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第3話
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神田白壁町は左官(壁塗りを主とする職人)の棟梁であった安間源太夫が拝領した土地ということもあり、多くの壁塗り職人が住んでいた。
また八代将軍・徳川吉宗に認められて町奉行に抜擢された大岡忠相のお裁きを落語にした「三方一両損」の登場人物、左官の金太郎が住んでいた町でもある。
しかし、白壁町には左官の金太郎以上に有名な人物が住んでいた。
紺屋町から白壁町に足を踏み入れた宗鉄は「萌木のかあや」と言いながら蚊帳を売り歩く蚊帳売りとすれ違いながら、表長屋の先にあった一軒の屋敷に辿り着いた。
正門ではなく裏口の戸を開け、勝手したたる我が家のように中に入っていく。
「先生、おられますか!」
宗鉄は敷地内に入るなり、どこにいるかも分からない屋敷の主に大声で尋ねる。
「先生!」
表通りにまで通るような声を上げながら敷地内を彷徨っていると、やがてどこからか返事が返ってきた。
それでも正確には聞き取れない。
掠れるような声が聞こえるのみ。
「書斎かな?」
玄関をぐるりと避けた宗鉄は書斎に面している裏庭に向かうと、まず目についたのは白黄色の花をつけた柿の木である。
これが秋には綺麗な橙色をした実を生やすことだろう。
宗鉄は柿の木から目線を外す。
裏庭に面した書斎部屋の障子は開け放たれ、中の様子が隈なく一望できた。
十五畳はあろう広々とした部屋には様々な書物が散乱し、長机の上には描きかけの植物の水墨画や珍しい異国の品々が無造作に置かれていた。
「やはりこちらでしたか」
書斎を一望するなり、宗鉄は書斎の隅にいた人物に声をかけた。
「何だ、誰が訪ねてきたかと思ったら宗鉄か」
勝手に敷地内に入ってきたというのに、屋敷の主は特に気にする様子もなく黙々と筆を動かしている。
「珍しいですね、源内先生。今日はお一人ですか?」
「ああ、今日は杉田も中川も来てねえよ」
宗鉄がこの白壁町にまで足を運んだのは、この神田界隈で知らぬ者はいないというこの人物を訪ねてきたに他ならない。
今年四十三になるその人物は針金を少し厚くしたような髪を頭の天辺に乗せる風変わりな髷を結い、切腹人や田舎の侍が着用する浅葱色の着流しを着ていた。
平賀源内。
本草学や蘭学に通じ、長崎遊学の果てに得た知識を元に薬品会、物産会を主催。
他にも風来山人、天竺浪人、福内鬼外などの筆名を使い分けて『根南志具佐』、『風流志道軒伝』などの戯作本を書いて一斉を風靡した人物である。
また異国に対して多大な興味を持ち、時候の寒暖を測定するタルモメイトル(寒暖計)を発明した発明家としても有名であった。
キセルを片手に真剣な表情で戯作の台本を書いていた源内は、宗鉄を直視するなり台本を書くのを止めて煙草を吸い始めた。
源内の口内から吐き出された紫煙はゆらゆらと虚空を漂いながら霧散していく。
「で、普請奉行の三男坊が真っ昼間から俺に何のようだい?」
「何の用だ、はないでしょう。可愛い弟子に向かって」
そう言うと宗鉄は草履を脱いで書斎に上がった。
持っていた麻袋と腰帯に差していた大刀を畳の上に揃えて置き、背筋を伸ばして正座する。
「俺はお前さんを弟子に取った覚えはないんだがな」
「これは異なことを。わたしに本草学や蘭学、そして異国について熱心に教えて下さったのは他でもない源内先生ではありませんか。先生が秩父の金鉱脈の研究に勤しんでいるときもわたしはわたしなりに研鑽を積んできたのですよ」
