黒犬と山猫!

あとみく

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暗闇の邂逅

第146話:晴れ晴れとした寂しさで、お前のうちへ

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 言ってしまった手前、コンビニで律儀に夜食を買い、しかし、まさかすれ違うかもと思うとロビーに戻れなくなって、帰れなくなってしまった。時間が経てば経つほどその可能性は高まるわけで、でももし会ったら普通に「お疲れ」なんて言えないし、でもそのまま何かするにしても、いったん戻って財布を取ってこないとどこへも行けないし。
 ・・・。
 ああ。
 あのシルエット。あの歩き方。
 いつもより更に遅い歩みで、やや背を丸めて、でもあれは黒井だ。もう、帰るのか。まあ、あいつは今日でいったん最終日なんだから、もう残業することもないだろう。同期とは送別会で会うとは言え、三課の人たちにはいったんのお別れを告げてきたんだろうか。っていうか、よく、見えない。目が、悪くなったみたいだ。
 現実感がないまま後ろ姿を見送って、ぽっかり空いた虚脱感と、妙にほっとした感じで、エレベーターに乗った。

 「下で会ってたんですか?」と笑いかける菅野に曖昧にうなずいて、残業を進めた。21時前くらいに菅野が上がり、「明日来れたら来て下さいね」と声をかけてくれた。
 このまま僕が何もしなかったら、あの後ろ姿で、終わりだった。一ヶ月後どうなっているかは分からないけど、黒井が支社に帰ってくるとしたって、そのとき僕が会社にちゃんと来れているか、分からなかった。マウスを持つ手が、小刻みに震えている。何度瞬きしても画面がかすんで、顔を近づけないとワードの10.5ポイントの文字がぶれた。
 金曜日が、終わる。
 土日で、何とか出来るんだろうか。
 でも、何とかって、何?
 ただ自分の、この胸のつかえを取りたいってだけのために、黒井に「一ヶ月待っててよね!」って言わせるために、あがきたいのか?
 でも、送別会になんか出たって、そこでどんな話が出来るんだ。たかが十人や十五人の席で、しかもどうせ同期だけじゃなく親しい先輩なんかも顔を出して、そんなところで二人だけのどんな話が出来る。
 じゃあ、とにかく欠席って送るか。
 ・・・友達の顔で見送ることは、出来ないわけね。
 ・・・出来ない、よ。
 きっとまた逃げ出す。最悪、倒れたりする。それであいつにまた迷惑かけるかもしれない。でもそんなこと期待してるって思われるのは嫌だ。
 ・・・迷惑かけすぎだ。
 ・・・ランキングで、最下位。
 ・・・出来なかったら、枠外。
 関口の言葉だ。でも、そう言われてるような気がした。最下位から、枠外へ、移ろうとしている。枠外で「えーと、山根くん?」って呼ばれるくらいなら、「お前うざい、死ね!」の方がマシだな。
 ずるずると終わった作業を見返したり、同じメールを何度も確認したりしながら、全部を保留にしていた。このまま一生残業してればいい。どんな判断を下すのも怖い。ふつうに家に帰るのも、電話とかしちゃうのも、いっそのことどこかへ逃げ出してしまうのも、どの一歩も踏み出せなかった。どこへ行っても最悪が待っているならどれでも同じなのに、それでも、選べなかった。

 
・・・・・・・・・・・・・・


 結局22時前に課長が「そろそろ上がりましょーう」と声をかけ、三々五々、散らばっていった。横田を見送って、でも島にぽつんといるのも気まずくて、いろいろやりかけのまま仕方なく席を立った。
 もう、終電がないとか、財布を忘れてどこへも行けないとか、そういうどうしようもない事態に陥ればいいのに。僕に選択の余地を与えないでくれ。何も選べない。自分で何ひとつ、こうしたい、これをすべき、というものが分からない。この、ひたすらに動悸がして何も出来ない感じは、あの時のアリジゴクに似ていた。でもちょっと違うのは、時間制限があるからだ。あの時は未来がなかったけど、今は、未来は、もう二日くらいで終わろうとしている。時間だけが過ぎて、最後には強制的に選択肢はなくなり、あの後ろ姿でジ・エンド。それは耐えられないって思ってるくせに、でも、どうすればいいのか・・・。
 財布を出して、でもあの写真を取り出すことは出来なかった。あんな顔、見れないよ。見た途端にその場にくずおれて、動けなくなりそう。
 ・・・何で、何でもっと毅然と出来ないんだ!いつもぐずぐずして、すぐめまいを起こして、嫌になると逃げ出して、そんなだからいけないんじゃないか?お前のことが、友達としてじゃなく、恋愛対象として好きでしたって白状して、お前が嫌なら、今度は俺が移るか、辞めますからって、ケジメつければいいじゃないか。それが、一番、まともか。その前に一度だけ、会ってもらおうか。
 ・・・覚えはなくても、軽蔑したことを謝ろう。っていうか覚えてないことを謝ろうか。うん、それだけなら、言えるかもしれない。それだけなら、言ったって、迷惑かもしれないけど、「こないだお前のを舐めなくてごめん!」なんてふざけたことを言うよりはマシだ。
 ・・・問題は、いつ、どこで、どうやって、言うか、だけどさ。


