きなんだ。スミくんこそ、アルファだったらキスされただけで誰にでも惚れるの?」
「え、ちがうよ! そんなわけないじゃん」
「ほら。だから俺のこと好きなんだよ。認めてよ、恋してるって」
隆之介が視線をそらせないようにガッチリ僕の頬を両手で包んだ。至近距離でこのいい匂いに包まれるのがどれだけ僕にとって抗いがたいことだかわかっているんだろうか――いや、多分わかっているんだ。
「はい……好き、です」
「はぁ、長かった。言っておくけど俺、小学生の頃からスミくんのこと好きだから」
「え? なんだよ、僕だって昔から好きだったよ」
「いーや。俺のほうが早く好きになったね。恋愛って意味で」
「いやいや、僕だって……」
むきになって反論しようとして隆之介がにやにやしているのに気づいた。それで僕はポロッと本音を漏らした。
「――最初実は総太郎さんのことが好きなのかもって思ってた」
「はぁ!? スミくんアニキのことが好きだったの?」
隆之介が血相を変えて「許せない」と喚いた。
「いや、結局勘違いだったんだけどね。隆之介くんの匂いが結局僕の初恋だったな~って……今思えばだけど」
「……うわ」
総太郎の名前を出した途端怒り出した隆之介が今度は急に赤面した。
「嬉しい……神様ありがとう。俺はスミくんがうちに来なくなってから他の人とも付き合ったけど、やっぱり久しぶりに会った時もうスミくんしかいないって思ったんだ。だからさ、スミくんうちに来なよ」
「え?」
「だって、スミくんこの家好きなんでしょ? もううちで暮らしなよ」
今度遊びに行こうよ、くらいの軽い調子で言われて面食らってしまう。
「……どういう意味かわかって言ってる?」
「うん。結婚して、俺がスミくんの夫になるって意味。アニキ夫婦は今別のところに家建ててるところだし」
いきなり話が飛躍しすぎて僕は焦った。
「いや、どうしてそういう話になるの? 僕たち付き合ってもいないよね」
「いいじゃん、細かいことは。スミくんがうちのこと好きなら住めばいいんだって」
「そういうことじゃないでしょう……隆之介くん強引すぎ」
「昔からそうだったよね?」
「……それはそうだけど……」
――そういう問題じゃないっていうか……。
「俺がわがまま言ってもスミくんはいつもにこにこして言う事聞いてくれたよね?」
隆之介が僕に向けた笑顔はあの頃のままで、僕がノーと言うことなんて想定もしていないようだった。
「わかった――でもいろいろ、順を追っての話だよ」
彼は「じゃあ決まり」と言って僕の額にキスをした。そしてハッとした顔で尋ねてくる。
「あ、ごめんまた勝手にしちゃった。キスしていい?」
僕は頷いて目を閉じた。こちらの様子を気遣うように、そっと唇が重なる。レコードはちょうどピアノの演奏が終わり、会場の拍手音が聞こえてきたところだった。それがまるで僕たちを祝福するようなタイミングだったので目を開けると、同じことを思ったらしい隆之介と視線が合った。
「俺今最高に幸せ」という彼の言葉を聞いて僕も幸せを噛み締めた。彼と一緒なら辛かった過去も「昔のことだ」と思えるような気がした。
〈完〉
――――――
最後までご覧いただきありがとうございました!
最初は隆之介視点の一話完結ショートショートのつもりでしたが、コメントを頂いて両視点の短編になりました。
オメガバースは受け視点だとどうしてもジメッとしがちで思ったより長くなってしまいましたがなんとか完結。
なるべく爽やかになるように心がけたつもりです。いつもと違う雰囲気の話だったので、書いてて悩みましたが勉強になりました。リクエストありがとうございました!
