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第二部 宰相閣下の謹慎事情

496 氷の世界の片隅で

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 駆け落ちしましょう、なんてギーレンの王宮で言った時には、居合わせたのはシーグではなくリックだった。
 その時周囲にいた〝鷹の眼〟も、今回同行した面子ではない。

 となると、現時点において当時のやりとりを分かっているのは当事者二人だけであり、前段階を知らない者がこの光景を見れば――ちょっとした芝居のクライマックス、それも重要な1シーンを見せられている様なものだ。

 わざと。
 確信犯。

 現にシーグやサラさんなんて、顔を赤らめたり目をキラキラと輝かせたりしている。

 いやいや、待って。冷徹鉄壁宰相の仮面はどこへ。

(ああ……でもあれは〝蘇芳戦記〟上の設定であり、エドヴァルド・イデオンと言う一個人の性格の全てじゃない。私もいつまでもゲームに引きずられていちゃダメなんだよね……)

 結婚をして欲しいと、真摯にこいねがうのは、キャラクターではない一人の男性なのだから。

「こ、今回は表を散歩……ですよ?」
「貴女が誘ってくれるなら、どこであれ、短時間であれ、私は否とは言わない」

 そう言って微かに口元を綻ばせたエドヴァルドは、そっと私の手の甲に口づけを落とした。

 ――もう、私の羞恥心と言う名のライフは限界まで削られているんですが⁉

「とは言え、外と言っても何処へ?あまり遠くまで行くと、昼食を食べそびれてしまうかも知れない」

「そ…れは大丈夫です。あのっ、湖をもう少し近くでじっくり見たいだけなので……っ」

「そうか」

 分かった、と続けたエドヴァルドは、徐に立ち上がると、口づけを落とした後の手を、そのままギュッと握りしめた。

「では行こうか」

 その間、部屋の誰もが茫然とこのやりとりを眺めていて、誰一人それを引き止める事はなかった。

*        *         *

 食事の用意を手伝えない事は非常に心苦しかったのだけれど、何か羽織るものを借りたいとランツァさんに言ったところ「普段王都に住まう様な人が喜ぶものは何もない村よ?」なんて言いながら、非常に生温かい視線と共に、カラハティじゃないけれど、動物の毛皮で出来たストールを二人分貸してくれた。

 ブランケットを二人で羽織っていたら歩けないでしょう?なんて微笑わらっているあたり、厳しいばかりの女性ひとではないと思う。

 ただ「つくづく、ウチの甥っ子は見込みがなさそうね……」なんて呟きが聞こえたのは、敢えて気付かないフリを通した。
 ……多分、エドヴァルドも。

 恋人繋ぎになっている手にちょっと力が入っていたのは、気のせいじゃない筈。

「!」

 エドヴァルドが、屋敷の外へと繋がる扉を静かに押すと、中で感じた以上の冷気が、頬をかすめた。

「湖の方へ向かうのか、レイナ?」
「あっ、はい」

 一歩歩くごとに、パキパキとナニカがひび割れる音がしている。
 やらかしたぬしは前の方を向いたまま、何とも言えない表情を見せていた。

「ええっと……エドヴァルド様」
「……ああ」

 私は、どう説明しようかと頭を巡らせながら、前方の湖を空いた手で指さした。

「あの、湖面上でひび割れた堤みたいな景色なんですけど、私のいた世界でも似た景色がありまして」
「―――」

 エドヴァルドの歩みは止まらないものの、視線が少しこちらを向いたのが分かった。

「だから、もう少し近くで見てみたかったんです」
「……そうか」

 握られた手に、また少し力が入る。

「セラシフェラの花や〝狐火トゥレット〟の他にも、似た景色はあると言う事か」
「そうですね。少し……ほっとします。いえ、外は寒いんですけどね」

 族長の館の裏手から見えていた湖は、やはりヘルガ湖畔に比べると一回りも二回りも小さい。
 ただ、湖面全部が凍っているので、普段の透明度や深度までは推し量れなかった。

「御神渡り……って言うんです、この景色」
「オミ……?」

 何せオーロラよりも遥かに言いにくいだろう、ガチガチの日本語、日本の伝統神事。
 エドヴァルドが一度で把握して発音出来なかったのも、無理からぬ話だった。

「国じゃなく地方の伝統行事的なもので、寒冷地方の湖面にああやって走った亀裂を確認して、その年の作物の収穫とか天候とかをするんです」

 宗教的概念が薄い点から言って、由来となる「神」の「お渡り」に関しては説明がしづらい。
 占いと言うのも、何だか呪術めいたアヤしい印象しかなさそうだ。

 だから、何を、どう判断するかと言うところで、過去500年以上の資料が地元に残されていて、どんな亀裂の時にどんな天候になったか……等々、過去の傾向から予想を立てて地域に周知させるのだと、一応の説明を立ててみた。

「ふふっ……だから、この亀裂を見てどう判断するかを、今、私に聞かれても、そこはごめんなさい、分からないんです。ただ、とても珍しい自然現象と言われていたので、一度は見てみたかったと言うか」

 温暖化の進む昨今、某信州の湖の全面結氷でさえも、ここ5年くらいは観測されていないと聞いた気はする。
 過去においても、確認出来た時には、全国ネットでニュースにさえなっていた程だ。

 苦笑して肩をすくめた私に、エドヴァルドもつられた様な笑みを、少しの間だけ見せていた。

「ならば好天が続いて、実りの多い年になる前兆だとでもしておこうか」
「それが平和で良いと思います」

 そう答えながらも、それにしても何を言い合えば、この辺り一帯が凍り付く様なコトになるのかと、それはそれで興味深いと思ってしまった。

「…………」

 私がジッとエドヴァルドを見上げたところで、もしかしたら、言いたい事の想像がついたのかも知れない。
 器用な事に、こめかみだけが僅かに痙攣ひきつっていた。

「……せっかく歩ける様になった足元が再度凍り付いて良いなら、会話の再現をしても良いが」
「⁉」

 いや、ホントに何があったんですか!

「別に大した事ではない。貴女と言う人間を表面的、かつ自分の理想に当てはまる範囲でしか見ていないようだったからな。馬鹿王子とは別方向にタチが悪いと思っただけの事だ」

「タチが悪い――って⁉」

 言いかけるよりも早く、いつの間にかエドヴァルドの胸に抱き寄せられていた。

「貴女の全てを知るのは私だ。私だけだ。今までも……これからも」
「……っ」

 耳元でそんな事を囁かれてしまっては、周囲の氷の世界の原因を聞くタイミングすら分からなくなってしまう。

 エドヴァルドの服を握りしめたまま、膝から崩れ落ちなかっただけ、まだ良かった。

「寒くないか」
「…………ハイ」

 結局私はそれしか言えず、氷の世界の真相は聞けずじまいだった。
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