・・・・・・・・・・・・・


 電車に乗って、桜上水で、降りた。
 さっきまでの嫌な汗は引いて、もう、焦りや不安はひととおり蒸発してしまったらしい。こうする、と決めたから、強くなれたのかもしれない。緊張だけは残って、まるで、プロポーズに向かうみたいな気分。花束でも持って、指輪をポケットに忍ばせて、求婚に。
 ネガティブな自虐はなりをひそめ、なぜか、黒井の顔が見たい、言葉を交わしたい、という恋心がむくむくとわきあがってきていた。もう、深刻すぎる焦りが腹の奥から僕を押し出して、頭のてっぺんから、吹っ飛ばしてしまったようだった。
 ただ僕が、お前を好きで、そのわりには出来が悪いって、そういう話なのかもしれない。
 もちろん、こんな僕がお前にプロポーズだなんて高望みすぎるけど、立候補するくらいはいいと思う。・・・いや、ほんとはそれもまずいだろうけど。
 これは気分のムラなのか、何かがねじ切れて頭のどこかがパーになってしまったのか、とにかく僕はそわそわして、ネクタイなんか締めなおして、お前に会いに行こうとしていた。31日がないと分かり、背水の陣を敷いて、言うことも決まったら、腹が据わったらしい。あの時は一ヶ月を待とうという思いだったけど、今はもう一ヶ月も一年も一生も同じ意味で、だったら今生の別れと思って言うべきことを言うだけだ。一生に一度、それくらいいいだろう。会社人生の出端をくじかれ、人生を狂わされた、その男の最後の戯言ひとことくらい、聞いてやれ。クロ、お前も男なら、そのくらい!
 ・・・うん、まあ、手土産くらい持っていこうかな。
 いつものファミリーマートで、まあコンビニだけど、棚で一番上等のウイスキーを買った。小さめだけど、箱に入ったやつ。買ってから、ああ、研修所に持ってはいけないだろうし、もうすぐ家を空けるんだから、もっと違うものにすべきだったかと思ったけど、まあ腐るものでもないしいいだろう。
 そういえば、ここに初めて来たのはあの忘年会の夜で、黒井は自分のカシミアを僕に巻きつけ、エロ本でも読んでろって言ったら、俺、すぐイっちゃうよ、なんてささやいたのだった。はあ、三ヶ月、半前。懐かしいなあ。あの頃はまだ全然、二人とも初々しかった。アレを顔になすりつけられて、キスして喘いじゃうような日が来るなんて、思ってもみなかった。胸が熱くて、苦しくなる。まるで、卒業式だ。分かっていながらも案外唐突にそれは訪れて、明日からこの教室には来ませんって、え、ホント?みたいな。
 ・・・すごい、爽やかなんだ。
 晴れ晴れとした寂しさ。
 僕も、うん、ようやくこの境地に来たか。
 夜空を見上げて、・・・酒が飲みたくなった。はは、土産を飲んでしまってどうする。しらふで行けよ、最後なんだから。
 ・・・自分でもいったい何を納得したのか分からないけど、まるで映画のクライマックス手前の挿入歌のところみたいに、出会いから、何かが始まって、冒険に旅立って、様々な困難を乗り越え・・・みたいな画が浮かんだ。何だ、自己嫌悪、自己憐憫の次は、全てを過去にして美化が始まったのか。でも、どちらかいえば、美しい方がいいじゃないか。
 ゆっくり歩いて、見える景色が、懐かしくて新鮮だった。クリスマスイブの夜はこのファミマの前で一瞬抱かれたし、バレンタインの夜は、真っ白だった。いったい何度ここを通って、黒井のうちに行ったんだろう。二人で歩いたり、一人で帰ったり。楽しかったな、いろいろ。記憶の中のどんな僕も、お前のことが好きで、お前のことしか考えていない。そのくせ待っているばかりで知ろうとはせず、理解もせず、お前をどうこうしようという頭はなかった。ただ、そこに咲いている野生の花に見とれていただけだ。人間同士なんだから、言葉が通じるんだから、もうちょっと何とか出来たんだ、きっと。でも僕は今のままのお前でも十分に、その、惹かれていて、中身がないだなんて思わなかったんだよ。ほんの少しでも何かを悩んだり、悔やんだり、もがいたりしてるようには、見えなかった。だから、なんて言い訳だけど、僕が手を差し伸べるようなことなんてないと思ってた。僕なんかが、そんなこと、おこがましい。でもきっと、もっとちゃんとお前のこと見ていたら、恋は盲目なんて言わずにきちんと向き合っていたら、気づくこともあったんだ。物理だって、もっと早く、一緒にやらせてくれって頼んでた。いつも僕は、頭では分かっても、心で腑に落ちるのが遅くて、鈍いんだ。理屈と心が別々で、それでしょっちゅうショートしちゃう。お前と一緒にいると心がぎゅうぎゅう押されて、いつも大変だったよ。ねえ、今まで誰もそんなところ、触れたことも、押したこともなかったんだぜ?俺の、奥の、中身。自分でも気づかなかった、見たことなかった、奥の奥の、更に奥。
 ほら、夜空を見上げて、涙とか、出てくるじゃん。
 お前が、恋しいよ。会いたいよ。
 もう、知ったんだ。お前は完璧な存在じゃなくて、中身もないし、アブナイ一面もあって、醜いこともあるんだって、分かったよ。
 だから、いつまでもうっとり見上げてないで、同じ地面に立って、話をしたいと思う。それは、お前が望むなら、だけど。まだ、そうしてもいいと思っててくれるなら、だけど。
 ・・・ついちゃったね、お前の、マンションに。
 どきどきしてる。心臓の音が聞こえそう。
 これから何が起きるか、分からない。
 「帰ってくれ!」って怒鳴られるか、「お、久しぶり、何しに来たの?」って言われるか、「ちょっと、疲れてるからさ」ってため息つかれるか、予想も出来ない。
 怖い。正直、震えそうなほど怖い。
 でも、心は決まっている。だから、足を踏み出した。
 今までお前と接して、お前と話して、一緒にいた自分が、僕の中にちゃんといた。そう、自分を、信じるんだ。今の自分が頼りにならないとき、過去の自分にすがるんだ。大丈夫、過去の僕は、今思えば過ちも犯してるし、やるべきことをやらず、どうでもいいことにとらわれてたけど、でも、それでも、お前のことを好きだって気持ちは純粋で、嘘偽りなく、恥ずべきことなんか一点もない。もっとこうしてれば、あれをしてればってことはあるけど、でも、こんな僕の人生で、最高の三ヶ月だったんだ。だからこれ以上のものは振っても叩いても出てこない。その僕でだめなら、もう諦めもつく。それなら悔いはないよ。
 今、心臓はバクバクだし、手だって震えそうだけど、でも、びっくりするほど落ち着いていた。取り繕うような気持ちもないし、自虐的な苦笑いもない。澄んだ湖のように透明で、中立。何を言われても受け止められるし、どれだけでも正直に向き合える。
 エレベーターのボタンを押して、ふう、と息をついて、乗り込んだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・


