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Ⅰ. How came it to be so?
08. 彼女の戸惑い、そして
しおりを挟む「ちょっと遅くなったな。晶子、大丈夫か?」
ハンドルを握りながら助手席にぐったり背を預けた婚約者に、宇都木は声を掛けた。
が、当の晶子は答えるどころではない。
半分寝たふりで宇都木の視線から逃れつつ、必死に数時間前のことを頭から消し去ろうとしていた。
――無駄な抵抗だとわかっていても。
どんよりとくぐもる倦怠感が腹部に残り、初めて触れられた身の奥は、いまだ違和感と熱を持っている。
それよりも何よりも、まざまざと見せつけられた異性の欲に衝撃を覚えていた。
その行為がどういったものか、知らなかったわけではない。そこまで箱入りではない。
ただ、外部から取り入れた知識は、知識でしかなかったということだ。
それを一部なりとも実際に経験した今となっては、羞恥と居たたまれなさに、頭を抱えて転がり回りたい、と思う晶子だった。
本当に、宇都木と結婚する気がないのならば、くちづけも受け入れてはいけなかった。指先も触れることを許してはいけなかった。
押しに弱い自覚はあったが、ここまで自分が流されやすいとは。
あろうことか、疑似行為にまで至るなど――穴を掘って埋まりたい。
これからは毅然とした態度で彼を拒まないと、ハッと気づけば結婚していましたなんてことになりかねない。
(もうダメ! ちょっと気持ちいいからってボンヤリ流されちゃダメなの! 何がなんでも拒否なの!)
拳を握りしめて、決意を表す晶子は、すでにかなり手遅れであることを理解していなかった。
「晶子」
「ひゃう!」
眉間にタテ皺を入れ、自分の考えに没頭していた晶子は、つっと髪を引っ張られて、我に返る。
キョトキョトと瞬いて、いつの間にか自宅前に着いていたことに慌てた。
「ああ、ありがとうございますっ」
焦りのあまり、シートベルトを外す手が上手く動かない。金具が引っ掛かってしまっているようだった。
手間取っている彼女を見かねてか、宇都木が手を伸ばす。囲いこまれた腕から宇都木の匂いを感じて、付随して脳裏に蘇った光景に、一人で赤くなった。
彼の熱を潤んだところに押し付けられ、快楽の種を擦られて、意識を飛ばしたあと。動かない体を清められて、少しだけ腕の中で眠ってしまった。眠りから覚めて目を開けると、じっと寝顔を見ていた宇都木がいた。
甘く溶けるような眼差しが、頭から離れない。
本当に、愛されているのかもしれないなんて、誤解するような、眼差しが。気のせいに違いないのに。
(ああああもううううっ、どっか行けー! 妄想ううぅー!!)
顔を赤くし、微妙に逃げ腰になった晶子に、宇都木は唇を上げる。
何を考えていたのか読み取ったかのような笑みに、晶子が怒りともつかない恥ずかしさに身を震わせた。
自分がこんなにアタフタしてしまうのは誰のせいだと耳元で怒鳴りたい。密着している今なら出来る。
しかし悲しいことに、そこまでの度胸は晶子には備わっていなかった。
晶子に出来るのは、せいぜいこうして胸の内で悪態を付くくらいだ。
いつかこの澄まし顔を崩してやりたい。八つ当たりじみた考えで、そこにある宇都木の整った顔を睨んでいると、ちょん、と口に何かが触れる。
何か、だなんて、それは宇都木の唇でしかないのだけれど。
チュッと軽いリップノイズを立てて、キスを奪われた。
ポカンと軽く開いた唇をもう一度塞がれて――侵入を許してしまう。
ほんの少し前の決意は何処へ行ってしまったのか。
「んっ……は、ぅん……っ」
押し付けられた舌に呼吸を乱されるまま、晶子は目の前の男にしがみついた。
おさまっていた熱が、また上がる。
濡れた唇を最後に舐め取られ、荒い息を吐いている晶子を見て、宇都木が苦笑した。
「しまったな。そんな顔で返すと叱られそうだ」
そんな顔ってどんな顔? 熱い頬を押さえながら晶子は首を傾げた。
「来週は仕事が立て込んでて、会いに来れないかもしれないけど、電話はするから」
