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第三部 宰相閣下の婚約者

【アンジェス王宮Side】護衛騎士サタノフの別離(べつり)・(前)

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 イデオン宰相に鞍替えした犬。

 レイフ・アンジェス殿下にとっては、自分はその程度の認識だ。
 そもそも名前さえ覚えられてはいなかった。

 そして、その認識を業腹だと思うほど、殿下の側で仕えていたわけでもなかった。殿下の側には、実家の爵位の高い者たちが中心になって配されていたからだ。

 斥候。捨て駒。かませ犬。
 特殊部隊にいた間は、自分や「同僚」のキリーロヴ・ソゾンは、その程度の存在だと自他ともに認識をしていた。

 恩義などないし、ましてや忠義などあろうはずもない。
 生きていくためには金が必要で、政争に敗れた家の末裔ともなれば、その稼ぎ先は限られていたのだから。

 殿下にとっては、金で動く下っ端。有象無象。自分を特殊部隊の一員と認識したのは、専用の通路を使ったからこそだった。

 だが皮肉にも特殊部隊が解散状態となったが故に、自分が殿下に認識をされるようになったのだ。
 認識が「犬」から「サタノフ家の亡霊」に変化した。

 だからというわけではないが、王の茶会で〝痺れ茶〟を飲まされ、フラフラの状態で歩く殿下を放ってはおけなかった。
 一見すると普通に歩いているようで、分かる者には分かるのだ。
 げに素晴らしきは王族の矜持というべきか。

 護衛如きの手を借りるようなことは為されないだろうから、近くにいた、騎士を装う〝鷹の眼〟の一人に目くばせをして、誰に言われるでもなく、殿下が部屋に向かうまでを見届けることにする。

 もともとイデオン宰相からのサレステーデ行きのを受けていたと聞くし、今更政争の敗北を受けて死を選ぶようなことはなさらないだろう。それは、王も言っていたことだ。

 レイナ様は五公爵会議の場に呼ばれるようだから、何人もの〝鷹の眼〟が公認で紛れているはずで、だからこそこの行動が取れたというべきだった。
 さすがに殿下かレイナ様かと問われれば、今は迷わずレイナ様を優先する。
 あくまでもレイフ殿下は元上司だ。

 ただ、何か嫌な予感がしたのだ。
 だから黙って殿下の後ろを歩いた。

「!」

 その瞬間、日の光が射す方角に、煌めきが見えた。

「殿下!」
「な……っ」

 飛び込んで、剣を抜いたところに誰かが激突する負荷がかかる。
 剣戟の音も聞こえたからには、想定できる事態は一択――誰かが剣を抜いて、殿下に斬りかかったということだけだ。

「おのれ……っ、子爵家の亡霊ごときが邪魔を……‼」
「⁉」

 かかった負荷を押し返したと同時に聞こえたのは、怨嗟の声。
 そのことで、それが聞き覚えのある声だと分かり――目を細めて相手を確認した。

「……副隊長?」

 間違いない。かなりくたびれた様相ではあるものの、剣を構えて対峙したその相手は、特殊部隊の当時の副隊長だ。

 特殊部隊が解散同然となった時に、どこかの貴族家の護衛として囲いこまれたと耳にした気もするが、レイフ殿下に近い立ち位置にいたということは、取り巻きの一人であり、自分たちのような下っ端など視界にも入っていなかったはずだった。

「なぜ……アンタが殿下を……」

 鍔迫り合いをやめ、いったん双方が後ろに下がって距離をとるものの、相手は激昂した状態で「うるさい、どけ!」と声高に叫び返した。

「特殊部隊を解散させ、仕えた者たちを路頭に迷わせかけただけでは飽き足らず、今度は新たに仕えた家が取り潰されるかも知れないなどと! どこまで俺たちを追い込めば気が済む⁉ これが憤らずにいられようか!」

「……取り潰し?」

 元特殊部隊の副隊長を前に、殿下を振り返って心当たりを聞くような真似は出来ない。
 だが、殿下が一瞬何のことかと考えている空気は背中越しにも読み取れた。

「なるほど……目の前のこの男がイデオン宰相に鞍替えをした犬なら、さしずめおまえはナルディーニ侯爵に鞍替えをした犬だったか」

「っ!」

 副隊長の目が大きく見開かれ、そしてすぐにわなわなと身体を震わせた。

 なるほど、どうやら殿下にとっては下っ端だろうと取り巻きだろうと、等しく「犬」でしかなかったということなのかも知れない。

 いっそあっぱれな割り切りぶりだと思うのは、イデオン宰相の周辺の面子を何人も見てきたからだろうか。
 驚きも失望も、怒りすら湧いてこないのは、経験の差だろうか。

 もっとも下っ端だった自分と違い、副隊長にまで任じられながら、その程度の認識でしかなかったという事実を突きつけられては、憤る以外のことは出来ないのだろうが。

「ふん……ナルディーニ侯爵とその息子が呼びつけられたのに付いて来ていたか……しかし、王宮内の護衛の体制としては不備があろうな?」

「……まことに」

 いくら相手が元特殊部隊の隊員だったとしても、だ。
 王宮内で王族が襲撃されたとなれば、護衛騎士の存在意義に関わる。
 体制の不備と言われれば、ここは私も大人しく認めるしかなかった。

「ナルディーニ侯爵家は、領主と息子だけではなく護衛もどうやら腐っていたらしい……私は本当に調なんだがな」

 レイフ殿下が忌々しげに舌打ちをしている。
 王族らしからぬ仕種ではあるが、それだけ現状に苛立っているということなんだろう。

「申し訳ありません。これが片付いたら警備体制の見直しを殿下が進言していたと伝えさせていただきます」

「せいぜい嫌味ったらしく伝えておけ。どうせこの騒ぎで人が不足しているからと、真っ先に私の周辺が削られたのであろうよ。どうせじきにいなくなる上に、万一があったところでさほど堪えぬであろうからな」

「殿下……」

「それで、おまえはアイツよりも腕は上なのか」

 正直なところ、なんとも――と、答えようとはしたのだが、そう口を開く前に相手が再びこちらへと斬りかかってきたため「殿下、お下がりを!」としか答えることが出来なかった。

 通常、護衛ともなれば2~3人で組んで動くものなのだが、気配を探っても誰も反応をしない。

 自分以外に陰で護衛をしていたはずの者は、既に倒されたのか。そこはさすがに、腐っても元特殊部隊副隊長ということなのだろう。

 幹部と下っ端の立ち位置では、互いが実力を知りようもない。副隊長だったという事実は忘れて向き合うしかなかった。

 何度も何度も剣のぶつかり合う音が廊下に響き渡る。
 そろそろ誰か駆けつけてきてもいいだろう、と相手の注意を逸らす機会をそこにあてはめようと耳を澄ます。

「ぴぃぃぃぃぃっ‼」
「…………は?」

 だがそこに聞こえてきたのは、思いもしなかった「声」だった。

「なんだ……っ⁉」

 視界の先、廊下の奥から飛び込んできた白い塊が、見事に副隊長の後頭部に蹴りを命中させている。
 そしてそれに唖然となったその瞬間、副隊長の胸から、自分のものでも副隊長のものでもない、第三者の剣の切っ先がずぶりと突き出ていた。

「――リファ、優秀。持ってきた魔獣の肉、ぜんぶやる」
「ぴぴっ!」

 聞こえてきたのは、かつての所属部隊で唯一、今も交流を続ける男の声と……の声だ。

「……キーロ……リファ……」

















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