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〇.真月記
7.転機の日
しおりを挟む蒼と白と金、リストリア王家の紋と母の家印を刺したブリオーを、リースティアは指先で何度も撫でた。
着ることが叶うと思っていなかったこの花嫁衣装は、亡き父母たちが用意していた布地を使い、最後の仕立てを姉姫が行なってくれたものだ。
肌着の刺繍は今日のため自らが。
胴から腰を後ろのリボンで締めるのが最近の流行りだったが、都合上それは無理だったので、胸元にたっぷり襞を寄せて、すぐ下で落とす形になっている。
「リースティア、綺麗ね」
振り向くと、白と翠を基調とした神子服姿の姉姫が、白い花冠を手に微笑んでいた。
「……姉さま」
一つに編み込まれたリースティアの金色の髪に、早朝手ずから摘み編んだ薔薇の花冠を飾乗せ、シーアは満足げに頷く。
まだ少女の可憐さが勝る妹には、小房の一輪花が良く似合う。
「もうお兄さまったら大変よ。“やっぱり許すんじゃなかった、今からでも中止に”ってごねて皆に叱られていたわ」
くすくすと柔らかな笑い声を立てたシーアは、花婿側から貢ぎ物として渡された薄い絹のベールで、潤んだ瞳の妹姫を包み込んだ。
心持ちふっくらした身体をその上からそっと抱きしめる。
彼女の不安ごと、受けとめるように。
「……本当は私もお兄さまも、あなたをこんな風に手放したくないのよ。あちらで何かあれば、すぐに言うのよ?」
「姉さまったら」
大丈夫、とリースティアは答える。
拗ねた見方をしていた今までの自分が馬鹿だったと思うくらい、充分に兄姉に愛されていると、わかったから。
「一人じゃないんだもの。頑張れるわ」
仄かに膨らんだ胎に手をあて、微笑んだ妹からは、母親としての自信が見てとれた。
そこに、考えも行動も幼かったつい先日までのリースティアの面影は、ない。
妹の成長を喜ぶべきだと分かっていても、面白くないと思う自分がいる。兄もそうだろう。
むう、とシーアは子どものように唇を尖らせた。
「あの愚か者のところになんて、やりたくないわ。やっぱりあのときに叩っ斬っとけばよかった」
空を斬る動作を付けながら言う姉に、妹は吹き出す。
「姉さまがそんなことばかり言うから、あの人、大の大人だというのに、姉様の前に出るときいつも怖がっているのよ」
「当たり前よ、我が家の大事な妹を泣かせておいて、額突いたくらいで許されると思ったら大間違いなんだから」
ブツブツと繰り事を返す姉に、リースティアは笑った。
その曇りない笑顔に、シーアは密かに安堵の息を漏らす。
操られた部分もあったとはいえ、身も心も捧げた恋人に裏切られ、泣いていた影はもう見えない。
あの日、アレイストとの話し合いを終えて戻ったシーアが目にしたのは、妹に跪き、すがりつく勢いで許しを乞うているエイスールの姿だった。
妹の懐妊を知った兄王は、にこにこしたまま剣に手を伸ばし、「うん、じゃあ殺しておこうか」とそのままエイスールの処刑を実行しようとするし、収めるのが大変だったのだ。放っておこうかとも思ったが。
結局、身持ちを疑うようなひどい言葉を向けられたとはいえ、あちらの事情を知ったリースティアがほだされ、エイスールの改心もどうやら真実のようなので――改めて、求婚を受け、こうして結婚の日を迎えた。
が、やっぱり面白くないのは面白くない。
リースティアが選び、幸せになるのなら、と我慢しているだけで、兄もシーアも花婿にイヤミでも言わなきゃやってられない、と思っている。
この件に関しては、なにがあろうとも譲れない。
――それに。
「私にも出来ることがあるんだもの。この子と一緒に、守護様一族との最初の架け橋になるわ」
微笑む妹を、シーアはもう一度抱きしめる。
妹を贄にするつもりはなかったが、この状況が、望まずともそうなってしまった。
リースティアは、この後エイスールと共に、彼らに与えられた領地に入ることになっている。
本来なら、ディルナシアがすべきはずの、役目を持って。
彼ら――吸血の一族と、リストリア王家の密約の質として。
リースティアの腹の子のこともあり、シーアは兄と妹、腹心にだけ彼ら一族の事情を話した。
アレイストの求めていることは、伏せて。まだ自分でも飲み込みきれていないことがあった故に。
兄と妹は、驚きはしたものの、どこか納得したようにそれを受け入れた。
彼らが吸血を必要とする生き物であること。
そのチカラを利用して、リストリアを他国の干渉から守るということ。
その対価として、彼らをリストリアの民として受け入れること、一定の糧を望まれていること。