 深夜、しんとしたマンションの廊下で、ドアの前に立ち尽くした。
 何度深呼吸しても、目を閉じて、開けても、インターホンを押すことが、出来なかった。
 心臓だけが速いけど、他の部分は、時間が止まったように固まっている。呼吸だけをして、何かを待つけれども、・・・自分から、動かなくちゃ。
 部屋からは、何の気配もしなかった。
 換気扇とか、シャンプーの匂いとか、足音とか、何も。明かりだけはついているからいるはずだけど、そのまま、寝ちゃったのかな。
 ・・・何分、こうしているつもりなんだろう。
 さっきの晴れやかな高揚感はまたどこかへ去って、ネガティブに戻りはしないけれども、でも、口に出さずに繰り返す<言うべきこと>について、本当にこれでいいのかと自問し続けた。
 ・・・本当は、何を言いに来たんだろう。
 もちろん、研修中に、無自覚であれひどいことをしたというなら謝りたい。
 でも、本当はたぶん、そうじゃない・・・。
 ・・・。
 僕に何を望んでるのか、何を考えてるのか、ただそれを知りたい。きっと、それだけだった。
 震える指で、インターホンのボタンを、押した。部屋の中にピンポーンと呼び出し音が鳴り響く。二回聞こえて、終わった。・・・何も、聞こえない。出てくる気配はなかった。ああ、やっぱり寝てるかな。そうか、話も出来ずに終わるのか。・・・いや、まあ明日出直すしかない。もう終電も終わってるから、そこらへんの公園で寝ようか。
 ・・・先延ばしに、するの?
 ため息。
 何をするべきか、しないべきかのせめぎあいは平行線で、もう一度インターホンを押すことは出来なかった。
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