146 / 382
暗闇の邂逅
第146話:晴れ晴れとした寂しさで、お前のうちへ
しおりを挟む
言ってしまった手前、コンビニで律儀に夜食を買い、しかし、まさかすれ違うかもと思うとロビーに戻れなくなって、帰れなくなってしまった。時間が経てば経つほどその可能性は高まるわけで、でももし会ったら普通に「お疲れ」なんて言えないし、でもそのまま何かするにしても、いったん戻って財布を取ってこないとどこへも行けないし。
・・・。
ああ。
あのシルエット。あの歩き方。
いつもより更に遅い歩みで、やや背を丸めて、でもあれは黒井だ。もう、帰るのか。まあ、あいつは今日でいったん最終日なんだから、もう残業することもないだろう。同期とは送別会で会うとは言え、三課の人たちにはいったんのお別れを告げてきたんだろうか。っていうか、よく、見えない。目が、悪くなったみたいだ。
現実感がないまま後ろ姿を見送って、ぽっかり空いた虚脱感と、妙にほっとした感じで、エレベーターに乗った。
「下で会ってたんですか?」と笑いかける菅野に曖昧にうなずいて、残業を進めた。21時前くらいに菅野が上がり、「明日来れたら来て下さいね」と声をかけてくれた。
このまま僕が何もしなかったら、あの後ろ姿で、終わりだった。一ヶ月後どうなっているかは分からないけど、黒井が支社に帰ってくるとしたって、そのとき僕が会社にちゃんと来れているか、分からなかった。マウスを持つ手が、小刻みに震えている。何度瞬きしても画面がかすんで、顔を近づけないとワードの10.5ポイントの文字がぶれた。
金曜日が、終わる。
土日で、何とか出来るんだろうか。
でも、何とかって、何?
ただ自分の、この胸のつかえを取りたいってだけのために、黒井に「一ヶ月待っててよね!」って言わせるために、あがきたいのか?
でも、送別会になんか出たって、そこでどんな話が出来るんだ。たかが十人や十五人の席で、しかもどうせ同期だけじゃなく親しい先輩なんかも顔を出して、そんなところで二人だけのどんな話が出来る。
じゃあ、とにかく欠席って送るか。
・・・友達の顔で見送ることは、出来ないわけね。
・・・出来ない、よ。
きっとまた逃げ出す。最悪、倒れたりする。それであいつにまた迷惑かけるかもしれない。でもそんなこと期待してるって思われるのは嫌だ。
・・・迷惑かけすぎだ。
・・・ランキングで、最下位。
・・・出来なかったら、枠外。
関口の言葉だ。でも、そう言われてるような気がした。最下位から、枠外へ、移ろうとしている。枠外で「えーと、山根くん?」って呼ばれるくらいなら、「お前うざい、死ね!」の方がマシだな。
ずるずると終わった作業を見返したり、同じメールを何度も確認したりしながら、全部を保留にしていた。このまま一生残業してればいい。どんな判断を下すのも怖い。ふつうに家に帰るのも、電話とかしちゃうのも、いっそのことどこかへ逃げ出してしまうのも、どの一歩も踏み出せなかった。どこへ行っても最悪が待っているならどれでも同じなのに、それでも、選べなかった。
・・・・・・・・・・・・・・
結局22時前に課長が「そろそろ上がりましょーう」と声をかけ、三々五々、散らばっていった。横田を見送って、でも島にぽつんといるのも気まずくて、いろいろやりかけのまま仕方なく席を立った。
もう、終電がないとか、財布を忘れてどこへも行けないとか、そういうどうしようもない事態に陥ればいいのに。僕に選択の余地を与えないでくれ。何も選べない。自分で何ひとつ、こうしたい、これをすべき、というものが分からない。この、ひたすらに動悸がして何も出来ない感じは、あの時のアリジゴクに似ていた。でもちょっと違うのは、時間制限があるからだ。あの時は未来がなかったけど、今は、未来は、もう二日くらいで終わろうとしている。時間だけが過ぎて、最後には強制的に選択肢はなくなり、あの後ろ姿でジ・エンド。それは耐えられないって思ってるくせに、でも、どうすればいいのか・・・。
