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第二部 宰相閣下の謹慎事情

358 眼鏡の母

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※1日複数話更新です。お気を付け下さい。

「ギルド長、王都商業ギルドのイフナースです。入りますね」

 ここでもイフナースは、ノックと同時に返事を待たずに扉を開けて、中に入った。
 もう本当に、最低限の礼儀を遵守していると言う感じだ。

「何だい、イフナースのぼんじゃないか。久しいね」

 中からは、年配女性の声が聞こえてきて、私とエドヴァルドもイフナースに続いて中に足を踏み入れた。

「マノンさん……さすがに30歳過ぎて『ぼん』は勘弁して頂けませんか。まだファルダさんの『若造』の方がマシですよ」

 入るなりの第一声に、イフナースはちょっと苦笑気味だ。
 ギルド長、と言わなかったあたり、日頃それなりに良好な関係を築いているのかも知れない。

「似たようなモンだと思うがね。まあでも、そう言うってコトは、ファルダの所に寄って来たのかい」

「ええ。急ぎで身分証の革きをお願いしたんですよ。で、コレがアズレート副ギルド長承認済の許可証です」

「なんだい、アイツが横着なだけだろうに、随分とお人好しなコトだね」

 部屋の中には一人しかいない。
 と言う事は、この年配女性が王都職人ギルドのギルド長と言う事で間違いないんだろう。

 小柄で、メガネを装着していると――砂糖醤油味のおせんべいのパッケージに描かれている、印象的なおばあちゃんのイラストにそっくりだ。

(〇たぽた焼き……)

 ああ、食べたい。
 いや、そうじゃなくて。

 その年配女性は書類を受け取ると、書面と私の顔をチラリと見比べた。

「おや、そこのお嬢ちゃんが商売始めるのかい」
「あ、はい。レイナと申します。宜しくお願いします」

 今はまだ、身分証の革漉きも新たな登録も完了していない。
 とりあえず「レイナ」とだけ名乗って、頭を下げておく事にした。

「この方が、王都職人ギルドを束ねているマノン・シャンタル女史です。職人ギルドのみならず、商業ギルドにおいても、この方は〝眼鏡の母〟として王都中、いえ国中の尊敬を集めていらっしゃる方なんですよ」

 いっそ本人よりも、イフナースの方が胸を張っているくらいかも知れない。

「眼鏡の母……」

 そもそもは、クヴィスト公爵領内にある鉱山で採れる水晶や円柱石ベリールを使った拡大鏡が、以前から王家や学園と言った所にのみ納められて、細々と作られていたらしい。

 マノン女史の父親が、その街で工房を持っていたそうで、そこで父親の手伝いをするようになった少女が、その後のガラス製品の普及に伴って、拡大鏡の凸レンズの仕組みから、眼鏡としての凹レンズの仕組みに気が付くのに、さしたる年月はかからなかったそうだ。

 それだけ突出した才能の持ち主だったと言う事だろう。

 エドヴァルドでさえ、ギルド長としての名前は知っていても、具体的な功績までは知らなかったのかも知れない。
 目に驚きの色が少し表れていた。

「よしとくれよ。結局アタシの代では、眼鏡を一般市民にも手が届く価格には押さえられそうもないからね」

 そんな、ぽた〇たおばあちゃん…もといマノン女史は、書類を持たない方の手をひらひらと振っていた。
 ただ視線は、アズレート副ギルド長が書いた書面に向いたままだ。

「……おや、でも、お嬢ちゃんが立ち上げる商会は、随分と広範囲な販路を見込んでいるんだね」

「えっ、あ、そうですね」

 特許権とか政治案件の守秘義務とか言い始めると、どこまで口にして良いものやら迷ってしまう。

 ただ、既にバーレント伯爵領との取引やギーレンのシーカサーリ商業ギルド発行の行商人登録が為されている事は、身分証やらヤンネの来訪やらで、アズレート副ギルド長も把握をしている。