「そんなもん神田中が知ってるさ。鮎原様の三男坊は異国狂いの……何だったっけな?」
「ああ、鉄砲小僧ですか。それは本当のことですから別にいいですけどね」
宗鉄は「それよりも」と横に置いていた麻袋を手に持ち、口を締めていた紐を緩めて〝何か〟を取り出した。
「ほう、何を持ってきたのかと思えば……それはお前さんの流派の鉄砲かい?」
宗鉄が取り出した〝何か〟とは、三尺三寸(約九十九センチ)の引金保護金具が長いことで知られている関流の火縄鉄砲であった。
鉄製である筒(銃身)は上面一角の丸筒を使用し、火縄を火薬が詰まった火皿に落とすためのカラクリは機構を内部に隠した内カラクリ。
台木(銃床)の右下方に凹みがあり、全体的に艶やかな光沢を放つ黒漆が塗られているのが関流鉄砲の特徴である。
「はい。ようやくわたしも関流の免許を頂戴しましたので、番筒(幕府から貸し出される鉄砲)ではなく持筒(個人所有の鉄砲)を鍛冶師や鋳物師に頼んで造って貰いました」
源内は久しぶりに珍しい品が見られたと眼を輝かせた。
「やはり関流の鉄砲はいつ見ても美しいな。いや、それだけではなくこの鉄砲が造形美以上に抜群の命中精度を誇る機能美を有しているというから恐ろしい。さすが各藩内の武士に人気を博している流派なだけはある」
「だが」と源内は無精髭を擦りながら言葉を続けた。
「なぜ、お前さんたち鉄砲打ちは未だに時代遅れの火縄鉄砲なんて使っているんだ? 異国ではとっくに火縄鉄砲は捨てられ、今では歯輪式の鉄砲が使われているというぞ」
「ええ、それは長崎屋に阿蘭陀人の通事役として滞在していた吉雄幸左衛門先生から伺いました。ですが異国ではその歯輪式鉄砲ですら時代遅れになっているらしいのです。何でも今では引金を引くと、当金と呼ばれる金具が燧石と衝突して火花を生じさせるカラクリになっているとか。しかもその当金は火蓋と一体化しており、衝突時の反動で火蓋が勝手に開くというから驚きです。確か燧石式鉄砲という名前でしたか……」
「そこまで知っていながら火縄鉄砲を使う意味なんてあるのか? こう言っちゃ何だが火縄鉄砲が実戦に不向きなんてことは素人の俺でもわかるぜ。いちいち火薬と玉を銃口から詰めて撃つなんて時間がかかりすぎる。それに火薬を爆発して玉を飛ばすのにも肝心の火種がなくっちゃあ話にならねえときた」
素人と言いながら専門言葉が次々に飛び出てくるところはさすが稀代の天才と謳われた平賀源内である。
本草学に蘭学、その他にも医学や浄瑠璃にも造詣が深かった源内の見識は武芸の域にまで通じていたようである。
だが源内の見識はあくまでも表の面しか捉えていない。
宗鉄は持参した関流の鉄砲を眺めながら反論する。
「源内先生の仰られることはよくわかります。しかし、実際に炮術を修練したわたしに言わせれば火縄を使った鉄砲ほど実戦向きの武芸はないと思います。確かに柔術や剣術の遣い手と突発的に野で仕合うとなれば不利となるでしょうし、迅速に玉を装填できるように改良された異国の鉄砲に比べれば火縄鉄砲は玉を撃ち出すのに時間を有します」
宗鉄は正座の姿勢から左膝だけを立てた膝台という最も安定した姿勢に移行し、誰もいない書斎の奥に向かって鉄砲を構えた。火縄こそ火挟みに挟んでいないが、実際に鉄砲を撃つ構えを取った宗鉄の全身からは並々ならぬ迫力が放射された。
それは宗鉄の目の前にいた源内が誰よりも感じていた。源内はごくりと唾を飲み込み、急に浮き上がってきた額の汗を手の甲で拭う。
そんな源内を横目に、鉄砲を構えた宗鉄は毅然とした態度で言葉を紡いでいく。