財布を出して、でもあの写真を取り出すことは出来なかった。あんな顔、見れないよ。見た途端にその場にくずおれて、動けなくなりそう。
・・・何で、何でもっと毅然と出来ないんだ!いつもぐずぐずして、すぐめまいを起こして、嫌になると逃げ出して、そんなだからいけないんじゃないか?お前のことが、友達としてじゃなく、恋愛対象として好きでしたって白状して、お前が嫌なら、今度は俺が移るか、辞めますからって、ケジメつければいいじゃないか。それが、一番、まともか。その前に一度だけ、会ってもらおうか。
・・・覚えはなくても、軽蔑したことを謝ろう。っていうか覚えてないことを謝ろうか。うん、それだけなら、言えるかもしれない。それだけなら、言ったって、迷惑かもしれないけど、「こないだお前のを舐めなくてごめん!」なんてふざけたことを言うよりはマシだ。
・・・問題は、いつ、どこで、どうやって、言うか、だけどさ。
・・・・・・・・・・・・・
電車に乗って、桜上水で、降りた。
さっきまでの嫌な汗は引いて、もう、焦りや不安はひととおり蒸発してしまったらしい。こうする、と決めたから、強くなれたのかもしれない。緊張だけは残って、まるで、プロポーズに向かうみたいな気分。花束でも持って、指輪をポケットに忍ばせて、求婚に。
ネガティブな自虐はなりをひそめ、なぜか、黒井の顔が見たい、言葉を交わしたい、という恋心がむくむくとわきあがってきていた。もう、深刻すぎる焦りが腹の奥から僕を押し出して、頭のてっぺんから、吹っ飛ばしてしまったようだった。
ただ僕が、お前を好きで、そのわりには出来が悪いって、そういう話なのかもしれない。
もちろん、こんな僕がお前にプロポーズだなんて高望みすぎるけど、立候補するくらいはいいと思う。・・・いや、ほんとはそれもまずいだろうけど。
これは気分のムラなのか、何かがねじ切れて頭のどこかがパーになってしまったのか、とにかく僕はそわそわして、ネクタイなんか締めなおして、お前に会いに行こうとしていた。31日がないと分かり、背水の陣を敷いて、言うことも決まったら、腹が据わったらしい。あの時は一ヶ月を待とうという思いだったけど、今はもう一ヶ月も一年も一生も同じ意味で、だったら今生の別れと思って言うべきことを言うだけだ。一生に一度、それくらいいいだろう。会社人生の出端をくじかれ、人生を狂わされた、その男の最後の戯言ひとことくらい、聞いてやれ。クロ、お前も男なら、そのくらい!
・・・うん、まあ、手土産くらい持っていこうかな。
いつものファミリーマートで、まあコンビニだけど、棚で一番上等のウイスキーを買った。小さめだけど、箱に入ったやつ。買ってから、ああ、研修所に持ってはいけないだろうし、もうすぐ家を空けるんだから、もっと違うものにすべきだったかと思ったけど、まあ腐るものでもないしいいだろう。
そういえば、ここに初めて来たのはあの忘年会の夜で、黒井は自分のカシミアを僕に巻きつけ、エロ本でも読んでろって言ったら、俺、すぐイっちゃうよ、なんてささやいたのだった。はあ、三ヶ月、半前。懐かしいなあ。あの頃はまだ全然、二人とも初々しかった。アレを顔になすりつけられて、キスして喘いじゃうような日が来るなんて、思ってもみなかった。胸が熱くて、苦しくなる。まるで、卒業式だ。分かっていながらも案外唐突にそれは訪れて、明日からこの教室には来ませんって、え、ホント?みたいな。
