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第二部 宰相閣下の謹慎事情
544 アンブローシュ(前)
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お店へと向かう馬車の中は、ちゃんと向かい合わせだった。
それまでがそれまでだったので、多分「あれ?」と言う表情を浮かべてしまったのが、エドヴァルドに見えたのかも知れない。
慣れってコワイ。
馬車が走り出した頃、エドヴァルドも私を見て、困った様に微笑っていた。
「恐らくもう、建物内へ案内するための従業員が待機をしている筈だ。〝アンブローシュ〟は王宮主催の晩餐会に招かれて行くことに、服装も作法も準じている。馬車の扉を開けられた時点で、ドレスが着崩れているような事は、あってはならない」
残念だが、と最後の一言だけ顔を寄せて囁かれてしまい、私は声を出す代わりに赤くなってしまった。
「それにそんな話が知られれば、フェリクスに刺される」
確かに。
色といい刺繍の豪奢さといい、並々ならぬこだわりが透けて見える。
きっと小花やリボンの角度ひとつとっても、計算されていないデザインは一箇所もない筈。
これでリボンがずれただの小花が取れただのと、万が一にも知られれば、盛大な雷――と言うか、冗談抜きで刺されてもおかしくはない気がした。
自然にしていて付くかも知れない汚れと、意図的に汚してしまうのとでは、天と地ほどの開きがあるのだから。
「もう、本当に別格のレストランなんですね」
王宮の晩餐会にも準ずる、と言われたところに驚く私に「そうだな」と、エドヴァルドは頷いた。
「元々は王や王族が、親しい人間だけを招いて行う私的な晩餐の為の建物だったらしい。外交含めた公的な客への対応は、王宮内充分に部屋はある訳だしな」
「私的……ですか?」
それは知られちゃマズい人を招くのに使われていたんだろうか――。
先代、先々代のよろしくない噂を聞いた所為か、ちょっとひねくれた見方をしてしまった私に、エドヴァルドは苦笑しつつも否定はしなかった。
「まあ、特定の女性を招いたり、複数の王子がいた時には派閥の結束を強めるのにパーティーを開いたりなどしていた時代もあったらしいが、王族の人数が著しく減った今となっては、紹介状さえあれば、我々高位貴族や官吏の中でも長官職相当の者は利用出来ると聞いている」
ざっくり考えて、政治家が利用する赤坂の料亭……的なイメージで良いんだろうか。
ドラマと小説の読み過ぎかも知れないけど、私なんかがイメージしようとすれば、どうしてもそうなってしまう。
「何となく……ホントに何となくですけど、分かりました。元が王族専用のレストランだったからこそ、別格と言われるんですね」
「貴女の食事の作法は、ヨンナに教わる前から基礎は出来ていたと聞いている。そう気を張らなくても、いつも通りで大丈夫だ」
まだまだ、フォークやナイフを使う習慣が非貴族層には浸透していないところもあるらしく、私が公爵邸に来た当初から、普通にそれらを使って食事をしていたので「それなりの教育は受けている」と、判断されていたらしい。
なるほどそれなら「舞菜の頭の中が花で埋め尽くされている」と気が付くのが、多少遅れていたのも納得だった。
コース料理における、使う順番まで知らなかったとしても、使うだけなら普通に使えるのだし、今のところこの国ではコース料理の概念がなかったのだから。
「……もうすぐ到着だ」
窓の外に一瞬視線を投げたエドヴァルドが、そんな呟きを洩らした。
「馬車移動とは言っても、同じ王都内を移動するわけだしな。見えるか?あの少し傾斜のある丘の上にある建物。……あれが〝アンブローシュ〟だ」
目線で窓の外を見てみるよう促された私は、少しだけ身体を傾けて、外が見える様に身体を動かした。
夕食のために来てはいるけれど、まだ完全に日が暮れていなかったこともあって、赤く染まる空の下、恐らくはアレだろうと言う建物を視界の隅に捉える事が出来た。
「…………あれ、レストランなんですよね?」
私は一瞬絶句してしまい、それだけを口にするのが精一杯だった。
東京都内でフレンチの神様と称えられている三ツ星シェフの名前を持つシャトーレストラン。
駅から歩く歩道で移動した先にある複合商業施設の敷地の一角にあり、外資系超高級ホテルと向かい合って建っていた。