一旦自宅に寄って母に頼まれたものを渡すため玄関で「ただいま」と声を掛ける。すると母がリビングから出てきた。
「おかえりなさい。おつかいご苦労さま――あら? もしかして……隆之介くん?」
「ご無沙汰してます」
隆之介が頭を下げると、母は1オクターブ高い声で言う。
「まぁ、本当に大きくなったのねぇ! さぁどうぞどうぞ、上がってちょうだい」
「あ、いえ。これから行くところがあるんです。また今度改めてご挨拶に来ますので」
「あらそうなの? もしかして澄人も一緒に?」
「はい。遅くならないうちに送り届けますのでご心配なく」
母は「あら」とか「まあ」を連発して驚きつつ、嬉しそうに僕たちを見送った。
「久しぶりに顔を見られて良かったわ。美和子さんにもよろしくね」
美和子さんというのは隆之介の母のことだ。同年代なので気が合うようで、今もたまに連絡を取っているらしい。
僕たちはまだ話し足りなそうな母を残して家を後にした。
◇
今回隆之介が乗ってきた車は以前海に行った時の車じゃなかった。それに隆之介とは違う匂いがしたので聞いてみたところ、友人から借りてきてくれたそうだ。
「無理言ってごめんね。お友達怒ってないかな?」
「仲いい奴だからいいんだよ。俺、スミくんに会えなくて落ち込んでてさ。気晴らしにって友達の家でゴロゴロしてただけだから」
「そうなの? それにしてもごめん……」
数ヶ月前父や兄と訪れて以来久々に山岸家の敷居をまたいだ。やはりここはいい匂いがするし落ち着く空間だ。隆之介の匂いだけじゃなく、家そのものの木材の匂いや庭の植物の香りが重なり合ってそれらが調和しているんだろう。
「いいからいいから。ほら、この前ケルンコンサートのアナログレコード版聴いてみたいって言ってただろ? 父さんが持ってるからこっち来て」
手招きされて、以前僕が倒れた時に寝かされたオーディオルームに案内される。隆之介は目当てのレコードを探し出し、慣れた手つきでプレーヤーにセットしてくれた。針を落として少し待つと、静かにピアノの演奏が始まった。
「母さん出掛けてるみたいだから俺コーヒー入れてくるね」
「ありがとう」
隆之介が勧めてくれたジャズピアノのアルバムが気に入って最近よく聴いている。だから曲は聴き慣れたものだったけど、アナログレコードだと音が少し違って、音楽にそれほど詳しくない僕が聞いてもより柔らかく温かみを感じた。我が家にはないかなり大きなサイズのスピーカーから出る音は、普段イヤホンで聞くのと違い空気を通して耳に触れる振動が新鮮だった。
見慣れない大きなレコードジャケットを眺めながら曲を聴いていたら、隆之介が湯気の立つコーヒーを手に戻ってきた。
「どう?」
「すごくいい。僕の家、ちゃんと音楽聴くための部屋なんてないからこうやってスピーカーから聴く音の違いは知らなかったんだよね」
「そうだよな。俺も親父が好きじゃなかったらわざわざアナログで聴こうと思わなかったと思う。でも最近CDよりレコードの売上って伸びてるみたいだね」
「そうなんだ」
手渡されたコーヒーを口に含むと、苦味と共にふくよかな香りが鼻を抜けていく。
「なんだか贅沢な気分。わがまま言って連れてきてもらった上にコーヒーまでありがとうね」
「おいおい、ただの俺の実家だよ? 本当にスミくんって――こんなことで感謝されたの初めてだよ」
「そうなの?」
「だって、今まで付き合った子たちはあそこのディナー連れてけとか、これを買ってくれとか、まあ大体そんな感じ」
「へぇ……」
僕にしてみれば、お店も知らないし欲しいものが何なのかも自分でよくわからないだけだ。自分としてはそれがつまらない人間のような気がしてならなかった。
「僕、人を避けてきたから誰かとどこかに行きたいとか、何か物を欲しいって気持ちにあまりなったことがないんだ」
「そうなんだね。あのさ、さっきの話だけど聞いてもいい?」
「うん。すごく昔の話だしこんなこと未だに引きずってるの本当に恥ずかしいんだけど、笑わないでくれる?」
隆之介は目を見て頷いた。