・・・すごい、爽やかなんだ。
晴れ晴れとした寂しさ。
僕も、うん、ようやくこの境地に来たか。
夜空を見上げて、・・・酒が飲みたくなった。はは、土産を飲んでしまってどうする。しらふで行けよ、最後なんだから。
・・・自分でもいったい何を納得したのか分からないけど、まるで映画のクライマックス手前の挿入歌のところみたいに、出会いから、何かが始まって、冒険に旅立って、様々な困難を乗り越え・・・みたいな画が浮かんだ。何だ、自己嫌悪、自己憐憫の次は、全てを過去にして美化が始まったのか。でも、どちらかいえば、美しい方がいいじゃないか。
ゆっくり歩いて、見える景色が、懐かしくて新鮮だった。クリスマスイブの夜はこのファミマの前で一瞬抱かれたし、バレンタインの夜は、真っ白だった。いったい何度ここを通って、黒井のうちに行ったんだろう。二人で歩いたり、一人で帰ったり。楽しかったな、いろいろ。記憶の中のどんな僕も、お前のことが好きで、お前のことしか考えていない。そのくせ待っているばかりで知ろうとはせず、理解もせず、お前をどうこうしようという頭はなかった。ただ、そこに咲いている野生の花に見とれていただけだ。人間同士なんだから、言葉が通じるんだから、もうちょっと何とか出来たんだ、きっと。でも僕は今のままのお前でも十分に、その、惹かれていて、中身がないだなんて思わなかったんだよ。ほんの少しでも何かを悩んだり、悔やんだり、もがいたりしてるようには、見えなかった。だから、なんて言い訳だけど、僕が手を差し伸べるようなことなんてないと思ってた。僕なんかが、そんなこと、おこがましい。でもきっと、もっとちゃんとお前のこと見ていたら、恋は盲目なんて言わずにきちんと向き合っていたら、気づくこともあったんだ。物理だって、もっと早く、一緒にやらせてくれって頼んでた。いつも僕は、頭では分かっても、心で腑に落ちるのが遅くて、鈍いんだ。理屈と心が別々で、それでしょっちゅうショートしちゃう。お前と一緒にいると心がぎゅうぎゅう押されて、いつも大変だったよ。ねえ、今まで誰もそんなところ、触れたことも、押したこともなかったんだぜ?俺の、奥の、中身。自分でも気づかなかった、見たことなかった、奥の奥の、更に奥。
ほら、夜空を見上げて、涙とか、出てくるじゃん。
お前が、恋しいよ。会いたいよ。
もう、知ったんだ。お前は完璧な存在じゃなくて、中身もないし、アブナイ一面もあって、醜いこともあるんだって、分かったよ。
だから、いつまでもうっとり見上げてないで、同じ地面に立って、話をしたいと思う。それは、お前が望むなら、だけど。まだ、そうしてもいいと思っててくれるなら、だけど。
・・・ついちゃったね、お前の、マンションに。
どきどきしてる。心臓の音が聞こえそう。
これから何が起きるか、分からない。
「帰ってくれ!」って怒鳴られるか、「お、久しぶり、何しに来たの?」って言われるか、「ちょっと、疲れてるからさ」ってため息つかれるか、予想も出来ない。
怖い。正直、震えそうなほど怖い。
でも、心は決まっている。だから、足を踏み出した。
今までお前と接して、お前と話して、一緒にいた自分が、僕の中にちゃんといた。そう、自分を、信じるんだ。今の自分が頼りにならないとき、過去の自分にすがるんだ。大丈夫、過去の僕は、今思えば過ちも犯してるし、やるべきことをやらず、どうでもいいことにとらわれてたけど、でも、それでも、お前のことを好きだって気持ちは純粋で、嘘偽りなく、恥ずべきことなんか一点もない。もっとこうしてれば、あれをしてればってことはあるけど、でも、こんな僕の人生で、最高の三ヶ月だったんだ。だからこれ以上のものは振っても叩いても出てこない。その僕でだめなら、もう諦めもつく。それなら悔いはないよ。
