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第六十一話 武蔵、開眼!
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「トーガ殿! 本日も一手ご指南いただきたい!」
そう高らかに叫んだのは、滝壺の横の地面に立っていた武蔵である。
「何度言えば分かる!」
すぐに武蔵のはるか頭上からよく通る声が返ってきた。
「俺は指南などしてはいない! ただ、お前を殺しているにすぎん!」
「それだけで十分です!」
武蔵は喉が張り裂けんばかりの声量で返事をする。
「〈聴剄〉を使えば分かりますぞ! これまでにトーガ殿が俺に技を習得させんがために、わざと力の流れを見やすくして技を出してくれていたことが!」
ほう、とトーガは感心したように頷いた。
「ようやく〈聴剄〉を会得することができたか! お前は力の流れを操ることにかけては天賦の才があるものの、逆に力そのものを大きく多方面に広げて維持することの才が薄かった……ちなみに今はどんな感じだ!」
武蔵は「不思議な感覚としか言えませぬ!」と大声で答えた。
嘘偽りのない事実である。
普段は身体から一寸(約3センチ)ほどの広さで纏っていた〝気〟を、今の武蔵は見上げるほど頭上にいたトーガまで広げていた。
こうなると両目を閉じていても分かる。
すべてではないものの、トーガが考えている一部のことをだ。
本当に不思議な感覚であった。
〈聴剄〉を使っていると、その広げていた〝気〟の範囲内にいる者の一部の考えが文字として頭の中に浮かんでくるのだ。
同時に武蔵は思った。
おそらく、これは普通の〈聴剄〉ではないかもしれない。
「そうだ! 最初の段階の〈聴剄〉は力の範囲内にいる生物の気配や動向しか分からないが、今のお前のようにさらに上の段階の〈聴剄〉を使えるようになると相手の考えすら明確に読み取れるようになる!」
トーガはニヤリと笑って言葉を続けた。
「それこそ〈聴剄〉の派生技――〝読心〟だ……そして、さらに修練を積んでいくと波長の合う者同士と言葉を介さずに頭の中で会話が可能になる!」
などとトーガは口にした。
だが、肝心の武蔵には上手く伝わらなかったようだ。
武蔵は「トーガ殿、誠に申し訳ありませぬ!」と大声を上げる。
「滝の音のせいであまり聞き取れませなんだ!」
トーガは見るからに肩を落とした。
――この未熟者め!
直後、武蔵の脳内に叱咤の文字がはっきりと浮かんでくる。
武蔵は気恥ずかしくなり大きくうな垂れた。
しかし、この場所で離れた相手の声を聞き取るには多少の無理があった。
正確な時刻こそ分からなかったが、日の光を燦々と降り注いでいる太陽が真上にあるということは昼頃なのだろう。
そして、ここは森の中の開けた場所ではない。
荘厳な滝がある渓谷の一角である。
滝口からは大量の水飛沫を上げた水が滝壺へと流れ落ちていた。
その滝の音のせいで武蔵はトーガの声を上手く聞き取れなかったのだ。
しかもトーガは武蔵のはるか頭上の滝口の近くにいるので、滝の音と相まって余計に声が聞き取り難くなっていた。
何せ滝壺近くの苔生した地面に立っていた武蔵から見て、トーガがいる滝口までは十六丈(約50メートル)はあるのだ。
これでは満足に声を聞き取れないのも仕方ない。
と、普通の人間ならば思うに違いなかった。
しかし、トーガから言わせればそんなものは何の言い訳にもならないという。
大勢の人間で埋め尽くされている街中。
敵味方の叫声であふれ返っている戦場。
そのような声自体が上手く働かない場所などにおいて、特定の敵の察知や味方への伝達を効率よく行わなければならないことなど多々ある。
そして、それは巨大な滝がある渓谷だろうと同じだ。
武人としての矜持(プライド)があるのならば、常に音だけに頼らず〈聴剄〉を使って周囲のすべてに敏感になれ。
それだけではない。
常在戦場――常日頃から戦場にいるような心構えでいろ。