ふらつく足で車から降りた晶子に、宇都木が車の窓を開け、そう断りを入れてくる。
忙しい人だとはわかっていたので頷いて、「無理しなくていいですよ」と言うと、「無理はするよ。浮気されちゃかなわないから」意味不明な言葉を返された。
またありえないことを、と晶子が眉をひそめていると、更に重ねて「特にあの我妻くんとやらとは二人きりにならないように」と真顔の宇都木。
念押しされて、訳がわからないながらも頷いた。
見送るために後ろに下がった晶子だったが、道の対面からやって来る車に気づいて、足を止めた。
ぐんぐん近づいてくる灯りに避けた方が良いだろうかと考えていると、家の手前で停車する。長距離タクシーだった。
運転手が出てきて、後部座席のドアを開ける。
「ありがとう。荷物も下ろしてくださる?」
従うことが当然だと思わせる、艶やかな美声。
そうして、車から降り立ったのは、久しぶりに顔を見る姉の紅美香だった。
「お姉ちゃんっ」
晶子が思わず漏らした声に、振り返った紅美香は、あら、と長いまつげを瞬いて、「ただいま晶子」と明るく帰宅の言葉を投げ掛けてくる。
相変わらずの華やかな美女っぷりに、血が繋がってるなんて嘘だと思いつつ、「ただいまじゃないでしょ」と長い不在に対する叱責を浴びせかけ、晶子はギクリとした。
姉の視線が後ろの人物に移る。
「……こんばんは」
悪戯っぽい猫のように目を細めて――にこりと微笑んだ姉を見て、宇都木がどんな顔をしていたのか、振り返って確かめることは、できなかった。
「あっちで出来た友人にお土産たくさんもらったの! 持ち帰りはこれだけだけど、後から送られてくるから。瑠璃ー! るりるり、おねぇちゃん帰ってきたわよー!」
「紅美ちゃんうるさい」
一ヶ月の不在などなかったかのように、帰ってきたとたん家を賑やかす紅美香に両親も苦笑を禁じ得なかったらしい。
困った子ね、と柔らかな叱責とも言えない声が聞こえてくる。
晶子は家の奥で繰り広げられている団欒に混ざれもせず、玄関に佇んでいた。
――どうして、何でもない風に。
宇都木と顔を合わせた彼の本来の見合い相手であった姉は、軽く挨拶したあとは全く興味もないように、家に入っていった。
「ずいぶん長く留守にされていたんだね」と言った宇都木も、特に何を思ったようには見えなかった。
宇都木が姉に会えば、自分との疑似婚約関係は終わる。そう思っていた。
姉と自分、並べてみれば比べようもない。宇都木も、すぐに思い直して姉を選ぶだろうと。
それとも、表面を取り繕っただけなのだろうか。
数時間前抱き合っていた相手から即座に姉に乗り換えるなどと、対面が悪いという計算が働いたのだろうか。
こんな風に考えるのは、宇都木に失礼だと思う。
けれど、信じきれるものが何もない自分には、どうすればいいのかわからない。
それ以前に、彼を信じたいのかもわからない。
信じたいものが、そこにあるのかすら、晶子はまだわかっていないのだ。
賑やかな居間に背を向けて、晶子は階段を上がった。
「晶子ったらー! お土産あるって言ったのに、どうして来ないの!」
姉の襲撃を受けたのは、晶子が自室に戻ってすぐのこと。
紙袋をいくつも手に引っかけて、騒がしく部屋に入ってくる。
妹の呆れたまなざしも気にせず姉はその場で荷物を広げ始めた。その大半が衣服。鼻歌混じりにハンガーラックにかけていく。
踊るように背中で長い髪が揺れる。
「お姉ちゃん? 服なら自分の部屋に持っていきなよ」
「何言ってるの。これアンタのよ。ちゃあんと似合うの選んできてあげたからね。着ないとお仕置きよ。それからー、」
待て、と晶子は思う。少なくとも今、姉が出した服は十着を越えていなかったか。しかも、色も形も普段自分がおよそ着用しない物ばかり――
「あとコレッ! じゃーん、最高級フランスレースを使ったランジェリー! ウェディングの時にも使えるのよぅー」
丁寧に包まれた薄紙からびらりと姉が取り出したのは、真っ白な下着の数々。
目眩を覚えた。
晶子だって綺麗な物は好きだ。目の前にある繊細に花を象ったレースだって、素敵だと思う。
しかし……!