今、心臓はバクバクだし、手だって震えそうだけど、でも、びっくりするほど落ち着いていた。取り繕うような気持ちもないし、自虐的な苦笑いもない。澄んだ湖のように透明で、中立。何を言われても受け止められるし、どれだけでも正直に向き合える。
エレベーターのボタンを押して、ふう、と息をついて、乗り込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
深夜、しんとしたマンションの廊下で、ドアの前に立ち尽くした。
何度深呼吸しても、目を閉じて、開けても、インターホンを押すことが、出来なかった。
心臓だけが速いけど、他の部分は、時間が止まったように固まっている。呼吸だけをして、何かを待つけれども、・・・自分から、動かなくちゃ。
部屋からは、何の気配もしなかった。
換気扇とか、シャンプーの匂いとか、足音とか、何も。明かりだけはついているからいるはずだけど、そのまま、寝ちゃったのかな。
・・・何分、こうしているつもりなんだろう。
さっきの晴れやかな高揚感はまたどこかへ去って、ネガティブに戻りはしないけれども、でも、口に出さずに繰り返す<言うべきこと>について、本当にこれでいいのかと自問し続けた。
・・・本当は、何を言いに来たんだろう。
もちろん、研修中に、無自覚であれひどいことをしたというなら謝りたい。
でも、本当はたぶん、そうじゃない・・・。
・・・。
僕に何を望んでるのか、何を考えてるのか、ただそれを知りたい。きっと、それだけだった。
震える指で、インターホンのボタンを、押した。部屋の中にピンポーンと呼び出し音が鳴り響く。二回聞こえて、終わった。・・・何も、聞こえない。出てくる気配はなかった。ああ、やっぱり寝てるかな。そうか、話も出来ずに終わるのか。・・・いや、まあ明日出直すしかない。もう終電も終わってるから、そこらへんの公園で寝ようか。
・・・先延ばしに、するの?
ため息。
何をするべきか、しないべきかのせめぎあいは平行線で、もう一度インターホンを押すことは出来なかった。
・・・。
ああ。
あのシルエット。あの歩き方。
いつもより更に遅い歩みで、やや背を丸めて、でもあれは黒井だ。もう、帰るのか。まあ、あいつは今日でいったん最終日なんだから、もう残業することもないだろう。同期とは送別会で会うとは言え、三課の人たちにはいったんのお別れを告げてきたんだろうか。っていうか、よく、見えない。目が、悪くなったみたいだ。
現実感がないまま後ろ姿を見送って、ぽっかり空いた虚脱感と、妙にほっとした感じで、エレベーターに乗った。
「下で会ってたんですか?」と笑いかける菅野に曖昧にうなずいて、残業を進めた。21時前くらいに菅野が上がり、「明日来れたら来て下さいね」と声をかけてくれた。
このまま僕が何もしなかったら、あの後ろ姿で、終わりだった。一ヶ月後どうなっているかは分からないけど、黒井が支社に帰ってくるとしたって、そのとき僕が会社にちゃんと来れているか、分からなかった。マウスを持つ手が、小刻みに震えている。何度瞬きしても画面がかすんで、顔を近づけないとワードの10.5ポイントの文字がぶれた。
金曜日が、終わる。
土日で、何とか出来るんだろうか。
でも、何とかって、何?
ただ自分の、この胸のつかえを取りたいってだけのために、黒井に「一ヶ月待っててよね!」って言わせるために、あがきたいのか?