この10年の間にトーガから幾度となく指摘されたことである。
「いつまで落ち込んでいるつもりだ、武蔵! 早くこちらに上って来い!」
武蔵はハッと我に返った。
「今すぐに!」
快活に返事をした武蔵は、瞬時に両足に〝気〟を込めて地面を蹴る。
すると武蔵の身体は一跳躍で二間(約3.6メートル)の高さを飛び、そのまま滝の横の断崖を駆け上った。
むろん、手などは一切使わない。
武蔵は断崖から突き出ている岩を足掛かりに、まるで飛翔するかの如く滝口へと昇っていく。
それは文字通り〝飛びながら翔る〟の体現だった。
武蔵は瞬く間に滝壺から滝口まで移動すると、仁王立ちしていたトーガの前に降り立つ。
「〈箭疾歩〉の派生技である〝飛翔〟も中々に様になってきたな。最初の頃の何度も昇っては落ちを繰り返して死んでいたときとは大違いだ」
「これもトーガ殿との闘いのおかげです」
武蔵は感慨深く頭を下げた。
〈箭疾歩〉の派生技――〝飛翔〟。
高速移動で分身を作り出す攪乱技の〝繚乱〟と違い、〝飛翔〟は足場の悪い場所を安全に移動する歩行技に分類される。
上手く使えば垂直に近い断崖を手を使わずに駆け上ることはもちろんのこと、川や毒の沼地なども身体をつけることなく移動する水面歩行も可能だ。
そして今の武蔵が使える〈外丹法〉は〈箭疾歩〉だけではない。
この10年の間にあらかたの〈外丹法〉を使えるようになっていた。
それもすべてはトーガとの実戦を越えた闘いの恩恵に他ならない。
トーガが一つ一つの技の詳細を説明しながら殺してくれたおかげで、神技とも呼べる〈外丹法〉がどうすれぱ使えるのか肉体で分かることが出来たのだ。
これにはひたすらに感謝しかなかった。
おかげで10年前とは比較にならないほど闘いの幅が広がったのだ。
「それで? この10年の間にお前が俺に抱いたのは感謝だけか?」
「いいえ、滅相もない」
武蔵は真剣な眼差しで即答した。
「この切りの良い節目をもって、トーガ殿との別れと致したく存じます」
武蔵の堂々とした物言いに、トーガは「ほう」と嬉しそうに微笑んだ。
「俺に一太刀を浴びせられる工夫がついたか?」
武蔵は力強く「はい」と頷く。
「よかろう……ならば来い!」
トーガは武蔵の視線を真っ向から受け止めながら、長刀と大刀の二刀をそれぞれの手の掌上から顕現させた。
天理の究極形――〈色即是空〉。
魔法の終極形――〈空即是色〉。
トーガの二天一流《にてんいちりゅう》を支える、恐るべき天魔法の二本柱だ。
武蔵は二刀流となったトーガを見て、自身の刀もすらりと抜き放つ。
大刀である〈無銘・金重〉は当然のこと、かつてギガントエイプに叩き折られたはずの小刀も颯爽と抜いて見せる。
武蔵が抜いた小刀は折れてはいなかった。
なぜかこの蓬莱山では、現世で折られたはずの小刀も完全に元通りになっていたのだ。
そしてそれを武蔵が知ったのは10年前のことであり、10年経った今では当たり前のように元通りになった小刀と大刀の二刀流でトーガに挑んでいる。
あれから何万回死んだのだろうか。
トーガと同じく二刀構えになった武蔵は、ふと懐かしさのあまり両目を閉じた。
こうして目を閉じれば走馬灯のように浮かんでくる。
挑んでは殺され、殺されては挑んだ苛烈な死闘の日々。
悔しさなどとっくの昔に捨て去った。
代わりに拾ったのは、絶対にトーガの技をモノにしたいという兵法者の欲だ。
やがてその情念が実を結んだのか、10年経った今では十分ではないが天理も魔法も〈外丹法〉も一通りは扱えるようになった。
それゆえに今となってはトーガの力量の深さに尊敬の念を抱き、同時にトーガと剣を交えられる喜びを心から感じている。
トーガはふっと笑みをこぼした。
「余計な雑念に支配されている限り、俺に一太刀を浴びせられることなど永遠に不可能だぞ」
「むろん、それは嫌と言うほど承知しております」
そう言うと武蔵は静かに両目を開けた。
「む……」
その武蔵の目を見たトーガは低く唸る。
