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第一章 ~『クッキーと兄』~
しおりを挟むクレアに両親の記憶はない。物心ついた時には養子としてアイスバーン公爵家で育てられていたからだ。
しかしぼんやりとだが、亡くなった母親を夢に見る。顔は鮮明ではないが、向けられた言葉だけは記憶に残っている。
『優しい人になりなさい。そうすれば必ず幸せになれるから』
夢が終わり、目を覚ますと、窓から夕陽が差し込んでいた。調理器具が並んでいる光景から、厨房でクッキーを焼いている際中に寝てしまったことを思い出した。
「お昼寝してしまいましたね」
婚約者であるルインとの関係性を良好にするには、サーシャを妬んでも意味はない。それよりむしろ、彼を振り向かせる方向性で努力した方が建設的だ。
(優しさはどんな困難も乗り越える武器になるはずですよね)
愛情をこめたクッキーをプレゼントすれば、きっとルインの心も動くはずだ。そう信じてオーブンからクッキーを取り出すと、こんがりとキツネ色に焼けていた。
これならきっと喜んでもらえるはずだ。そう信じていると、兄のギルフォードが近づいてくる。
「美味しそうな匂いがすると思ったらクッキーを焼いていたんだね」
「ルイン様へのプレゼントなんです」
「それは羨ましいね」
「よければ味見してみますか?」
「いいのかい?」
「もちろんですよ」
「では頂くね」
クレアが味見するより、同じ男性であるギルフォードの意見の方が参考になるはずだ。そう考え、クッキーを差し出すと、受け取った彼は小さく齧る。
「アーモンドを砕いて混ぜているんだね。サクサクしていて美味しいよ。きっとこれなら、ルインも気に入るはずだ」
「ふふ、料理は得意ですから」
「昔はあんなに苦手だったのにね」
幼い頃のクレアは料理を失敗し、包丁で手を切ることも日常茶飯事だった。いつしか料理にも慣れ、得意だと胸を張れる腕前へと成長したのである。
「あの頃の手の傷はもう残っていないのかい?」
「回復魔法で治療しましたから。小さな傷痕さえ残っていませんよ」
「さすが、癒しの力だね」
ギルフォードは感心するが、クレアの心中は複雑だった。
回復魔法は他に使い手を聞いたことがないほどに珍しい力だ。自分が特別な力を持つ恐怖と、誰かの役に立てるかもしれない期待が、感情を混じわらせていたのだ。
「念のため確認するよ。ルインにも回復魔法の話はしてないよね?」
「はい、お兄様との約束ですから」
クレアは回復魔法の使い手であると秘密にするよう言い含められていた。なぜ秘密にしなければならないのか、それは十八歳の成人のタイミングで教えてくれるとの約束になっている。
「今週末でクレアも十八歳。君が回復魔法を使える秘密も明らかになる」
「……なんだか不安になりますね」
「怖がることはないよ。君にとって悪い話ではないからね。それに成人の誕生日だ。盛大に祝うから楽しみにしていて欲しい」
「私は家族から祝ってもらえるだけでも十分に幸せですよ」
「その言葉は嬉しいけどね。クレアを祝福したい人は君が思っている以上に多いんだ。素直に受け入れて欲しいな」
家族以外からの祝福と聞き、クレアは首を傾げる。彼女の交友関係はさほど広くない。祝ってくれそうな人たちについて、すぐにピンとは来なかった。
(もしかして使用人の皆さんを招待してくれるのでしょうか……)
貴族のパーティに使用人をゲストとして招くことは通常ならありえない。だが成人の誕生日だけは特別に許されるのかもしれない。
「ふふ、今から成人するのが待ち遠しいです」
クレアは当日を心待ちにする。自然と笑みも零れるのだった。
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