でも、送別会になんか出たって、そこでどんな話が出来るんだ。たかが十人や十五人の席で、しかもどうせ同期だけじゃなく親しい先輩なんかも顔を出して、そんなところで二人だけのどんな話が出来る。
じゃあ、とにかく欠席って送るか。
・・・友達の顔で見送ることは、出来ないわけね。
・・・出来ない、よ。
きっとまた逃げ出す。最悪、倒れたりする。それであいつにまた迷惑かけるかもしれない。でもそんなこと期待してるって思われるのは嫌だ。
・・・迷惑かけすぎだ。
・・・ランキングで、最下位。
・・・出来なかったら、枠外。
関口の言葉だ。でも、そう言われてるような気がした。最下位から、枠外へ、移ろうとしている。枠外で「えーと、山根くん?」って呼ばれるくらいなら、「お前うざい、死ね!」の方がマシだな。
ずるずると終わった作業を見返したり、同じメールを何度も確認したりしながら、全部を保留にしていた。このまま一生残業してればいい。どんな判断を下すのも怖い。ふつうに家に帰るのも、電話とかしちゃうのも、いっそのことどこかへ逃げ出してしまうのも、どの一歩も踏み出せなかった。どこへ行っても最悪が待っているならどれでも同じなのに、それでも、選べなかった。
・・・・・・・・・・・・・・
結局22時前に課長が「そろそろ上がりましょーう」と声をかけ、三々五々、散らばっていった。横田を見送って、でも島にぽつんといるのも気まずくて、いろいろやりかけのまま仕方なく席を立った。
もう、終電がないとか、財布を忘れてどこへも行けないとか、そういうどうしようもない事態に陥ればいいのに。僕に選択の余地を与えないでくれ。何も選べない。自分で何ひとつ、こうしたい、これをすべき、というものが分からない。この、ひたすらに動悸がして何も出来ない感じは、あの時のアリジゴクに似ていた。でもちょっと違うのは、時間制限があるからだ。あの時は未来がなかったけど、今は、未来は、もう二日くらいで終わろうとしている。時間だけが過ぎて、最後には強制的に選択肢はなくなり、あの後ろ姿でジ・エンド。それは耐えられないって思ってるくせに、でも、どうすればいいのか・・・。
財布を出して、でもあの写真を取り出すことは出来なかった。あんな顔、見れないよ。見た途端にその場にくずおれて、動けなくなりそう。
・・・何で、何でもっと毅然と出来ないんだ!いつもぐずぐずして、すぐめまいを起こして、嫌になると逃げ出して、そんなだからいけないんじゃないか?お前のことが、友達としてじゃなく、恋愛対象として好きでしたって白状して、お前が嫌なら、今度は俺が移るか、辞めますからって、ケジメつければいいじゃないか。それが、一番、まともか。その前に一度だけ、会ってもらおうか。
・・・覚えはなくても、軽蔑したことを謝ろう。っていうか覚えてないことを謝ろうか。うん、それだけなら、言えるかもしれない。それだけなら、言ったって、迷惑かもしれないけど、「こないだお前のを舐めなくてごめん!」なんてふざけたことを言うよりはマシだ。
・・・問題は、いつ、どこで、どうやって、言うか、だけどさ。
・・・・・・・・・・・・・
電車に乗って、桜上水で、降りた。
さっきまでの嫌な汗は引いて、もう、焦りや不安はひととおり蒸発してしまったらしい。こうする、と決めたから、強くなれたのかもしれない。緊張だけは残って、まるで、プロポーズに向かうみたいな気分。花束でも持って、指輪をポケットに忍ばせて、求婚に。
ネガティブな自虐はなりをひそめ、なぜか、黒井の顔が見たい、言葉を交わしたい、という恋心がむくむくとわきあがってきていた。もう、深刻すぎる焦りが腹の奥から僕を押し出して、頭のてっぺんから、吹っ飛ばしてしまったようだった。
ただ僕が、お前を好きで、そのわりには出来が悪いって、そういう話なのかもしれない。
もちろん、こんな僕がお前にプロポーズだなんて高望みすぎるけど、立候補するくらいはいいと思う。・・・いや、ほんとはそれもまずいだろうけど。
これは気分のムラなのか、何かがねじ切れて頭のどこかがパーになってしまったのか、とにかく僕はそわそわして、ネクタイなんか締めなおして、お前に会いに行こうとしていた。31日がないと分かり、背水の陣を敷いて、言うことも決まったら、腹が据わったらしい。あの時は一ヶ月を待とうという思いだったけど、今はもう一ヶ月も一年も一生も同じ意味で、だったら今生の別れと思って言うべきことを言うだけだ。一生に一度、それくらいいいだろう。会社人生の出端をくじかれ、人生を狂わされた、その男の最後の戯言ひとことくらい、聞いてやれ。クロ、お前も男なら、そのくらい!