武蔵の目の光からは、相手に勝ちたいという我執が消えていたからだ。
いや、消えていたのは我執だけではなかった。
是が非でも相手に勝ちたい。
自分だけが強くありたい。
何としてでも負けたくない。
兵法者ならば誰でも持つ、勝負への我欲すらも消えていたのである。
無心であった。
もしくは一切のわだかまりがなく、澄み切った心境とも言えただろう。
どちらにせよ、今の武蔵は心身ともに依然とは比べ物にならないほどの高みに達していた。
それは武蔵の目の光から以外でも十二分に見て取れる。
いつの間にか武蔵は独特の構えを取っていた。
感情を剥き出しにしない冷静な顔つき。
二刀を下段に構えていながらも、無駄な力みが一切ない理想的な脱力状態。
武蔵の肉体を中心に、天と地が光の柱で繋がっているような軸のある佇まい。
以前にアルビオン城でアルバートと相対したときにも取った構えであった。
しかし、あのときの構えと今の構えは違う。
見た目は同じ構えに見えても中身が恐ろしく変化している。
アルバートと闘ったときには、武蔵はこの構えでは完全に後の先(カウンター)を取るしか出来なかった。
言い換えればこの構えでは後の先(カウンター)しか出来ないというのが過去の武蔵の見解であったのだ。
だが、今の武蔵はこの構えからでも他に二つの先を取れるようになっていた。
先の先(相手が動作を起こす前に攻撃する)。
追の先(相手が攻撃してきたあとに反撃する)。
などと呼ばれている二つの先である。
「たかが10年でよくぞここまで」
トーガは武蔵の構えを見て破顔すると、すぐに武蔵と同じ無心になる。
そんなトーガを見ても武蔵は心を揺らさず、ありのままのトーガを受け入れた。
剣術、体術、天理、魔法、〈外丹法〉、どれもトーガが上なのは変わらない。
とはいえ、そこで勝つか負けるかを考えて心を乱すなど愚の骨頂。
ゆえに武蔵は何にも囚われない無心となった。
ただ、ひたすらに心技体を磨いてきた宮本武蔵という兵法者を信じる。
その一念のみを貫く一振りの刀と化したのだ。
どれほどの時が経っただろうか。
互いに一歩も動かず自然に溶け込んでいた中、やがて一陣の強風が吹き荒れた。
その強風に乗って、無数の桜の花びらが二人の間に舞い落ちてくる。
やがて最後の桜の花びらの一枚が地面に落ちたとき――二人の姿が一瞬にして消えた。
同時に鋭い空烈音が何度も鳴り響く。
このとき、この場に第三者がいたら驚愕しただろう。
誰もいない場所に土埃と無数の桜の花びらが舞い、空気を切り裂く不気味な音がずっと鳴り続けていたからだ。
だが、そんな不思議な光景もすぐに終わりが来た。
ザッ、と地面を滑る音が二つすると、トーガと武蔵の姿がその場に現れた。
しかし、二人の立ち位置はまったく逆になっている。
そればかりか二人は互いに背を向けた状態で、六間(約十メートル)まで間合いが遠のいていた。
よく見れば構えも最初とは異なっている。
二人とも最初は二刀を下段に構えていたのだが、姿を現してからの二人は身体を前傾にさせながら二刀を振り切ったように大きく両腕を広げていたのだ。
「武蔵……見事だ」
トーガは前方を見つめながら呟く。
次の瞬間、トーガの着流しに「×」の字の亀裂が走った。
続けて傷口から大量の鮮血が噴出する。
「円明流――」
武蔵もトーガに背を向けた状態で唸るように呟いた。
「〈直通二剣〉」
やがて武蔵の目から熱い涙が流れ落ちる。
それは長年の悲願を達成させた、虎の歓喜の涙であった――。
そう高らかに叫んだのは、滝壺の横の地面に立っていた武蔵である。
「何度言えば分かる!」
すぐに武蔵のはるか頭上からよく通る声が返ってきた。
「俺は指南などしてはいない! ただ、お前を殺しているにすぎん!」
「それだけで十分です!」
武蔵は喉が張り裂けんばかりの声量で返事をする。
「〈聴剄〉を使えば分かりますぞ! これまでにトーガ殿が俺に技を習得させんがために、わざと力の流れを見やすくして技を出してくれていたことが!」