「笑ったりしないよ」
「ありがとう。実は……本当はキスしたの、あれが初めてじゃなかった」
「え?」
「えーと、正確には唇の端っこにかすったくらいなんだけど――フェロモンのせいで中学生の時親しくもないアルファの生徒に無理やりされたんだ」
「まじかよ」
隆之介が眉間に皺を寄せた。
「それを別の生徒に見られてて、そのアルファの彼女にも伝わって……中学校時代それが原因でいじめられてたんだ」
「スミくん、そんなことがあったなんて俺知らなくて……この前いきなりキスしてごめん。怖かったよな、本当にごめん」
彼が真剣な顔をして僕の手を握って謝罪してくる。彼はアルファなので、僕がそれを恐れてその後会うのを避けるようになったと思ったんだろう。
「違うよ。あの日のことは隆之介くんのことが嫌だったわけじゃないんだ。むしろ逆っていうか……」
「逆?」
「うん。その……中学の頃言われたのが、オメガだから誰彼構わずフェロモンで誘惑する奴だとかそんなことで」
「スミくんがそんなことするわけないだろ!」
「自分でもそのつもりだったんだけど、この間隆之介くんにキスされて怖くなったんだ。もしかして自分がフェロモンで無意識のうちに君のことを誘ったんじゃないかって。中学の頃言われたことって、自分では否定してたけど本当は自分にそういう部分があったんじゃないかって――」
「はぁ? そんなんじゃないよ。俺がしたかったからしたの! しかも強引だったし本当に悪かったよ」
僕は首を振った。
「隆之介くんが悪いなんてことないんだ。隆之介くんには感謝しかなくて――僕、中学でそのことがあってから自分の匂いも他の人の匂いも嫌になった。だけど、この家に来たらすごくいい匂いがして僕にとって唯一安らげる場所だったんだ。それが隆之介くんと一緒に出かけるようになったら、外でもマスクをしなくたっていられるようになった。僕にとっては世界が一変したみたいな感覚だったんだ」
「……本当?」
「うん。でも、今日たまたま入った花屋に中学校の時の同級生がいてね」
「え……」
「しかも、彼が昔僕の悪い噂を流してた女性と結婚したって言うんだ」
さっきの渡辺との話を思い出すと胃が痛くなりそうだ。だけど、今は隣に隆之介がいてくれるので苦しくはなかった。
「あの頃の嫌な思い出しか無い同級生に何事もなかったように世間話をされてさ。今どうしてるんだ、とか……。はは、僕がメンタル弱いだけなんだけどね。昔のことなんて気にするなみたいに言われてパニックになっちゃって。しかもマスクするのも忘れてて、怖くなって……昔のことを思い出してどんどん呼吸が苦しくなったんだ」
「そういうことだったのか」
「うん。それで、どうしても苦しくて電話しちゃった」
「スミくん、抱きしめてもいい?」
「え? うん……」
隆之介が隣に座る僕の肩に腕を回して体を引き寄せた。彼の肩に頭を預けたらいい匂いがして、つい思ったことを口にしてしまう。
「こうすると落ち着く。ただこうやってこの家でずっと座ってたいな」
「ずっといたらいい」
「ふふ。昔学校で嫌な思いをしてたとき……僕が学校でなんて言われてるか、隆之介くんにだけは絶対知られたくなかった。だけど今こうやって全部話したらなんだか気が楽になったよ」
「もっと早く話してくれたらよかったのに」
「そうかもしれないね。そしたら、嫌なこともすぐ忘れてしまえたかも」
本当は誰かに打ち明けて、昔の嫌な人たちのことなんて記憶から消してしまえばよかったんだろう。どうせいじめてきた人たちはこちらのことなんてなんとも思っていなかったんだから。
「でも今日話してくれてありがとう。俺、スミくんのことが好きだからスミくんのことはなんでも知りたいって思ってた」
「こっちこそ聞いてくれてありがとう。幻滅させてごめんね。ずっと良いお兄ちゃんでいたかったんだけど」
「俺は、スミくんが良いお兄ちゃんなんて嫌だよ」
「え?」
僕はびっくりして隆之介の顔を見上げた。優しく話を聞いてくれていたけど、もしかして本当に愛想を尽かされた――?