学生である私は、同じ敷地内のイベントホールや写真美術館に用はあっても、別世界の建物として認識していた、アレだ。アレにそっくりだ。
「そうだな。もっとも私も、フォルシアン公爵が夫人を連れて行ったことがあるのを惚気で聞かされていただけで、敷地の中に実際に入ったことはない。――本当に、今日が楽しみだった」
「……っ」
膝の上に置いていた手をそっと握られて、せっかく収まりかけていた頬の赤みが、あっと言う間に元に戻ってしまった。
真顔の筈なのに、冷徹も鉄壁も上回るほどの破壊力のあるこの色気。
どう考えても私の方が負けている。
「貴女の口に合えば良いが」
そう言ってじっとこちらを覗き込むエドヴァルドに、私は動揺して空いた片手を大きく振ってしまった。
「いえ、私がここの格式に負けてます!もう、口の方を合わせます!と言うか、合わないとは思っていませんから!」
この世界に来た時から、公爵邸で口にする料理を、なるべく私の味覚に添うように気を遣ってくれていたのは充分に理解している。
その後、色々な場所で料理を口にしていて、存在している原材料の中で、合わないと思ったものは今までなかった。
もし、ここの料理がシンプルだろうと味が薄かろうと逆に濃かろうと、それはそれで良い思い出になると思うのだ。
「……貴女らしいな」
エドヴァルドがそう、微かに口元を綻ばせたところで、馬車の速度がガクンと落ちた。
すぐに馬車は止まって、扉を留めていたフックがくるりと回されて、カチャリと動かす音が聞こえてきた。
「お館――ごほん、失礼いたしました。旦那様、到着いたしました」
うっかり普段の「お館様」呼びをしかけた〝鷹の眼〟のルヴェックが、慌てて訂正をしている。
格式高いレストランに馭者として来ても浮かない、ゴロツキに見えないとの理由で抜擢されたらしいけど、やっぱり建物を見て動揺と気おくれはしたものと思われた。
うん。むしろルヴェックの気持ちがよく分かるよ。
そう思っている間に扉がスッと開けられて、先にエドヴァルドが馬車の外へと降り立っている。
「――レイナ」
そうして、ごく自然にエスコートの手を差し出してくれているのが見えた。
「あ、ハイ」
もうさすがに、その手は何だろうと思うことはない。
私もエドヴァルドの手に、そっと自分の手を置くようにしながら、馬車の中から外へと降り立った。
それまでがそれまでだったので、多分「あれ?」と言う表情を浮かべてしまったのが、エドヴァルドに見えたのかも知れない。
慣れってコワイ。
馬車が走り出した頃、エドヴァルドも私を見て、困った様に微笑っていた。
「恐らくもう、建物内へ案内するための従業員が待機をしている筈だ。〝アンブローシュ〟は王宮主催の晩餐会に招かれて行くことに、服装も作法も準じている。馬車の扉を開けられた時点で、ドレスが着崩れているような事は、あってはならない」
残念だが、と最後の一言だけ顔を寄せて囁かれてしまい、私は声を出す代わりに赤くなってしまった。
「それにそんな話が知られれば、フェリクスに刺される」
確かに。
色といい刺繍の豪奢さといい、並々ならぬこだわりが透けて見える。
きっと小花やリボンの角度ひとつとっても、計算されていないデザインは一箇所もない筈。
これでリボンがずれただの小花が取れただのと、万が一にも知られれば、盛大な雷――と言うか、冗談抜きで刺されてもおかしくはない気がした。
自然にしていて付くかも知れない汚れと、意図的に汚してしまうのとでは、天と地ほどの開きがあるのだから。
「もう、本当に別格のレストランなんですね」
王宮の晩餐会にも準ずる、と言われたところに驚く私に「そうだな」と、エドヴァルドは頷いた。
「元々は王や王族が、親しい人間だけを招いて行う私的な晩餐の為の建物だったらしい。外交含めた公的な客への対応は、王宮内充分に部屋はある訳だしな」
「私的……ですか?」
それは知られちゃマズい人を招くのに使われていたんだろうか――。
先代、先々代のよろしくない噂を聞いた所為か、ちょっとひねくれた見方をしてしまった私に、エドヴァルドは苦笑しつつも否定はしなかった。
「まあ、特定の女性を招いたり、複数の王子がいた時には派閥の結束を強めるのにパーティーを開いたりなどしていた時代もあったらしいが、王族の人数が著しく減った今となっては、紹介状さえあれば、我々高位貴族や官吏の中でも長官職相当の者は利用出来ると聞いている」