ほう、とトーガは感心したように頷いた。
「ようやく〈聴剄〉を会得することができたか! お前は力の流れを操ることにかけては天賦の才があるものの、逆に力そのものを大きく多方面に広げて維持することの才が薄かった……ちなみに今はどんな感じだ!」
武蔵は「不思議な感覚としか言えませぬ!」と大声で答えた。
嘘偽りのない事実である。
普段は身体から一寸(約3センチ)ほどの広さで纏っていた〝気〟を、今の武蔵は見上げるほど頭上にいたトーガまで広げていた。
こうなると両目を閉じていても分かる。
すべてではないものの、トーガが考えている一部のことをだ。
本当に不思議な感覚であった。
〈聴剄〉を使っていると、その広げていた〝気〟の範囲内にいる者の一部の考えが文字として頭の中に浮かんでくるのだ。
同時に武蔵は思った。
おそらく、これは普通の〈聴剄〉ではないかもしれない。
「そうだ! 最初の段階の〈聴剄〉は力の範囲内にいる生物の気配や動向しか分からないが、今のお前のようにさらに上の段階の〈聴剄〉を使えるようになると相手の考えすら明確に読み取れるようになる!」
トーガはニヤリと笑って言葉を続けた。
「それこそ〈聴剄〉の派生技――〝読心〟だ……そして、さらに修練を積んでいくと波長の合う者同士と言葉を介さずに頭の中で会話が可能になる!」
などとトーガは口にした。
だが、肝心の武蔵には上手く伝わらなかったようだ。
武蔵は「トーガ殿、誠に申し訳ありませぬ!」と大声を上げる。
「滝の音のせいであまり聞き取れませなんだ!」
トーガは見るからに肩を落とした。
――この未熟者め!
直後、武蔵の脳内に叱咤の文字がはっきりと浮かんでくる。
武蔵は気恥ずかしくなり大きくうな垂れた。
しかし、この場所で離れた相手の声を聞き取るには多少の無理があった。
正確な時刻こそ分からなかったが、日の光を燦々と降り注いでいる太陽が真上にあるということは昼頃なのだろう。
そして、ここは森の中の開けた場所ではない。
荘厳な滝がある渓谷の一角である。
滝口からは大量の水飛沫を上げた水が滝壺へと流れ落ちていた。
その滝の音のせいで武蔵はトーガの声を上手く聞き取れなかったのだ。
しかもトーガは武蔵のはるか頭上の滝口の近くにいるので、滝の音と相まって余計に声が聞き取り難くなっていた。
何せ滝壺近くの苔生した地面に立っていた武蔵から見て、トーガがいる滝口までは十六丈(約50メートル)はあるのだ。
これでは満足に声を聞き取れないのも仕方ない。
と、普通の人間ならば思うに違いなかった。
しかし、トーガから言わせればそんなものは何の言い訳にもならないという。
大勢の人間で埋め尽くされている街中。
敵味方の叫声であふれ返っている戦場。
そのような声自体が上手く働かない場所などにおいて、特定の敵の察知や味方への伝達を効率よく行わなければならないことなど多々ある。
そして、それは巨大な滝がある渓谷だろうと同じだ。
武人としての矜持(プライド)があるのならば、常に音だけに頼らず〈聴剄〉を使って周囲のすべてに敏感になれ。
それだけではない。
常在戦場――常日頃から戦場にいるような心構えでいろ。
この10年の間にトーガから幾度となく指摘されたことである。
「いつまで落ち込んでいるつもりだ、武蔵! 早くこちらに上って来い!」
武蔵はハッと我に返った。
「今すぐに!」
快活に返事をした武蔵は、瞬時に両足に〝気〟を込めて地面を蹴る。
すると武蔵の身体は一跳躍で二間(約3.6メートル)の高さを飛び、そのまま滝の横の断崖を駆け上った。
むろん、手などは一切使わない。
武蔵は断崖から突き出ている岩を足掛かりに、まるで飛翔するかの如く滝口へと昇っていく。
それは文字通り〝飛びながら翔る〟の体現だった。
武蔵は瞬く間に滝壺から滝口まで移動すると、仁王立ちしていたトーガの前に降り立つ。
「〈箭疾歩〉の派生技である〝飛翔〟も中々に様になってきたな。最初の頃の何度も昇っては落ちを繰り返して死んでいたときとは大違いだ」
