黒犬と山猫!

あとみく

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あらためて、片想いが募る日々

第196話:レア中毒の片想い

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 在庫が切れていた保守契約の約款を印刷しようとして、100枚近くミスプリントをしてしまった。両面なのに、片面でいってしまったのだ。誰にも見られてないから、何でもありませんって顔で廃棄ボックスにどさっと突っ込んだけど、後から考えたら、裏にしてプリンターにセットして反対側を片面印刷すれば済む話だったんだ。しかも、以前同じことを佐山さんがやって相談されて、僕がそうすればいいって答えたのを思い出した。
 捨てなくていいものを捨て、しかも自分が言った案を実行できず、僕はしばらくヘコんだ。廃棄ボックスをこっそり開けに行ったけど、まあ、鍵がかかっていた。そりゃそうだ。
 それから、納品書に貼る管理番号のラベルを印刷して、ついそのままプリンターにシートを入れっぱなしにしてしまい、みんなが出した印刷物がシールになって出てきた。「おいおいこれどこに貼るんだよ」って笑ってくれたけど、まったく、こういうミスをする人間だって思われるのも許せないし、何より紙がもったいない!資源も経費もトナーもインクも、一枚、一ミリでも自分の注意力欠如のせいで無駄にしたと思うと、今日を最初からやり直したくなった。

 その後も、印紙や角印がしまってあるキャビネットの鍵を借りたままポケットに入れていたり、印紙の数え間違い、印の押し忘れ、納品書の日付の間違い、かがみの付け忘れなど、発覚したもの、事前に気づいたものを含め、あらかたミスをしまくった。自分は営業の中でも事務が出来る方だって思ってたけど、しかも、一度ミスしてからはすべての作業に念を入れてやったはずなのに、どうしてって自分でも信じられなかった。黒井に見られていなかったのが奇跡的で幸いだ。
 もちろん、初めてやる作業ばかりだし、マニュアルも穴だらけだし、仕方ないじゃないかって慰めることも出来る。しかも、どれも大事にならずに済んだし、明日から気をつければいいだけだし。
 でも、やはり自分に対する信頼というか、自信がぐらついた。営業案件のすり合わせなんかと違って、明確にモノの状態としてどこかに正解があるというのに、そこに着地出来なくてどうするか。こんなことでは鑑識作業や遺体発見現場の保全のとき役立てない、と臍を噛む。
 もう帰ろう。さっさと帰ろう。今日はノー残だし、黒井は新人のところにかかりきりだし、一人でしれっといなくなろう。どうか僕が帰った後何かのミスが発覚しませんように。
 もう一度今日の分の作業をやり終えたことを確認し、僕はそそくさと帰宅した。


・・・・・・・・・・・・・・


 その週、ミスをしないかとちょっとびくびくしながら、そして、ちょっとだけ管理者の側に回った優越感に浸りながら、ルーチンの作業をこなした。
 その間もずっと、気づくと黒井の方を気にしていて、接触のチャンスはないかと常に窺っていた。自分のことで手一杯だったこともあって、一緒に何かをする機会はどんどん減っていた。
 ほんの一言、いや、すれ違うだけでもいい、とにかく何でもいいからあいつに僕の存在を気にしてほしくて、浅ましいほど何でもやった。
 タイミングを合わせて、偶然を装って立ち上がってみたり。
 あいつにかかってきたのを取り次ごうと、やたら電話に出てみたり。
 プリンターの前で困っている新人に声をかけて、あいつが「あれ、どうしたの」って合流してくるのを待ってみたり。
 本当は朝だって、時間をちょっと遅くしてみたりして、一緒の電車にならないか、一緒のエレベーターにならないかって、結局失望の連続。
 ・・・だって。
 前に比べて、あいつはよく笑うんだ。
 会社での<黒井さん>から、ちょっと、素のあいつになってきている?
 三課でも楽しそうにしてるし、新人にもしょっちゅう声をかけられて、後輩というよりほとんど友達みたいに話をしている。それを目の端で捉える度に、僕は唇を噛んでそっと顔を背けた。お前らなんかより僕の方が、って、何てみっともない嫉妬。でも、特に用もないのに競り合うように声をかけるのも嫌で、だから声をかけられるのを待ってるけど、そんな機会もなかなかなくて。
 もう、完全な片想い。
 まあ、僕たちはもうあそこまでのことしちゃってるわけだけど、それが、余計に焦りと不安と身勝手と苛立ちと、いろんな感情を呼び起こして忙しかった。
 そんなときは、もし四課でこのポジションになったのが横田だったら、と思って何とか溜飲を下げた。最初はどうして横田じゃないのかとか思っていたくせに、勝手なことだ。