「スミくん俺のこと好きでしょ? 恋愛って意味で。俺は好きだよ。お兄ちゃんとしてじゃなく、男としてスミくんのこと真剣に好きなんだ」
「え――……」
「無意識に誘惑しちゃいそうになるくらいには好きなんだよね? なら俺と付き合ってよ」
「いや、だからそれは僕がオメガで隆之介くんはアルファだからっていうだけで……」
「何年がかりで恋してたと思ってるんだ? 俺はオメガだったら誰でも好きになるような男じゃないよ。スミくんだから好きなんだ。スミくんこそ、アルファだったらキスされただけで誰にでも惚れるの?」
「え、ちがうよ! そんなわけないじゃん」
「ほら。だから俺のこと好きなんだよ。認めてよ、恋してるって」
隆之介が視線をそらせないようにガッチリ僕の頬を両手で包んだ。至近距離でこのいい匂いに包まれるのがどれだけ僕にとって抗いがたいことだかわかっているんだろうか――いや、多分わかっているんだ。
「はい……好き、です」
「はぁ、長かった。言っておくけど俺、小学生の頃からスミくんのこと好きだから」
「え? なんだよ、僕だって昔から好きだったよ」
「いーや。俺のほうが早く好きになったね。恋愛って意味で」
「いやいや、僕だって……」
むきになって反論しようとして隆之介がにやにやしているのに気づいた。それで僕はポロッと本音を漏らした。
「――最初実は総太郎さんのことが好きなのかもって思ってた」
「はぁ!? スミくんアニキのことが好きだったの?」
隆之介が血相を変えて「許せない」と喚いた。
「いや、結局勘違いだったんだけどね。隆之介くんの匂いが結局僕の初恋だったな~って……今思えばだけど」
「……うわ」
総太郎の名前を出した途端怒り出した隆之介が今度は急に赤面した。
「嬉しい……神様ありがとう。俺はスミくんがうちに来なくなってから他の人とも付き合ったけど、やっぱり久しぶりに会った時もうスミくんしかいないって思ったんだ。だからさ、スミくんうちに来なよ」
「え?」
「だって、スミくんこの家好きなんでしょ? もううちで暮らしなよ」
今度遊びに行こうよ、くらいの軽い調子で言われて面食らってしまう。
「……どういう意味かわかって言ってる?」
「うん。結婚して、俺がスミくんの夫になるって意味。アニキ夫婦は今別のところに家建ててるところだし」
いきなり話が飛躍しすぎて僕は焦った。
「いや、どうしてそういう話になるの? 僕たち付き合ってもいないよね」
「いいじゃん、細かいことは。スミくんがうちのこと好きなら住めばいいんだって」
「そういうことじゃないでしょう……隆之介くん強引すぎ」
「昔からそうだったよね?」
「……それはそうだけど……」
――そういう問題じゃないっていうか……。
「俺がわがまま言ってもスミくんはいつもにこにこして言う事聞いてくれたよね?」
隆之介が僕に向けた笑顔はあの頃のままで、僕がノーと言うことなんて想定もしていないようだった。
「わかった――でもいろいろ、順を追っての話だよ」
彼は「じゃあ決まり」と言って僕の額にキスをした。そしてハッとした顔で尋ねてくる。
「あ、ごめんまた勝手にしちゃった。キスしていい?」
僕は頷いて目を閉じた。こちらの様子を気遣うように、そっと唇が重なる。レコードはちょうどピアノの演奏が終わり、会場の拍手音が聞こえてきたところだった。それがまるで僕たちを祝福するようなタイミングだったので目を開けると、同じことを思ったらしい隆之介と視線が合った。
「俺今最高に幸せ」という彼の言葉を聞いて僕も幸せを噛み締めた。彼と一緒なら辛かった過去も「昔のことだ」と思えるような気がした。
〈完〉
――――――
最後までご覧いただきありがとうございました!
最初は隆之介視点の一話完結ショートショートのつもりでしたが、コメントを頂いて両視点の短編になりました。
オメガバースは受け視点だとどうしてもジメッとしがちで思ったより長くなってしまいましたがなんとか完結。
なるべく爽やかになるように心がけたつもりです。いつもと違う雰囲気の話だったので、書いてて悩みましたが勉強になりました。リクエストありがとうございました!
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連載ありがとうございました(^^)
ワクワクしながら読ませて頂きました!
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簡潔おめでとうございます&お疲れ様でした(^^)
最後までお付き合いくださりありがとうございました!
そのように雰囲気を感じ取っていただけて嬉しいです♡
ラブラブなところも機会があったらいつか考えてみたいと思います。
感想ありがとうございました(*^^*)
新作発見!続きが楽しみです~
見つけて頂きありがとうございます!
次で最終回の予定で書いております〜(*^^*)
ヒノキのような、ミントのような、サワヤカな香りを想像しながら読んでおります。
感想ありがとうございます!
完全に決めてはいないのですが、ヒノキなど針葉樹系の香りを想定してました(*´-`)