 その辺り、書き記して説明をしてくれているのかも知れなかった。

「ふむ……じゃあ、お嬢ちゃんの商会にも、質の高いガラス製品を生み出せる工房があれば、紹介してくれるよう依頼をかけておこうかね」

「質の高いガラス…ですか?」

 首を傾げた私に、マノン女史はその意図を丁寧に説明してくれた。

「今はまだ、ガラス製品は食器や美術品として作られる事がほとんどだからね。どのみち、基本的な技術がないと眼鏡のレンズに手を出す事すら出来ない。国内でガラス製品の有名な地域のギルドとは、ある程度情報の共有はしているのさ。眼鏡の発展に力を貸してくれるような工房と職人がいたら紹介してくれとね」

「例えば、リリアート伯爵領とかですか?」

 むしろヘンリ青年の行動力からすれば、ここにも押しかけていそうな気がする。

 そんな私と内心で情報の共有が出来てしまったのか、マノン女史は「ああ、リリアート領ね」と、微かに口元を綻ばせた。

「リリアートのガラス製品の質は良いと思うよ。ただ、あの土地はまだ職人も少ないし、ガラス製品だけで自活出来る人間も、それほど多くはないときている。今、コツコツと自領から王都に売り込みをかけている途中だろう?以前に若い子が飛び込みで営業に来ていたさね。さて、眼鏡だけに力を入れてくれるような工房や職人はいるかねぇ……」

 思わず私がエドヴァルドを振り返ると、ふむ…と、彼も少し考える仕種を見せた。

「確かに、ヘンリにしろ母方の工房にしろ、食器のデザインや実用性で市場を拡げようとしているところはあるな。クヴィストのメシュヴィツ子爵領のガラスに比べると、質はともかく知名度や工房の数でまだまだ及ばない。それは今のところリリアートの関係者も認めている事だからな」

「だからあんなに熱心に売り込みかけているんですね……」

 確かにそれなら、ハルヴァラの新しい白磁を次代に向けて懸命に売り込もうとしているミカ君と、意気投合するのも頷ける。

 リリアートのガラスも、まだまだ発展途上なのだ。

「今度行く時に、伯爵に話すだけ話してみますか?崖っぷちで、人生賭けても良いと思っている様な職人ひとがいるか」

「…何だ、それは」

 言い方が極端過ぎたのか、エドヴァルドが眉根を寄せた。
 私も慌てて、別の言い方を模索する。

「ええと、眼鏡の市場しじょうって、ガラスの市場の、更に一部分じゃないですか。いくら王侯貴族向けの高額商品と言えど、それだけじゃ食べていけない可能性が高い。だからと言って、既存のガラス製品の片手間だと、きっと今以上のモノは作れない。正直、眼鏡だけに力を入れられる人となると、何が何でも成功させないと後がない…くらいの人じゃないと、無理だと思うんですよ。そう言う意味での『崖っぷち』です」

「「……っ」」

 私の説明に、エドヴァルドとイフナースが言葉に詰まり、マノン女史は一度大きく目を見開いた後で、パンパンと、ゆったりとした拍手をし始めた。

「いやいや、さすがその年齢で商会を立ち上げようと言うだけの事はあるね。その通りさ。一言一句間違っちゃいないよ」

 そう言うと、机の引き出しの中から、ゴソゴソと何かを取り出して、私の前までやって来た。

 布に包まれた何かを手渡されて、そっと開いた中には、明らかにレンズと思しき、透明度の高いガラスが入っていた。

「眼鏡を作れと言ってもピンと来ないだろうから、と思う職人がいたら『もっと質の良いモノは作れるか』と、コイツを見せて聞いてみてくれれば良いさね」

「うわぁ…って、お預かりしても良いんですか?」

 水晶を手入れした程度では出せない透明度。そこには技術の粋が込められている。
 これだけでも王家に渡せそうだと思った私に、マノン女史は「ひゃっひゃ」と豪快に笑った。

「それは、私が見込んだ商会担当者達に渡している見本さ。探すツテも方面も、多い方が良いからね。なぁに、良い職人が見つかれば、この先お嬢ちゃんの商会が人や職人を雇う時にも協力するとも」

「……なるほど」

 どうやら〝ユングベリ商会〟の職務に『眼鏡職人探し』もこの時追加されたみたいだった。

「良かったですね、ギルド長に認めて頂けましたよ」

「……はは」

 純粋に喜びを見せているイフナースはともかくとして、恐る恐るエドヴァルドを見れば――思い切り、片手で額を覆っていた。
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