黒犬と山猫!

あとみく

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まだ、恋人ではない僕たち

第310話:非常階段での密会

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 十月十四日、火曜日。
 雨は朝方には小降りになったが、風が強かった。
 会社に着く頃には暑くなっていて、台風一過の秋晴れ。
 連休の後だからか、何となく、会社も、自分の席も、落ち着かなかった。ここに座ればいいんだよね?ここで、自分が書いたらしい先週のふせんのメモを見ながら、その通りにやればいいんだよね?
 横田が来て「暑いっすね」と言ったらようやく落ち着いて、しかし月曜朝礼もないのでうっかりしていたら内線が鳴ってジュラルミンが来た。ああ、そうか、そういう仕事もあった。
 立ち上がって、後ろをちらりと見て、黒井がパソコンに向かっているのを見て慌てて目をそらし、いそいそと裏口に向かった。・・・いる、いる、来てる。眼鏡の視力によると、細いストライプの水色っぽいシャツで、風のせいか少し髪は乱れた感じで・・・。
 何があってもひと晩経つと僕の頭はどこかがリセットされてしまうようで、昨日のスウェット姿の黒井と今のスーツの人が結びつかない。その上あの人と僕は愛し合ってるなんて・・・あ、いや、まだ愛し合ってはいないんですが・・・。
 何度か咳払いをしてわざとらしくジュラルミン受け取りのバインダーをめくり、廊下を突っ切って裏口へ。後ろに靴音がして、振り切るように早足で歩いたが、ドアのところで追いつかれた。・・・ってあれ、まさか。
「・・・おはよ」
「・・・あ、お、おはよう」
 あ、朝からクロと挨拶を交わしてしまった。心臓がどきどきして手が震え、まったく、片想いの真っ最中とおんなじだ。告白されて付き合って、電話をしたり休日に会ったり(で、デート?)、恋愛という工程は着々と進行しているようなのに、僕はいつだって振り出しに戻ってしまう。
 僕はさらに奥の業務用エレベーターに通じるドアを開けようとして、しかし一瞬振り返って、黒井の髪に手を伸ばした。
「え?」
「・・・あ、ちょっと」
 そうっと、後ろからこっちへ来ている髪の束を、元の方へと流す。
 触れたのは爪の先だけ。
 ・・・こんなことをしても、もう、いろいろ言い訳を量産しなくてもいいって、本当なんだろうか?
 あとは何も言わず前に向き直り、ドアを開けた。


・・・・・・・・・・・・・・・


「あ、いつもお世話になっております・・・!」
「どうもー」
 配送担当の原西氏と黒井がまた、噛み合っているのかいないのか天気と車の話をし、僕は横からハンコとジュラルミンのやり取り。まったく、一億円くらい入りそうな大きさなのに実際の中身はCD-ROM数枚という不毛な重さだ。ああ、本当に一億入っていたらさらにすごい重量になり、身代金の受け渡しであちこち走り回らされるのは遠慮したいかもしれない。
 恐縮しきりに頭を下げる原西氏を見送ってしまうと、ここの会社の営業担当者二名という僕たちと、付き合っているクロと僕という二人と、どっちの顔でいればいいのか分からなくなった。
 とりあえずどっちともいえない普通の顔を貼りつけて右手でジュラルミンを持ち、左の脇にバインダーを挟みつつ、左手でカードキーをかざしてから重い鉄のドアを開ける。いっぱいまで開けると黒井が手ぶらでそこを通った。僕が荷物持ちの係で、黒井は雑談担当者・・・というより、もはや看板タレントとマネージャーみたいだな。別にいいんだけど。
「あ、ねこ」
「うん?」
 ドアを押さえていると黒井が振り返って、ああ、やっと持ってくれる気になったのかなと、しかしこちらに来てもジュラルミンを受け取りはしない。
「・・・」
 ジュラルミンを持たないなら、ああ、脇に挟んだバインダーの方かと、思って、・・・。
 一瞬、だった。
 ほんの少し黒井が屈んだと思ったら、唇にキスをされ、その顔がさっと離れた。
 声が出せないまま固まっていると、「行こ」と促され、え、いや、行きます、けど・・・。
 ガコンとジュラルミンを壁にぶつけつつ、目を伏せて廊下を歩いた。「こんなところで、誰かに見られたらどうするんだ!」というのが公式見解だろうが、それをぶつけるのもなんだか、俺たちは付き合っていて、でも会社でイチャついたりしちゃマズいだろというのをあらためて正式に認めるみたいな感じになってしまい、っていうか要するに、俺たちはラブラブ・・・。
「うお、ちょ、ちょっと待て!」
 思考と連動して思わず声が出て、黒井が「なんだよ?」って顔で振り返る。そうだ、そこのお前だよ、ちょっと髪を直したからってキスでお返しする必要なんてないんだよ!
「こ、これ持って!もう重い!俺だけに持たせるな!」
「えー?・・・何だ、お前持ちたいのかと思ってた。こういうの好きじゃん」
「好き・・・だけど」
 ドンと廊下に置いたそれを、黒井が持ち上げて歩く。しかし身軽になると急に居たたまれなくなって、慌てて駆け寄り「やっぱ俺持つよ」と声をかけた。「へっ?何なの?」と返され、全くその通り。そのまま奪うようにそれを持って(少し触れあった手が性懲りもなく嬉しい)、あとは一人で中身をやっつけ、ルーチンワークをこなした。・・・ラブラブ、だなんてこっ恥ずかしい単語の先にはひもでつながった風船がふわふわ浮いていて、そこには<両想い>と書かれているみたいで、僕は大げさにため息をついて仕事に励んだ。