「それでもわたしたちは火縄鉄砲を使って修練を続けてきました。それはどの武芸の流派にも通ずる『一撃必倒』ならぬ『一発必中』の域に自分の技を昇華させるためです。それには異国の鉄砲では駄目なのですよ。異国の鉄砲は玉の装填こそ迅速に可能ですが、いかんせん火薬の着火時に発生する衝撃が強大なのです。それ故に異国の鉄砲では『一発必中』の域に達しにくい。それが未だにわたしたちが火縄鉄砲を使う理由です」
「なるほどねえ。伊達に火縄鉄砲を使っているわけではないってことか」
煙草盆にキセルを軽く叩きつけて灰を落とした源内は、「お前の言い分はよくわかったから鉄砲を構えるのは止めてくれと」と宗鉄に注意した。
「あ、これは失礼しました。どうも鉄砲を持つと構えてしまう癖が抜けなくて」
はっと我に返った宗鉄は鉄砲を畳の上に置いて再び正座の姿勢になった。呆れ顔になっていた源内に深々と頭を垂れる。
一方、源内は胡坐を掻いた膝の上に頬杖をつくと、眉間に深く皴を寄せた。
「まあ、それは別にいいんだけどよ。そう言えばお前さんは何しにここへ来たんだ? 異国談義をするためなら鉄砲など持ってこないだろうに」
「さすが源内先生。相変わらず勘が鋭い」
宗鉄は満足そうに大きく頷く。
「実は本日先生を訪ねたのは、ある願いを聞き入れて欲しいと思ったからです」
「願いだと?」
神妙な顔つきで両腕を組んだ源内に対して、宗鉄は口の端を微妙に吊り上げた。
「はい。聞くところによると先生は再び長崎に遊学をするらしいですね。現在書かれている浄瑠璃の台本もその長崎遊学をするための資金に充てるためだとか」
「お前は相変わらず地獄耳だな。もうそんなことまで嗅ぎつけたのか」
このとき源内が執筆していた浄瑠璃の台本は『神霊矢口渡』と題され、この年の一月に上演されて江戸中の評判を集めたものであった。
そしてこの『神霊矢口渡』を書いた目的は二度目の長崎遊学に宛がう資金を得るためだったのだが、後世では神田神社の名前を広めるために住職に依頼されて書いたとされている。
「だが間違うなよ。戯作の台本を書いているのはあくまでも副業だ」
「それは重々承知していますよ、源内先生。先生の本業は異国の文化を研究する学者。そのために再び長崎へ遊学するというのでしょう」
「よくわかってるじゃねえか」
源内は煙草盆に置いていたキセルを手に取ると、口に咥えて大仰に煙草を吹かした。遠い目で天井を見上げながら紫煙を吐き出す。
「以前の長崎遊学は久保桑閑先生のお供として行ったんだが、当時の俺は金がない代わりに異国の文化を学ぼうとする情熱だけは人一倍でな。何を見ても宝の山と思ったもんさ」
話を聞いていた宗鉄は目を欄と輝かせて身を乗り出す。
「羨ましい。長崎にはさぞ珍しい異国の品々があったのでしょう?」
「当然だ。港には絶えず阿蘭陀の商船が停泊し、出島の大店には異国の薬草や絵皿などが途轍もない値段で売っていたもんだ。その他にもミコラスコビューン(顕微鏡)やプロジェクトレーン(映写機)などの珍しい機械もあった。そうそう、通事役として出島を案内してくれた吉雄政九郎さんに異国の料理もご馳走してもらったな。知っているか? 異国では家畜である豚や牛を普通に食うんだぞ」
「へえ、薬食いではなくてですか?」
「無論だ」
当時はまだ獣肉が庶民の食膳に上ることはなかった。
それは天武天皇五年(六七六年)に獣肉を食することを禁じた風習が未だに残っていたからだ。
ところが例外的に獣肉を食することがあった。
それは一般的に『薬食い』と言い、病気に見舞われたときや身分が高い大名が狩猟の際に仕留めた獲物の肉を〝薬を食する〟という口実をつけて食べていたのである。
「さすが長崎ですね。先生が一度目の長崎遊学を果たしたのは宝暦二年(一七五二年)ですから、今だともっと町並みは異国一色に様変わりしているのでは?」
