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第三部 宰相閣下の婚約者
742 銀の骸が見た夢は(中)
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「……珍しいことではない。去年までは私もそう思っていたのです」
両膝を立て、起こした上半身を両腕で支えた姿勢のまま、アルノシュト伯爵が苦い声でそう呟いた。
「去年の申告前、グラーボやイシードルといった地域の寄り親にあたるラコマール男爵からの、税収減と合併の報告書を目にして、ふと息子のことが気にかかり……」
勘当して、既にアルノシュトの名さえ名乗ってはいないものの、良からぬ企みに巻き込まれでもすれば、そんな言い訳が通るとは思えない。
だから毎年、真面目に修行をしているのがどうかだけは、邸宅の人間にこっそり確認させていたらしい。
「……それで病の床にあった息子を見つけた、と?」
直前に怒鳴りつけた余韻を声に滲ませたまま問いかけたエドヴァルドに、アルノシュト伯爵は首を力無く横に振った。
「その時はまだカトル――いえ、息子の師にあたる人物が、病で銀細工を施すことが出来ない状態だったくらいで、村人の多くはイシードルに移住をしていました。グラーボの土地の方が痩せていて作物の収穫がままならず、職人たちの自給自足に差し障りが出てきていたが故の移住だったと」
以前家庭教師に教わった範囲を振り返ってみれば、地方行政のレベルでは、不作の土地の改善と言ったところにまではどこもなかなか着手が出来ていないと聞いた気がする。
新たに土地を開墾するか、あるいは近隣の村や街に移り住むケースが従来から基本としてまかり通っていたために、余計に誰も不審に思わなかったようなのだ。
不作の原因が水質汚染だなどと誰も思わないし、そのうえ公共事業の責任者が今や故人となったクヴィスト公爵であることを思えば、尚更だったかも知れない。
もちろんクヴィスト公爵家の義務として、何もやっていないわけはないし実務を担う長官とているわけだけれど、他の貴族家よりも選民思想が強かったらしい家の特性、イデオン公爵家との日ごろからの反目度合いからすれば、もしもアルノシュト伯爵が周辺地域の不作を訴え出ていたとしても、エドヴァルドからクヴィスト家に話が下りた時点で後回しにされていた可能性は高かった。
とは言え、それが決してアルノシュト伯爵が報告をしなくていいと言う理由にはならない。
特にエドヴァルドが公爵位だけではなく、宰相位をも所持しているからには、領地の異変と日ごろの反目の有無など、比較することさえも問題外なのだから。
「……その後しばらくして、イシードルの村の長からの手紙が伯爵邸に届けられました」
間を置いて続けられたアルノシュト伯爵の言葉には、苦さに加えて隠し切れないほどの動揺が垣間見えていた。
「長が手紙を託した時点で、既に村には長自身と息子カトルとの二人しかおらず……ひょっとしたら手紙が届く頃には、誰もいなくなっているかも知れない――と」
「――――」
私は思わず眉間に皺を寄せてしまった。
離れたところにいるエドヴァルドも、然りだ。
「恐らくはカトルが私の息子であると言うことを誰かから聞いていたのでしょう。だから手紙はラコマール男爵を通さず、直接アルノシュト伯爵邸に届けられた」
「……息子は生きていたんだな」
「正確にはカトルただ一人が、です。と言っても、伯爵邸から人を遣った時には、もう一人で立って歩くことさえも出来ない状態でしたが」
「その時点で既にアルノシュト伯爵領だけに留めておける話ではないと思わなかったのか」
伯爵ではあるものの、領主としての才覚は恐らくオルセン侯爵よりも遥かに上。
レイフ殿下派閥であることは横に置いても、それはエドヴァルドすら暗に認めていることだったから、気付かないはずがないと思ったんだろう。
エドヴァルドの問いかけに、アルノシュト伯爵はふいと視線を横に逸らした。
「……閣下の仰った通りです」
「何?」
「邸宅に引き取った息子は夜な夜な魘され、貴族でなくなった自分の境遇に憤って村を呪ったわけでも、病を持ち込んだわけでもないと、何日も何度も譫言を繰り返した。何が起きたのか確かめようとすればするほど、周囲からは息子が原因で病が一帯の村に広がったかのように扱われていた話しか残っていなかった」
病が広がれば広がるほど、人々は誰かの所為にせずにはいられなくなる。