 ついに、廊下でちらりと、別のドアから入れ違いに入っていくのを見かけただけで胸を熱くするまでになった。今日はグレーっぽいYシャツ、とか記憶にとどめて、目に焼き付けて、いったいどこの女学生なんだ。電車でスケジュール帳を出して、もう、何か恥ずかしいことを書き付けてしまいそう。昨日すれ違うときに一瞬「おっ」て顔で見られたとか、新人との会話で「四課のやつに言われたんだけどさ」なんて、それ僕のことじゃない?とか、そんな僅かな接点でさえ書き連ねて満足したいと思ってしまう。
 独占欲。
 あいつのこと俺が一番よく知ってるんだって、そんなこと、あいつが心の中でそう思ってくれてたら嬉しいって話なのに、主張したくてしょうがない。
 分かってる。どうせ、今まで二人だけであれこれしてたのに、急に会社って場所に来てライバルが大勢いるから、つられて臨戦態勢になって競争心燃やしてるだけだ。しかも同じポジションになって前よりも会社での接点が増えたはずのに、今一つ二人きりでいろいろ出来ないもんだから、もどかしくてやきもきしている。それに、黒井は暑がりなのか、クールビズ期間だと分かった途端にずっと上着もネクタイもなしで、ボタンも外してくつろいでるもんだから、まったく目の毒なんだ。

 そんな風にして金曜日が終わり、僕は一人でうちに帰って冷やし中華を食べ、ビールを飲んだ。美味しいなあと思い、天井を見上げて、片想いだなあと思った。もらったコンポを撫で、写真をちらりと眺めて、苦笑い。人生のパートナーはどこ行った。たった一言話すだけでどうこうって関係じゃなかったはずだ。でも、三課を振り返った時ふと目が合って、微笑まれたら舞い上がるんだから仕方ない。僕のことを「やまねこうじ」だって紹介する声が蘇る。そういえばお前に山根って呼び捨てで呼ばれたことないな。だって俺はお前の山猫だもんな・・・はあ、もうだめ、寝よう。

 
・・・・・・・・・・・・・・・


 月曜日。
 つい寝過ごして遅刻しそうになって、ギリギリでエレベーターに飛び込んだら、後から黒井が乗ってきて、僕の目の前に立った。
 たぶん、後ろ向きに乗ってきたし、気づいていない。
 本当に、首筋に息がかかるほど近く。
 ・・・黒井の、においがする。
 思わず目を閉じてそれを吸い込んだ。何でこんないいにおいなんだ!今流行りのアロマの香りの柔軟剤なんか使わないでくれよ?俺はこのままのこのにおいが好きなんだ・・・。
 少しの身長差を感じながらしばらくじっとして、そして、近すぎるその髪が短くなっているのに気づいた。ああ、髪切ったのか。土日であの美容院に行ってたのか。またかっこよくなっちゃうじゃん。また新人の女の子たちにきゃあきゃあ言われちゃうじゃん・・・。
 やがてうちの階について、黒井はそのまま行ってしまい、声をかけそびれた。今まで真後ろでお前の首筋のにおいをかいでたなんてちょっと後ろめたいし、ドアを開けたら朝礼が始まるところだった。
 小走りで自席に向かい、そのまま座らずフロアの真ん中を向く。その時、一足先に席についていた黒井が僕に、いたずらっぽい笑みを向けた。何だ、お前もギリギリ?って顔。僕は反射的に、咳払いをしてそしらぬ顔で目を一瞬逸らし、しかし笑ってみせようとしたらもう相手は後ろを向いていた。
 それから、新人の一人が会社の手帳片手に社訓を読み上げ、全員で復唱するという馬鹿みたいな儀式が始まり、次に仮配属となる新人たちの紹介が始まった。僕はその間、ひたすら黒井の後ろ姿だけを見つめていた。