ざっくり考えて、政治家が利用する赤坂の料亭……的なイメージで良いんだろうか。
ドラマと小説の読み過ぎかも知れないけど、私なんかがイメージしようとすれば、どうしてもそうなってしまう。
「何となく……ホントに何となくですけど、分かりました。元が王族専用のレストランだったからこそ、別格と言われるんですね」
「貴女の食事の作法は、ヨンナに教わる前から基礎は出来ていたと聞いている。そう気を張らなくても、いつも通りで大丈夫だ」
まだまだ、フォークやナイフを使う習慣が非貴族層には浸透していないところもあるらしく、私が公爵邸に来た当初から、普通にそれらを使って食事をしていたので「それなりの教育は受けている」と、判断されていたらしい。
なるほどそれなら「舞菜の頭の中が花で埋め尽くされている」と気が付くのが、多少遅れていたのも納得だった。
コース料理における、使う順番まで知らなかったとしても、使うだけなら普通に使えるのだし、今のところこの国ではコース料理の概念がなかったのだから。
「……もうすぐ到着だ」
窓の外に一瞬視線を投げたエドヴァルドが、そんな呟きを洩らした。
「馬車移動とは言っても、同じ王都内を移動するわけだしな。見えるか?あの少し傾斜のある丘の上にある建物。……あれが〝アンブローシュ〟だ」
目線で窓の外を見てみるよう促された私は、少しだけ身体を傾けて、外が見える様に身体を動かした。
夕食のために来てはいるけれど、まだ完全に日が暮れていなかったこともあって、赤く染まる空の下、恐らくはアレだろうと言う建物を視界の隅に捉える事が出来た。
「…………あれ、レストランなんですよね?」
私は一瞬絶句してしまい、それだけを口にするのが精一杯だった。
東京都内でフレンチの神様と称えられている三ツ星シェフの名前を持つシャトーレストラン。
駅から歩く歩道で移動した先にある複合商業施設の敷地の一角にあり、外資系超高級ホテルと向かい合って建っていた。
学生である私は、同じ敷地内のイベントホールや写真美術館に用はあっても、別世界の建物として認識していた、アレだ。アレにそっくりだ。
「そうだな。もっとも私も、フォルシアン公爵が夫人を連れて行ったことがあるのを惚気で聞かされていただけで、敷地の中に実際に入ったことはない。――本当に、今日が楽しみだった」
「……っ」
膝の上に置いていた手をそっと握られて、せっかく収まりかけていた頬の赤みが、あっと言う間に元に戻ってしまった。
真顔の筈なのに、冷徹も鉄壁も上回るほどの破壊力のあるこの色気。
どう考えても私の方が負けている。
「貴女の口に合えば良いが」
そう言ってじっとこちらを覗き込むエドヴァルドに、私は動揺して空いた片手を大きく振ってしまった。
「いえ、私がここの格式に負けてます!もう、口の方を合わせます!と言うか、合わないとは思っていませんから!」
この世界に来た時から、公爵邸で口にする料理を、なるべく私の味覚に添うように気を遣ってくれていたのは充分に理解している。
その後、色々な場所で料理を口にしていて、存在している原材料の中で、合わないと思ったものは今までなかった。
もし、ここの料理がシンプルだろうと味が薄かろうと逆に濃かろうと、それはそれで良い思い出になると思うのだ。
「……貴女らしいな」
エドヴァルドがそう、微かに口元を綻ばせたところで、馬車の速度がガクンと落ちた。
すぐに馬車は止まって、扉を留めていたフックがくるりと回されて、カチャリと動かす音が聞こえてきた。
「お館――ごほん、失礼いたしました。旦那様、到着いたしました」
うっかり普段の「お館様」呼びをしかけた〝鷹の眼〟のルヴェックが、慌てて訂正をしている。
格式高いレストランに馭者として来ても浮かない、ゴロツキに見えないとの理由で抜擢されたらしいけど、やっぱり建物を見て動揺と気おくれはしたものと思われた。
うん。むしろルヴェックの気持ちがよく分かるよ。
そう思っている間に扉がスッと開けられて、先にエドヴァルドが馬車の外へと降り立っている。
「――レイナ」
そうして、ごく自然にエスコートの手を差し出してくれているのが見えた。
「あ、ハイ」
もうさすがに、その手は何だろうと思うことはない。
私もエドヴァルドの手に、そっと自分の手を置くようにしながら、馬車の中から外へと降り立った。
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