いつの間にか地図から消えていた村の情報など、山を一つ越えればもう届かない。
だからこそナータン村ではファルコの姉が槍玉に上げられ、グラーボとイシードルが合併した村では元アルノシュト伯爵令息・カトルがその標的となった。
そこに悪意はなく、ただ、発症のタイミングが溜まっていた人々の鬱憤と絶望にマッチしてしまった。
恐らくは地図から消えた他の村でも、同じ様なことは起きていただろう。
「瘦せ細り、とうとう寝台からも出られなくなった息子の姿を見た後、妻は壊れました」
「⁉」
予想だにしなかったアルノシュト伯爵の話に、私の脳裡をゴシックロリータ衣装に身を包む夫人の姿がよぎる。
エドヴァルドは僅かに片眉を動かしただけで、そのままアルノシュト伯爵に話の続きを促していた。
「一見すると、そうは見えないかも知れません。ただ、妻の中で息子の存在が黒く塗りつぶされてしまった。妻にとっては、あの邸宅は今でも私と二人暮らし。息子はグラーボで銀細工の職人修行中なんです」
――記憶の改ざん。
受け止めきれない事実を目の前にしたアルノシュト伯爵夫人は、息子に関する記憶だけを退行させた。
だからずっと、縁組を取り持つ傍ら、アルノシュト伯爵家を継ぐ養子を探すための情報集めを続けて来た。今も。
「だから私は妻のために全てを『なかったこと』にしました。邸宅で療養中なのは、鉱山の崩落事故で亡くなった現場監督の息子。妻はそう思っています」
全てを報告すれば、公爵家あるいは中央から確認と調査のための人が派遣される。
そうなると、今、息子の話さえしなければ日常生活が送れるアルノシュト伯爵夫人の精神がどうなってしまうかが分からない。
「……息子よりも奥方を取ったか」
現代のアンジェス医学で太刀打ちの出来ない現実を目の前に、伯爵は息子を諦めた。
暗にそう仄めかせたエドヴァルドに対し、伯爵も否定をしなかった。
「そもそも銀細工の職人になると家を出た時点で一度切り捨てたのですから、それが元に戻っただけの話です」
「結果として『死の村』が更に川下に広がり、犠牲者を増やすことになった」
「それは……」
「――それが、おまえが今日この場に呼ばれた理由だ、アルノシュト。邸宅の中に未承認の茶葉があったことは、おまえの場合は二の次だ」
「…………」
床についているアルノシュト伯爵の両手が、言葉の代わりにグッと握りしめられた。
両膝を立て、起こした上半身を両腕で支えた姿勢のまま、アルノシュト伯爵が苦い声でそう呟いた。
「去年の申告前、グラーボやイシードルといった地域の寄り親にあたるラコマール男爵からの、税収減と合併の報告書を目にして、ふと息子のことが気にかかり……」
勘当して、既にアルノシュトの名さえ名乗ってはいないものの、良からぬ企みに巻き込まれでもすれば、そんな言い訳が通るとは思えない。
だから毎年、真面目に修行をしているのがどうかだけは、邸宅の人間にこっそり確認させていたらしい。
「……それで病の床にあった息子を見つけた、と?」
直前に怒鳴りつけた余韻を声に滲ませたまま問いかけたエドヴァルドに、アルノシュト伯爵は首を力無く横に振った。
「その時はまだカトル――いえ、息子の師にあたる人物が、病で銀細工を施すことが出来ない状態だったくらいで、村人の多くはイシードルに移住をしていました。グラーボの土地の方が痩せていて作物の収穫がままならず、職人たちの自給自足に差し障りが出てきていたが故の移住だったと」
以前家庭教師に教わった範囲を振り返ってみれば、地方行政のレベルでは、不作の土地の改善と言ったところにまではどこもなかなか着手が出来ていないと聞いた気がする。
新たに土地を開墾するか、あるいは近隣の村や街に移り住むケースが従来から基本としてまかり通っていたために、余計に誰も不審に思わなかったようなのだ。
不作の原因が水質汚染だなどと誰も思わないし、そのうえ公共事業の責任者が今や故人となったクヴィスト公爵であることを思えば、尚更だったかも知れない。
もちろんクヴィスト公爵家の義務として、何もやっていないわけはないし実務を担う長官とているわけだけれど、他の貴族家よりも選民思想が強かったらしい家の特性、イデオン公爵家との日ごろからの反目度合いからすれば、もしもアルノシュト伯爵が周辺地域の不作を訴え出ていたとしても、エドヴァルドからクヴィスト家に話が下りた時点で後回しにされていた可能性は高かった。