「うわー。エロす」
おそらくあれも土産なのだろう、ショートボブの頭にレースとリボンで飾られたヘッドドレスを被ったパジャマ姿の瑠璃が、ドアの外で呟いた。
そう。そうなのだ。
純白の生地、繊細なレース、柔らかなリボン。言葉を並べればこんなに清楚だというのに、何故か目の前に展示された下着は、どこかエロティックな雰囲気を醸し出している。
ブラジャー、ショーツ、ガーターベルト、スリーインワン、ベビードール。晶子が身に付けたこともないような物まで揃っていた。
「すげえスケスケ。紅美ちゃん、初心者の晶ちゃんにはちょっとハードル高すぎない?」
「お相手がアレでしょう? 『恥ずかしいけど背伸びして頑張ってます』なーんて演出したほうが、あちらも燃えるんじゃないかしらー」
「なに言ってるのなに言ってるの!?」
紅美香の揶揄に真っ赤になった晶子だったが、姉はそんな妹を見てニンマリする。
「うふふん、留守の間に随分と女っぽい身体になったじゃない。可愛がられてるのねー」
つるりと晶子の頬を撫で、紅美香は艶やかに笑んだ。瑠璃が頷く。
「手間ヒマかけてお料理されちゃってる感じだよね」
宇都木とのアレコレを見通しているかのような姉と妹の言葉に、晶子は赤面したまま口を開閉することしかできない。
何故わかるのか。身体のサイズは以前と変わりはないというのに、自分でも何かが違うと気づいていた。
いや、今はアレコレを斟酌している場合ではない。それよりもまず、確認しなければならない問題があるはずだ。
「お、お姉ちゃん、そもそもどうして見合いをすっぽかしたりなんか……!」
部屋の主そっちのけでワードローブの整頓にかかっていた紅美香は、晶子の言葉にクルリと振り向き赤い唇を拗ねたように尖らせた。
「だって、好みじゃなかったんだもの」
でも、柏原のおじさまたちの紹介だしそう簡単に断れないし、しかも旅行に行くことは決まってたし、だったら晶子に回しちゃえーって。
何の罪悪感も持っていない姉の発言に、晶子はカッとなる。
「そんないい加減な……っ」
「いいじゃん、結果オーライだよ。あちらさん、晶ちゃんにらぶらぶだし」
上の姉に対して声を上げかけた次の姉を末っ子が遮った。
らぶ……などと実情とかけ離れた単語を耳にした晶子が固まる。
あらぁ、と弾んだ声を上げて紅美香が手を打った。
「なら良かったわ。晶子もまんざらじゃないんでしょ。奥手のアンタがイロイロ許しちゃってるみたいだし」
良くない許してない、という晶子の主張は聞いてもらえなかった。
夜遅くにシャワー浴びてきましたなんて丸わかりの姿でなに言ってんのー、とは瑠璃の言。
あらあらあらウフフフフ、いいのいいのわかってるから~、と理解顔をした紅美香が歌うように微笑む。
姉が宇都木に対して何の感情も抱いていないことは、多少の安心を晶子に与えたが――何故、安心するのか、その気持ちからは目を逸らした。
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