一族の長であるアレイストはおそらく信用できるが、そうではない者もいるだろうこと。
ただし一方的な搾取は彼らの掟でも禁じられていること。
彼らに与えた領地がシーアのものであったことと、神事に関することを司る民が住まう地であることを合わせ、彼女自身がそこへ入り、監視を担う質になると、告げた。
それに否を唱えたのは、リースティアだった。
「お姉さまは兄上を支えるお仕事があるでしょう。神子姫は、民のすぐそばにいらっしゃらなければ。
私がエイスール様に嫁ぐことを、利用してください。長く芽生えなかった彼らの血を引く子を身籠った私は、あちらでは優位な立場です。お姉さまが信頼する神官を付けてくだされば、私でもお役に立つことが出来ます」
「リース……」
もう少し、妹に落ち着きを持ってと頭を痛めていたのはつい先日のこと。
だけれど、こんな風に妹に大人になって欲しいわけではなかった。
そしてそれが逃れられないことだということも、わかっている。
決断したのは国王だった。
「リースティア、成し遂げよ」
「謹んで、陛下」
初めて与えられた王よりの命令に、リースティアは瞳を輝かせ膝を折った。
ずっと、求めていた。
自分という人間が役に立てる場所を。庇護されるだけでなく、兄姉の為に行動する時を。愛した男を謀ろうと、優先順位は我が国、民にある。
リースティアは間違いなく、二人の妹。リストリア王族の一人だった。
神子の錫杖を持ち、式の出を待っているディルナシアの隣に、彼らの民族衣を着たアレイストが並ぶ。
彼は装飾を最低限に剥ぎとった剣を腰に、灰に黒と紫を重ねた刺繍で光沢を出した上衣を着ていた。布を巻き付け帯で止める形の衣服は、東の匂い。
リストリアの結婚は、基本両名が神官に対し宣誓をするだけで終わるものだ。
しかしリースティアとエイスールの婚姻は、異なる二つの種族が融合する最初の事例。
その為、変則的だが神子姫であるディルナシアと真族の長であるアレイスト二人が揃って式を司り、国王に承認されるという形を取ることになった。
続くものが出るかどうかは今のところ不明だが――
日の光が照らす回廊。
準備を終えて皆が待つ広間へ向かうシーアは、長く引く裳裾を払いながら、不機嫌に呟いた。
「ああ……やっぱり無しにしたいですわ」
「姫、いまさらそれは。エイスールもすっかり改心しましたから」
というかアレイスト自身も、アレがあそこまで色ボケるとは思っていなかったのだが。
どこかヒトを下に見ていて従兄弟は、子を宿した末姫に一度拒絶食らってから、彼女への情を隠さなくなった。
こちらにしてみれば、目を疑わんばかりだ。
長の従兄弟、補佐、一番近しい血を引く者として、アレイストに崇敬と無意識な反発、屈折した感情をエイスールが抱えていたのは知っている。
もしかしたら長に成り代われるかもしれない位置にいる。
しかし近くにいるだけ、自身がアレイストを凌ぐ能力を持っていないことを教えられる。
自分より下位の者を嘲笑って、その実、どうしたってアレイストには勝てない自分のことを嘲笑っていた、彼。
リースティアは、エイスールのそんな不安定さを無意識に察し自然に受け入れていた。
そうして、自分の感情を受け止める存在を手に入れ、彼は安定した。
それは父になる自覚からくるものなのか、アレイストにはわからない。
飄々とした世慣れた男の仮面を被った、存外生真面目だったエイスールは、小さな妻にかしずくことを今では楽しんでいる。
長らく一族に生まれなかった次代を、アレイストでなく、彼が成せたことが、自信を生んだ。
一族の歴史の中でも、ずば抜けて能力が高いアレイストは、その一族の血の濃さ故に誰よりも長い寿命を持つ。そして、それ故に子孫の誕生は見込めないだろうと推測されている。
先を繋ぐのは、エイスールの嗣子だろう。
従兄弟の鬱屈に関しては、原因でもある彼が、手出しできる問題でもなかった為に、末姫に丸投げにしてしまった感もあった。
アレイストは自分の目線より少し下に頭がある神子姫を見下ろす。
この時代の娘としては行き遅れの域に入る、稀代の姫。以前聞いた話を裏付けるように、彼女には色恋沙汰の気配がまるでない。
意図を持って接近してみても、気づかず別の警戒心を煽ってしまう始末。
それなりに気安くなったような気はするのだが。主に、八つ当たりという方向で。
――子とか先とか、こちらはそれ以前の問題だな、と暗澹たる面持ちで、彼はこっそりため息を吐き出した。
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