 朝の邂逅のおかげで心に貯金が出来て、満足して仕事に励んだ。
 ・・・と言いつつぼうっとしていたら内線が鳴って、ああ、月曜はジュラルミンの受け取りか。
 うっすらと一週間の流れを把握し、少しだけ、業務の全体像が見えてきた。
 今まで妙に急かされてきた計上のタイミングとか、クロージングとか、つまりはその月の予算達成だってことには変わらないが、細々としたピースが埋まっていくようだった。やれと言われたことしかやってこなかったけど、会社って、こんな風に回ってたのか。その印象は、つまり、一番真ん中にあるのは社訓の綺麗事なんかじゃなく親指と人差し指で丸を作る単刀直入な<ゼニ>であり、その周りを取り囲んでいるのがそれを支えてるんだかむしろ圧迫してるんだか分からないありとあらゆる作業で、マンパワーとか人件費とかのキーワードだった。
 ・・・ふうん。
 僕が思ったのは、現金で薄情なわりには無駄なことをやらせて給料をくれるんだなっていう、温情なんだか馬鹿なんだか分からない会社の懐と、そして、無駄なことが多すぎないか?という疑問だった。
 ・・・だって、この作業、必要か?
 毎日の進捗を出力してファイリングしてキャビネにしまっとくっていう、それをひと月経ったら別の保管庫に移してやがて廃棄するっていう、インクと紙と電気代とゼロックス代と、労力と管理の手間と保存場所の確保と全てにかかる時間・・・。
 この手の無駄を全部省いたら、売上なんて、三割減だって大丈夫なくらいじゃない?
 佐山さんには悪いけど派遣だって雇わなくて済むだろうし、っていうか藤井たちのいる業務部だっていらなくない?そしたらオフィスの家賃も大幅に浮いて、僕たちのボーナスだって二倍出せるんじゃ?
 でも、営業の全員がこのルーチンを理解し無駄なく遂行して、同時に案件もこなせるかと言われたら、ちょっと無理が出る気もした。そして、その「ちょっと無理」を補おうとすると、今想像の中でざっくりと削減した人間とオフィスがそっくりここに戻された。
 ・・・ふうん。
 再度僕は頷いて、止まっていた手を動かした。どっちにしても、僕は今持っているA4の紙を軽く二つ折りして真ん中にちょっと折り目をつけ、そこに合わせて穴あけパンチして綴じるだけだ。どこにもたどりつかない無為な作業だとしても、作業の純粋性と正確さは僕が守る・・・そんなことを思ってファイルをしまい、ついでに並び順を揃え直した。