「そうだな。あれから十五年以上の年月が経っているんだ。そりゃあ当時よりは様変わりしているだろう――」
「先生!」
突如、宗鉄は腹の底から大声を出した。
また八代将軍・徳川吉宗に認められて町奉行に抜擢された大岡忠相のお裁きを落語にした「三方一両損」の登場人物、左官の金太郎が住んでいた町でもある。
しかし、白壁町には左官の金太郎以上に有名な人物が住んでいた。
紺屋町から白壁町に足を踏み入れた宗鉄は「萌木のかあや」と言いながら蚊帳を売り歩く蚊帳売りとすれ違いながら、表長屋の先にあった一軒の屋敷に辿り着いた。
正門ではなく裏口の戸を開け、勝手したたる我が家のように中に入っていく。
「先生、おられますか!」
宗鉄は敷地内に入るなり、どこにいるかも分からない屋敷の主に大声で尋ねる。
「先生!」
表通りにまで通るような声を上げながら敷地内を彷徨っていると、やがてどこからか返事が返ってきた。
それでも正確には聞き取れない。
掠れるような声が聞こえるのみ。
「書斎かな?」
玄関をぐるりと避けた宗鉄は書斎に面している裏庭に向かうと、まず目についたのは白黄色の花をつけた柿の木である。
これが秋には綺麗な橙色をした実を生やすことだろう。
宗鉄は柿の木から目線を外す。
裏庭に面した書斎部屋の障子は開け放たれ、中の様子が隈なく一望できた。
十五畳はあろう広々とした部屋には様々な書物が散乱し、長机の上には描きかけの植物の水墨画や珍しい異国の品々が無造作に置かれていた。
「やはりこちらでしたか」
書斎を一望するなり、宗鉄は書斎の隅にいた人物に声をかけた。
「何だ、誰が訪ねてきたかと思ったら宗鉄か」
勝手に敷地内に入ってきたというのに、屋敷の主は特に気にする様子もなく黙々と筆を動かしている。
「珍しいですね、源内先生。今日はお一人ですか?」
「ああ、今日は杉田も中川も来てねえよ」
宗鉄がこの白壁町にまで足を運んだのは、この神田界隈で知らぬ者はいないというこの人物を訪ねてきたに他ならない。
今年四十三になるその人物は針金を少し厚くしたような髪を頭の天辺に乗せる風変わりな髷を結い、切腹人や田舎の侍が着用する浅葱色の着流しを着ていた。
平賀源内。
本草学や蘭学に通じ、長崎遊学の果てに得た知識を元に薬品会、物産会を主催。
他にも風来山人、天竺浪人、福内鬼外などの筆名を使い分けて『根南志具佐』、『風流志道軒伝』などの戯作本を書いて一斉を風靡した人物である。
また異国に対して多大な興味を持ち、時候の寒暖を測定するタルモメイトル(寒暖計)を発明した発明家としても有名であった。
キセルを片手に真剣な表情で戯作の台本を書いていた源内は、宗鉄を直視するなり台本を書くのを止めて煙草を吸い始めた。
源内の口内から吐き出された紫煙はゆらゆらと虚空を漂いながら霧散していく。
「で、普請奉行の三男坊が真っ昼間から俺に何のようだい?」
「何の用だ、はないでしょう。可愛い弟子に向かって」
そう言うと宗鉄は草履を脱いで書斎に上がった。
持っていた麻袋と腰帯に差していた大刀を畳の上に揃えて置き、背筋を伸ばして正座する。
「俺はお前さんを弟子に取った覚えはないんだがな」
「これは異なことを。わたしに本草学や蘭学、そして異国について熱心に教えて下さったのは他でもない源内先生ではありませんか。先生が秩父の金鉱脈の研究に勤しんでいるときもわたしはわたしなりに研鑽を積んできたのですよ」
「そんなもん神田中が知ってるさ。鮎原様の三男坊は異国狂いの……何だったっけな?」
「ああ、鉄砲小僧ですか。それは本当のことですから別にいいですけどね」
宗鉄は「それよりも」と横に置いていた麻袋を手に持ち、口を締めていた紐を緩めて〝何か〟を取り出した。