「これもトーガ殿との闘いのおかげです」
武蔵は感慨深く頭を下げた。
〈箭疾歩〉の派生技――〝飛翔〟。
高速移動で分身を作り出す攪乱技の〝繚乱〟と違い、〝飛翔〟は足場の悪い場所を安全に移動する歩行技に分類される。
上手く使えば垂直に近い断崖を手を使わずに駆け上ることはもちろんのこと、川や毒の沼地なども身体をつけることなく移動する水面歩行も可能だ。
そして今の武蔵が使える〈外丹法〉は〈箭疾歩〉だけではない。
この10年の間にあらかたの〈外丹法〉を使えるようになっていた。
それもすべてはトーガとの実戦を越えた闘いの恩恵に他ならない。
トーガが一つ一つの技の詳細を説明しながら殺してくれたおかげで、神技とも呼べる〈外丹法〉がどうすれぱ使えるのか肉体で分かることが出来たのだ。
これにはひたすらに感謝しかなかった。
おかげで10年前とは比較にならないほど闘いの幅が広がったのだ。
「それで? この10年の間にお前が俺に抱いたのは感謝だけか?」
「いいえ、滅相もない」
武蔵は真剣な眼差しで即答した。
「この切りの良い節目をもって、トーガ殿との別れと致したく存じます」
武蔵の堂々とした物言いに、トーガは「ほう」と嬉しそうに微笑んだ。
「俺に一太刀を浴びせられる工夫がついたか?」
武蔵は力強く「はい」と頷く。
「よかろう……ならば来い!」
トーガは武蔵の視線を真っ向から受け止めながら、長刀と大刀の二刀をそれぞれの手の掌上から顕現させた。
天理の究極形――〈色即是空〉。
魔法の終極形――〈空即是色〉。
トーガの二天一流《にてんいちりゅう》を支える、恐るべき天魔法の二本柱だ。
武蔵は二刀流となったトーガを見て、自身の刀もすらりと抜き放つ。
大刀である〈無銘・金重〉は当然のこと、かつてギガントエイプに叩き折られたはずの小刀も颯爽と抜いて見せる。
武蔵が抜いた小刀は折れてはいなかった。
なぜかこの蓬莱山では、現世で折られたはずの小刀も完全に元通りになっていたのだ。
そしてそれを武蔵が知ったのは10年前のことであり、10年経った今では当たり前のように元通りになった小刀と大刀の二刀流でトーガに挑んでいる。
あれから何万回死んだのだろうか。
トーガと同じく二刀構えになった武蔵は、ふと懐かしさのあまり両目を閉じた。
こうして目を閉じれば走馬灯のように浮かんでくる。
挑んでは殺され、殺されては挑んだ苛烈な死闘の日々。
悔しさなどとっくの昔に捨て去った。
代わりに拾ったのは、絶対にトーガの技をモノにしたいという兵法者の欲だ。
やがてその情念が実を結んだのか、10年経った今では十分ではないが天理も魔法も〈外丹法〉も一通りは扱えるようになった。
それゆえに今となってはトーガの力量の深さに尊敬の念を抱き、同時にトーガと剣を交えられる喜びを心から感じている。
トーガはふっと笑みをこぼした。
「余計な雑念に支配されている限り、俺に一太刀を浴びせられることなど永遠に不可能だぞ」
「むろん、それは嫌と言うほど承知しております」
そう言うと武蔵は静かに両目を開けた。
「む……」
その武蔵の目を見たトーガは低く唸る。
武蔵の目の光からは、相手に勝ちたいという我執が消えていたからだ。
いや、消えていたのは我執だけではなかった。
是が非でも相手に勝ちたい。
自分だけが強くありたい。
何としてでも負けたくない。
兵法者ならば誰でも持つ、勝負への我欲すらも消えていたのである。
無心であった。
もしくは一切のわだかまりがなく、澄み切った心境とも言えただろう。
どちらにせよ、今の武蔵は心身ともに依然とは比べ物にならないほどの高みに達していた。
それは武蔵の目の光から以外でも十二分に見て取れる。
いつの間にか武蔵は独特の構えを取っていた。
感情を剥き出しにしない冷静な顔つき。
二刀を下段に構えていながらも、無駄な力みが一切ない理想的な脱力状態。
武蔵の肉体を中心に、天と地が光の柱で繋がっているような軸のある佇まい。