とは言え、それが決してアルノシュト伯爵が報告をしなくていいと言う理由にはならない。
特にエドヴァルドが公爵位だけではなく、宰相位をも所持しているからには、領地の異変と日ごろの反目の有無など、比較することさえも問題外なのだから。
「……その後しばらくして、イシードルの村の長からの手紙が伯爵邸に届けられました」
間を置いて続けられたアルノシュト伯爵の言葉には、苦さに加えて隠し切れないほどの動揺が垣間見えていた。
「長が手紙を託した時点で、既に村には長自身と息子カトルとの二人しかおらず……ひょっとしたら手紙が届く頃には、誰もいなくなっているかも知れない――と」
「――――」
私は思わず眉間に皺を寄せてしまった。
離れたところにいるエドヴァルドも、然りだ。
「恐らくはカトルが私の息子であると言うことを誰かから聞いていたのでしょう。だから手紙はラコマール男爵を通さず、直接アルノシュト伯爵邸に届けられた」
「……息子は生きていたんだな」
「正確にはカトルただ一人が、です。と言っても、伯爵邸から人を遣った時には、もう一人で立って歩くことさえも出来ない状態でしたが」
「その時点で既にアルノシュト伯爵領だけに留めておける話ではないと思わなかったのか」
伯爵ではあるものの、領主としての才覚は恐らくオルセン侯爵よりも遥かに上。
レイフ殿下派閥であることは横に置いても、それはエドヴァルドすら暗に認めていることだったから、気付かないはずがないと思ったんだろう。
エドヴァルドの問いかけに、アルノシュト伯爵はふいと視線を横に逸らした。
「……閣下の仰った通りです」
「何?」
「邸宅に引き取った息子は夜な夜な魘され、貴族でなくなった自分の境遇に憤って村を呪ったわけでも、病を持ち込んだわけでもないと、何日も何度も譫言を繰り返した。何が起きたのか確かめようとすればするほど、周囲からは息子が原因で病が一帯の村に広がったかのように扱われていた話しか残っていなかった」
病が広がれば広がるほど、人々は誰かの所為にせずにはいられなくなる。
いつの間にか地図から消えていた村の情報など、山を一つ越えればもう届かない。
だからこそナータン村ではファルコの姉が槍玉に上げられ、グラーボとイシードルが合併した村では元アルノシュト伯爵令息・カトルがその標的となった。
そこに悪意はなく、ただ、発症のタイミングが溜まっていた人々の鬱憤と絶望にマッチしてしまった。
恐らくは地図から消えた他の村でも、同じ様なことは起きていただろう。
「瘦せ細り、とうとう寝台からも出られなくなった息子の姿を見た後、妻は壊れました」
「⁉」
予想だにしなかったアルノシュト伯爵の話に、私の脳裡をゴシックロリータ衣装に身を包む夫人の姿がよぎる。
エドヴァルドは僅かに片眉を動かしただけで、そのままアルノシュト伯爵に話の続きを促していた。
「一見すると、そうは見えないかも知れません。ただ、妻の中で息子の存在が黒く塗りつぶされてしまった。妻にとっては、あの邸宅は今でも私と二人暮らし。息子はグラーボで銀細工の職人修行中なんです」
――記憶の改ざん。
受け止めきれない事実を目の前にしたアルノシュト伯爵夫人は、息子に関する記憶だけを退行させた。
だからずっと、縁組を取り持つ傍ら、アルノシュト伯爵家を継ぐ養子を探すための情報集めを続けて来た。今も。
「だから私は妻のために全てを『なかったこと』にしました。邸宅で療養中なのは、鉱山の崩落事故で亡くなった現場監督の息子。妻はそう思っています」
全てを報告すれば、公爵家あるいは中央から確認と調査のための人が派遣される。
そうなると、今、息子の話さえしなければ日常生活が送れるアルノシュト伯爵夫人の精神がどうなってしまうかが分からない。
「……息子よりも奥方を取ったか」
現代のアンジェス医学で太刀打ちの出来ない現実を目の前に、伯爵は息子を諦めた。
暗にそう仄めかせたエドヴァルドに対し、伯爵も否定をしなかった。
「そもそも銀細工の職人になると家を出た時点で一度切り捨てたのですから、それが元に戻っただけの話です」
「結果として『死の村』が更に川下に広がり、犠牲者を増やすことになった」
「それは……」
「――それが、おまえが今日この場に呼ばれた理由だ、アルノシュト。邸宅の中に未承認の茶葉があったことは、おまえの場合は二の次だ」
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