「ほう、何を持ってきたのかと思えば……それはお前さんの流派の鉄砲かい?」
宗鉄が取り出した〝何か〟とは、三尺三寸(約九十九センチ)の引金保護金具が長いことで知られている関流の火縄鉄砲であった。
鉄製である筒(銃身)は上面一角の丸筒を使用し、火縄を火薬が詰まった火皿に落とすためのカラクリは機構を内部に隠した内カラクリ。
台木(銃床)の右下方に凹みがあり、全体的に艶やかな光沢を放つ黒漆が塗られているのが関流鉄砲の特徴である。
「はい。ようやくわたしも関流の免許を頂戴しましたので、番筒(幕府から貸し出される鉄砲)ではなく持筒(個人所有の鉄砲)を鍛冶師や鋳物師に頼んで造って貰いました」
源内は久しぶりに珍しい品が見られたと眼を輝かせた。
「やはり関流の鉄砲はいつ見ても美しいな。いや、それだけではなくこの鉄砲が造形美以上に抜群の命中精度を誇る機能美を有しているというから恐ろしい。さすが各藩内の武士に人気を博している流派なだけはある」
「だが」と源内は無精髭を擦りながら言葉を続けた。
「なぜ、お前さんたち鉄砲打ちは未だに時代遅れの火縄鉄砲なんて使っているんだ? 異国ではとっくに火縄鉄砲は捨てられ、今では歯輪式の鉄砲が使われているというぞ」
「ええ、それは長崎屋に阿蘭陀人の通事役として滞在していた吉雄幸左衛門先生から伺いました。ですが異国ではその歯輪式鉄砲ですら時代遅れになっているらしいのです。何でも今では引金を引くと、当金と呼ばれる金具が燧石と衝突して火花を生じさせるカラクリになっているとか。しかもその当金は火蓋と一体化しており、衝突時の反動で火蓋が勝手に開くというから驚きです。確か燧石式鉄砲という名前でしたか……」
「そこまで知っていながら火縄鉄砲を使う意味なんてあるのか? こう言っちゃ何だが火縄鉄砲が実戦に不向きなんてことは素人の俺でもわかるぜ。いちいち火薬と玉を銃口から詰めて撃つなんて時間がかかりすぎる。それに火薬を爆発して玉を飛ばすのにも肝心の火種がなくっちゃあ話にならねえときた」
素人と言いながら専門言葉が次々に飛び出てくるところはさすが稀代の天才と謳われた平賀源内である。
本草学に蘭学、その他にも医学や浄瑠璃にも造詣が深かった源内の見識は武芸の域にまで通じていたようである。
だが源内の見識はあくまでも表の面しか捉えていない。
宗鉄は持参した関流の鉄砲を眺めながら反論する。
「源内先生の仰られることはよくわかります。しかし、実際に炮術を修練したわたしに言わせれば火縄を使った鉄砲ほど実戦向きの武芸はないと思います。確かに柔術や剣術の遣い手と突発的に野で仕合うとなれば不利となるでしょうし、迅速に玉を装填できるように改良された異国の鉄砲に比べれば火縄鉄砲は玉を撃ち出すのに時間を有します」
宗鉄は正座の姿勢から左膝だけを立てた膝台という最も安定した姿勢に移行し、誰もいない書斎の奥に向かって鉄砲を構えた。火縄こそ火挟みに挟んでいないが、実際に鉄砲を撃つ構えを取った宗鉄の全身からは並々ならぬ迫力が放射された。
それは宗鉄の目の前にいた源内が誰よりも感じていた。源内はごくりと唾を飲み込み、急に浮き上がってきた額の汗を手の甲で拭う。
そんな源内を横目に、鉄砲を構えた宗鉄は毅然とした態度で言葉を紡いでいく。
「それでもわたしたちは火縄鉄砲を使って修練を続けてきました。それはどの武芸の流派にも通ずる『一撃必倒』ならぬ『一発必中』の域に自分の技を昇華させるためです。それには異国の鉄砲では駄目なのですよ。異国の鉄砲は玉の装填こそ迅速に可能ですが、いかんせん火薬の着火時に発生する衝撃が強大なのです。それ故に異国の鉄砲では『一発必中』の域に達しにくい。それが未だにわたしたちが火縄鉄砲を使う理由です」