以前にアルビオン城でアルバートと相対したときにも取った構えであった。
しかし、あのときの構えと今の構えは違う。
見た目は同じ構えに見えても中身が恐ろしく変化している。
アルバートと闘ったときには、武蔵はこの構えでは完全に後の先(カウンター)を取るしか出来なかった。
言い換えればこの構えでは後の先(カウンター)しか出来ないというのが過去の武蔵の見解であったのだ。
だが、今の武蔵はこの構えからでも他に二つの先を取れるようになっていた。
先の先(相手が動作を起こす前に攻撃する)。
追の先(相手が攻撃してきたあとに反撃する)。
などと呼ばれている二つの先である。
「たかが10年でよくぞここまで」
トーガは武蔵の構えを見て破顔すると、すぐに武蔵と同じ無心になる。
そんなトーガを見ても武蔵は心を揺らさず、ありのままのトーガを受け入れた。
剣術、体術、天理、魔法、〈外丹法〉、どれもトーガが上なのは変わらない。
とはいえ、そこで勝つか負けるかを考えて心を乱すなど愚の骨頂。
ゆえに武蔵は何にも囚われない無心となった。
ただ、ひたすらに心技体を磨いてきた宮本武蔵という兵法者を信じる。
その一念のみを貫く一振りの刀と化したのだ。
どれほどの時が経っただろうか。
互いに一歩も動かず自然に溶け込んでいた中、やがて一陣の強風が吹き荒れた。
その強風に乗って、無数の桜の花びらが二人の間に舞い落ちてくる。
やがて最後の桜の花びらの一枚が地面に落ちたとき――二人の姿が一瞬にして消えた。
同時に鋭い空烈音が何度も鳴り響く。
このとき、この場に第三者がいたら驚愕しただろう。
誰もいない場所に土埃と無数の桜の花びらが舞い、空気を切り裂く不気味な音がずっと鳴り続けていたからだ。
だが、そんな不思議な光景もすぐに終わりが来た。
ザッ、と地面を滑る音が二つすると、トーガと武蔵の姿がその場に現れた。
しかし、二人の立ち位置はまったく逆になっている。
そればかりか二人は互いに背を向けた状態で、六間(約十メートル)まで間合いが遠のいていた。
よく見れば構えも最初とは異なっている。
二人とも最初は二刀を下段に構えていたのだが、姿を現してからの二人は身体を前傾にさせながら二刀を振り切ったように大きく両腕を広げていたのだ。
「武蔵……見事だ」
トーガは前方を見つめながら呟く。
次の瞬間、トーガの着流しに「×」の字の亀裂が走った。
続けて傷口から大量の鮮血が噴出する。
「円明流――」
武蔵もトーガに背を向けた状態で唸るように呟いた。
「〈直通二剣〉」
やがて武蔵の目から熱い涙が流れ落ちる。
それは長年の悲願を達成させた、虎の歓喜の涙であった――。
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彼女なしの独身に平凡な年収。
これといって自慢できるものはなにひとつないが、当の本人はあまり気にしていない。
2匹の猫と穏やかに暮らし、仕事終わりに缶ビールが1本飲めれば、それだけで幸せだったのだが・・・。
「おめでとう♪ たった今、あなたには異世界へ旅立つ権利が生まれたわ」
誕生日を迎えた夜。
突如、目の前に現れた女神によって、弦人の人生は大きく変わることになる。
「40歳まで童貞だったなんて・・・これまで惨めで辛かったでしょ? でももう大丈夫! これからは異世界で楽しく遊んで暮らせるんだから♪」
女神に同情される形で異世界へと旅立つことになった弦人。
しかし、降り立って彼はすぐに気づく。
女神のとんでもないしくじりによって、ハードモードから異世界生活をスタートさせなければならないという現実に。
これは、これまで日の目を見なかったアラフォーおっさんが、異世界で無双しながら成り上がり、その実力がバレて世界に見つかってしまうという人生逆転の物語である。
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