・・・・・・・・・・・・・・・


 水曜日。
 台風が去ったのに雨で、気温も天気も乱高下。こんな日に銭湯はどうかなと思いつつ、しかし結局行けるかどうかはまた直前まで分からないわけで、期待値はなるべく下げておくことにする。
 あまり歩き回りたくはないから、スケジュールを出来るだけ調整し、朝から電話を何本か。「それでは、来週辺りのほうがよろしいですかね、ええ、ええ・・・」いやいや、お客さんが言ってるんだからしょうがない。肩をすくめてパソコンに向かう。このまま内勤にしちゃおうかな。

 そうしたら社内メールが来ていて、ん、飯塚君?
 ・・・明日の同行の件?
 あ、やばい、忘れてた。そうか、今週もあるのか、っていうか飯塚君だったのか。

<お疲れ様です。飯塚です。
 表題の件ですが、明日16日(木)、JR恵比寿駅での合流でよろしいでしょうか。
 それとも、現地集合でしょうか?
 早めに着くつもりではいますが、目安の時間を教えていただければ幸いです。
 宜しくお願い致します。>

 飯塚君らしい簡潔さで、返事を書く方も最低限でいいかなと思わせてくれ、助かる。

<お疲れ様です、山根です。
 時間をきちんと伝えていなくて申し訳ない。ガーデンプレイス方面の改札に15時で。
 都合により、二件まわるかもしれないけど、その後の予定は大丈夫?
 こちらこそ、宜しくお願いします。>

 何だかちょっとだけ、また彼と話せるのを楽しみにしている自分がいて、いや、断じて好きだの何だのというそれではないけれども、もしかして、仲のいい後輩というか、友達のような存在になれたりとか、しないかななんて期待している気もした。
 ・・・友達みたいに仲のいい後輩!
 文節のどの部分をとっても、僕に縁がなかった存在だ。どうしよう、ランチを奢ったり(僕が先輩だからだ!)、飲みに行って悩みを聞いたり、たまには僕が仕事の愚痴を聞いてもらうような関係になってしまったら、これはすごいことだ。そう思っていたら、<承知しました、予定は特にありませんので、ぜひご一緒させてください>と返信。「あはは」と満更でもない僕がいて、あ、いやいやこれは仕事だ。あくまで業務の一環だ。
 そうして何となく、なぜかは分からないけれどふいに、背後が気になった。
 何かを、忘れているような。何かが、気になっているような。
 ・・・控えめに振り向くと、閑散とした社内で黒井が僕の方を見ていて、目が合った。
 そして、目を合わせたまま黒井は立ち上がり、それとなく、廊下の方を示す。コーヒー・・・じゃなくて、何だろう、ああ、今日の銭湯の件かな。僕は前に向き直り、島にいる佐山さんの目を気にしつつ、おもむろに「ああ、用事を忘れてた」という感じで立ち上がった。ま、まったく、無言のやりとりで密会に赴くなんて、どういう関係なんだろうね。あ、いや、・・・恋人・・・?
「ごほっ、ごほっ、えふっ!」
 友達みたいに仲のいい後輩だってすごいけど、こ・・・(言えない)・・・なんていったらもう、あ、めまいがする。
 冷えていく頭を手で物理的に支えつつ、黒井とは別のドアから廊下に出て、スパイのようにその後ろ姿を追う。な、何だろう、エレベーターの方ということは、下のコンビニで何か買いつつ今夜の話だろうか。こ、今夜っていちいち卑猥だな、今日の話、でいいじゃないか僕の頭よ。
 しかし黒井はエレベーターには向かわず、眼鏡を忘れたから少しぼやけているが、その白いYシャツはあの非常階段のドアへ消えた。え、何だよ、これじゃ本当に密会じゃないか。・・・うん、っていうか僕はもしかしてまた何かやってしまったのか?こないだは熱でうなされて無意識に電話をした件だったけど・・・。
 ・・・ま、まさか飯塚君のことを考えていたのがバレたのか!?
 い、いや、さすがにメールの文面まで見えないだろうし、そして考えていることが漏れるはずはないし、だ、大丈夫だ、っていうか浮気をしたわけでもないはずだし・・・。
 カードキーをかざして、ピッという音がやけに大きく聞こえる。
 心臓がはやくなってきて、緊張する。いったい、何の話なんだ。
 そして重い扉を開けて、やっぱりそこには誰もいない。踏み出して、防火ドアを開けてまたぐと、非常階段にクロがいてすぐ抱かれた。
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