「なるほどねえ。伊達に火縄鉄砲を使っているわけではないってことか」
煙草盆にキセルを軽く叩きつけて灰を落とした源内は、「お前の言い分はよくわかったから鉄砲を構えるのは止めてくれと」と宗鉄に注意した。
「あ、これは失礼しました。どうも鉄砲を持つと構えてしまう癖が抜けなくて」
はっと我に返った宗鉄は鉄砲を畳の上に置いて再び正座の姿勢になった。呆れ顔になっていた源内に深々と頭を垂れる。
一方、源内は胡坐を掻いた膝の上に頬杖をつくと、眉間に深く皴を寄せた。
「まあ、それは別にいいんだけどよ。そう言えばお前さんは何しにここへ来たんだ? 異国談義をするためなら鉄砲など持ってこないだろうに」
「さすが源内先生。相変わらず勘が鋭い」
宗鉄は満足そうに大きく頷く。
「実は本日先生を訪ねたのは、ある願いを聞き入れて欲しいと思ったからです」
「願いだと?」
神妙な顔つきで両腕を組んだ源内に対して、宗鉄は口の端を微妙に吊り上げた。
「はい。聞くところによると先生は再び長崎に遊学をするらしいですね。現在書かれている浄瑠璃の台本もその長崎遊学をするための資金に充てるためだとか」
「お前は相変わらず地獄耳だな。もうそんなことまで嗅ぎつけたのか」
このとき源内が執筆していた浄瑠璃の台本は『神霊矢口渡』と題され、この年の一月に上演されて江戸中の評判を集めたものであった。
そしてこの『神霊矢口渡』を書いた目的は二度目の長崎遊学に宛がう資金を得るためだったのだが、後世では神田神社の名前を広めるために住職に依頼されて書いたとされている。
「だが間違うなよ。戯作の台本を書いているのはあくまでも副業だ」
「それは重々承知していますよ、源内先生。先生の本業は異国の文化を研究する学者。そのために再び長崎へ遊学するというのでしょう」
「よくわかってるじゃねえか」
源内は煙草盆に置いていたキセルを手に取ると、口に咥えて大仰に煙草を吹かした。遠い目で天井を見上げながら紫煙を吐き出す。
「以前の長崎遊学は久保桑閑先生のお供として行ったんだが、当時の俺は金がない代わりに異国の文化を学ぼうとする情熱だけは人一倍でな。何を見ても宝の山と思ったもんさ」
話を聞いていた宗鉄は目を欄と輝かせて身を乗り出す。
「羨ましい。長崎にはさぞ珍しい異国の品々があったのでしょう?」
「当然だ。港には絶えず阿蘭陀の商船が停泊し、出島の大店には異国の薬草や絵皿などが途轍もない値段で売っていたもんだ。その他にもミコラスコビューン(顕微鏡)やプロジェクトレーン(映写機)などの珍しい機械もあった。そうそう、通事役として出島を案内してくれた吉雄政九郎さんに異国の料理もご馳走してもらったな。知っているか? 異国では家畜である豚や牛を普通に食うんだぞ」
「へえ、薬食いではなくてですか?」
「無論だ」
当時はまだ獣肉が庶民の食膳に上ることはなかった。
それは天武天皇五年(六七六年)に獣肉を食することを禁じた風習が未だに残っていたからだ。
ところが例外的に獣肉を食することがあった。
それは一般的に『薬食い』と言い、病気に見舞われたときや身分が高い大名が狩猟の際に仕留めた獲物の肉を〝薬を食する〟という口実をつけて食べていたのである。
「さすが長崎ですね。先生が一度目の長崎遊学を果たしたのは宝暦二年(一七五二年)ですから、今だともっと町並みは異国一色に様変わりしているのでは?」
「そうだな。あれから十五年以上の年月が経っているんだ。そりゃあ当時よりは様変わりしているだろう――」
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