・・・・・・・・・・・・・・・・


 夕方、帰社すると自分の席に誰か座っていて、西沢と話していた。ふと西沢がこちらに気づき、「あ、帰ってきたで」と、一緒に振り向いたのは黒井だった。西沢がお帰りを言うけれども、ただいまと返す暇もなく黒井がまくし立てた。
「ねえお前さ、これ、パスワード俺に教えといて?今この人と一生懸命試してたんだけど、開かなくて」
「あ、いやいや、俺はやめとき言うたんやで。っていうか初対面でこの人呼ばわりやめような?」
「えー、だって<スイーツダイスキ>じゃなかったじゃん!」
「い、いや、そうやけど、それとこれとは何も関係あらへん・・・っていうかもう山根君帰って来たんやから、本人に開けてもらい?ほら、席どいて」
 笑いながらおたおたする西沢と傍若無人な黒井が僕の前で盛り上がっている。何だ、いったい何なんだ、これ。
 ・・・っていうか、スイーツダイスキって何。
「・・・あの、ただいま、です」
「あ、山根君ね、俺はちゃんと止めたんやで。共有のファイル、ほら、読み取り専用になっとる言うてね、ちゃんと俺が言うといてやるからって。せやけどこの、黒井君が」
「で?パスワードは?」
 黒井はどく気もなく、キーボードに手を置いてパンパンと叩き、僕を見上げている。パソコンはログイン画面で、ID<kouji_yamane>の下のpass欄でカーソルが点滅中。
 その時後ろから三課の島津さんが現れ、「黒井さんお電話入ってます」と極めて冷静に告げた。島津さんは、ちょっと天然の佐山さんとは反対にとてもクールで、コミュニケーションとしての笑いやクッション言葉を挟むことなく淡々と仕事をする派遣さんだ。
「ええ、今?」
「はい今です」
「もう・・・しょうがないな。まったく、忙しくてさ、ゆっくり話す暇もないね」
 そう言って黒井は僕の肩を二回叩き、先にきびすを返していた島津さんの後を追うように三課に戻っていった。僕は、こんなことは何でもないという顔で軽くため息をつきながら席に座り、しかし、少し暑かったけれども、肩を叩かれた上着を脱ぐことはなかった。

 その後は、「ゆっくり話す暇もないね」を擦り切れるほど頭の中でリピートし、そして、これは何かに似ていると思った。
 ・・・恋。恋ではある。大層完璧な片想い。
 でも、もうちょっと不純物も混ざっている。いや、プラトニックでないという意味の不純ではなくて。
 つまりそれは、好きなバンドのアルバムの発売日を待って、予約特典のポスターをもらうのを楽しみにしたりだとか、あるいはもっと卑近なたとえで言えば、朝のテレビの何とか占いで、自分のそれが一位とか大ラッキーとかになったら意味もなく喜ぶ、みたいな・・・。
 たぶん、だから、今日「ゆっくり話せないね」なんて一言をもらってしまったら、明日それ以上のものがないと僕は満足できなくて、またしょぼくれるだろう。それでも次は、また次こそはと、まるでギャンブル中毒。
 ・・・はあ、今日はこれで終わりかな。
 エレベーターでにおいをかいで、一言話して肩を叩かれて、ゲットしたアイテムみたいにそれを今日の麻袋にしまっておく。集めたからってレベルアップもしないし強くもならないけど、ソーシャルゲームとやらにハマってしまう人の気持ちも今なら分かった。実体がなくたって、お金がいくらかかったって、得られるかもと思ったら手を出してしまう。チャンスがランダムに転がってると思うと運だめしみたいにやってしまうけど、それはまったくきりがない。どこまでも終わりはなく、もっとレア、もっと激レアって求めてしまう。
 ・・・でも。
 夜、会社を離れて一人になって、自分に問いかけたら、ちゃんと分かった。
 好きだ。
 自己満足だけじゃない、深い森のような、静謐な湖のようなお前のイメージはちゃんと僕の心の真ん中にあって、薄っぺらなエゴを超えて、それは、愛おしい、というか、素敵だった。
 お前のを、ちゃんと飲んだし。
 お腹に生命が宿ったりはしないけど、でも、俺の真ん中にはちゃんとお前が据えてある。別次元の何かが広がっている。
 そして、風呂上がりに携帯が点滅していて、メールで一言。

<水曜、一緒に帰ろう>

 僕は携帯を握りしめて、<了解>と返した。
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