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女はチック症のように瞬きの回数が増えている。
白い湯気の立つコーヒーを啜った後、丸テーブルの変色した部分に飲んだカップを置いた。

「あの、頼みがあるの。聞いてくれるかな?」
女は俺に言った。

この場合、お前の頼みなんざ聞きたくもないと素直に言えば女の頼みを聞かずに済むのだろうか?

昔のRPGは"いいえ"を選択してもそれは無効とされて、結局は強制的に"はい"を選択させられてしまう。

だったら、"いいえ"などというコマンドを作らなければいいではないか。

どんな無理難題であろうが自分の思想と相反するものであろうが受け入れてしまう主人公に俺はなりたくない。

「では、僕の頼みも聞いてくださいね?僕に頼み事をしないでください。」
俺はそう言って、立ち上がった。

立ち上がって分かったがサーモンピンクの丸テーブルはやけに低い。

ミニチュアのテーブルのようだと言えば大袈裟ではあるけど。

女は話も聞かず断った俺に固まってしまった。
瞬きが一瞬にして止まり、チック症が簡単に治ったようだ。

「ちょっと!お願いだから話を聞いてよ!」
女はそう言いながら、立ち上がり俺の二の腕を両手で強く掴んだ。
先ほどより力が入っている。

「私もお隣さんに頼む前に友人や知り合いに頼んだけど、みんな断られたの!後はお隣さんしか頼れる人はいないんだから!」

「友人や知人でも断る頼み事を僕に押し付けるんですか?ほとんど面識もなく話さえもした事がないこの僕に!」

「とにかく話を聞いて!私は今日、あるグループに連れていかれてここを離れなきゃならないの!」

女は大声で話す。

そのグループってのはトオルやナオ達の事だ。

俺はその話をこれ以上は聞きたくないから、強行手段として俺の二の腕を掴む女の首のすぐ下を左手で突き飛ばした。

「嫌ぁぁぁ!」

女は絶叫した。

力は確かに入っていたが女が転倒するほどではない。
もしかしたら無意識のうちに加減をしていたのかもしれない。

女が手を離したので部屋を出ようと玄関に向かった時、スイーツニャンコのパジャマを着た男の子が、どうしたの?と俺達に問う。

さすがに幼児にはこんな喧嘩をこれ以上、見せてはいけない。

いくらこの女が独善的で世間知らずで、イカれたトオル達と交流のある頭がぶっ飛んだ女でもこの子にとっては母親だ。

俺は男の子の「どうしたの?」という問いに対して返答に困ってしまった。

女は髪を振り乱し肩でハァハァと呼吸をしている。

目は涙目で顔は真っ赤に熟したリンゴのようだ。

やはり俺は古いRPGの主人公と同じ結末を迎えるのだな。

女は男の子を抱きしめて大丈夫だからと、繰り返し話している。

これでは、まるで俺が家庭内暴力を振るう亭主のようだ。

もうここから逃げおおせる事は不可能だと思った。

これ以上は無理だと観念した俺は無言でミニチュアのようなサーモンピンクの丸テーブルに腰をおろした。

俺のカップはまだ微かにユラユラと湯気を立たせている。

女は先ほども座っていた俺の向かい側に腰を下ろす。
動揺している男の子を自分の膝に座らせている。

ジジジと不快な音を発しながら灯りが点いたり消えたりする壊れかけの電灯が俺達を照らす。

点滅によって女の表情が違ってみえる。

明るい時は目つきが異様に鋭くてすわっている。
愛情なんてカケラも得られず狭い住宅地近くを走る大型トラックの排気ガスのような存在。

排気ガスの居場所といえば、ただ高いところへみんなの冷たい視線を浴びない空へと逃げていくのみだ。

今までの人生で舐め尽くした辛酸が女の表情に出ていた気がした。

俺は何も言わず灯りを消した。

女は何も言わない。

女の膝の上に座った男の子は、いつの間にか光を発する玩具を手に持ってピカピカ光らせていた。

「お~。夜と同じくらい光るよ!」と男の子は興奮気味に言った。
光は男の子だけを微かに照らしている。

エメラルドグリーン色に光る玩具を男の子は小刻みに横に振りかざしながら本体に付いているボタンを押したようで玩具からキラキラーンという音が聴こえてきた。

「ボクこの音がね、すごくね、好きなの!」
嬉しそうに弾んだ声で話してくれた。

先ほどの件は忘れてくれたかもしれない。


灯りが消えて暗くなると、俺は女の憎悪に満ちた表情を見なくて済んだ。


































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