・・・うん、まあ、手土産くらい持っていこうかな。
いつものファミリーマートで、まあコンビニだけど、棚で一番上等のウイスキーを買った。小さめだけど、箱に入ったやつ。買ってから、ああ、研修所に持ってはいけないだろうし、もうすぐ家を空けるんだから、もっと違うものにすべきだったかと思ったけど、まあ腐るものでもないしいいだろう。
そういえば、ここに初めて来たのはあの忘年会の夜で、黒井は自分のカシミアを僕に巻きつけ、エロ本でも読んでろって言ったら、俺、すぐイっちゃうよ、なんてささやいたのだった。はあ、三ヶ月、半前。懐かしいなあ。あの頃はまだ全然、二人とも初々しかった。アレを顔になすりつけられて、キスして喘いじゃうような日が来るなんて、思ってもみなかった。胸が熱くて、苦しくなる。まるで、卒業式だ。分かっていながらも案外唐突にそれは訪れて、明日からこの教室には来ませんって、え、ホント?みたいな。
・・・すごい、爽やかなんだ。
晴れ晴れとした寂しさ。
僕も、うん、ようやくこの境地に来たか。
夜空を見上げて、・・・酒が飲みたくなった。はは、土産を飲んでしまってどうする。しらふで行けよ、最後なんだから。
・・・自分でもいったい何を納得したのか分からないけど、まるで映画のクライマックス手前の挿入歌のところみたいに、出会いから、何かが始まって、冒険に旅立って、様々な困難を乗り越え・・・みたいな画が浮かんだ。何だ、自己嫌悪、自己憐憫の次は、全てを過去にして美化が始まったのか。でも、どちらかいえば、美しい方がいいじゃないか。
ゆっくり歩いて、見える景色が、懐かしくて新鮮だった。クリスマスイブの夜はこのファミマの前で一瞬抱かれたし、バレンタインの夜は、真っ白だった。いったい何度ここを通って、黒井のうちに行ったんだろう。二人で歩いたり、一人で帰ったり。楽しかったな、いろいろ。記憶の中のどんな僕も、お前のことが好きで、お前のことしか考えていない。そのくせ待っているばかりで知ろうとはせず、理解もせず、お前をどうこうしようという頭はなかった。ただ、そこに咲いている野生の花に見とれていただけだ。人間同士なんだから、言葉が通じるんだから、もうちょっと何とか出来たんだ、きっと。でも僕は今のままのお前でも十分に、その、惹かれていて、中身がないだなんて思わなかったんだよ。ほんの少しでも何かを悩んだり、悔やんだり、もがいたりしてるようには、見えなかった。だから、なんて言い訳だけど、僕が手を差し伸べるようなことなんてないと思ってた。僕なんかが、そんなこと、おこがましい。でもきっと、もっとちゃんとお前のこと見ていたら、恋は盲目なんて言わずにきちんと向き合っていたら、気づくこともあったんだ。物理だって、もっと早く、一緒にやらせてくれって頼んでた。いつも僕は、頭では分かっても、心で腑に落ちるのが遅くて、鈍いんだ。理屈と心が別々で、それでしょっちゅうショートしちゃう。お前と一緒にいると心がぎゅうぎゅう押されて、いつも大変だったよ。ねえ、今まで誰もそんなところ、触れたことも、押したこともなかったんだぜ?俺の、奥の、中身。自分でも気づかなかった、見たことなかった、奥の奥の、更に奥。
ほら、夜空を見上げて、涙とか、出てくるじゃん。
お前が、恋しいよ。会いたいよ。
もう、知ったんだ。お前は完璧な存在じゃなくて、中身もないし、アブナイ一面もあって、醜いこともあるんだって、分かったよ。
だから、いつまでもうっとり見上げてないで、同じ地面に立って、話をしたいと思う。それは、お前が望むなら、だけど。まだ、そうしてもいいと思っててくれるなら、だけど。
・・・ついちゃったね、お前の、マンションに。
どきどきしてる。心臓の音が聞こえそう。
これから何が起きるか、分からない。
「帰ってくれ!」って怒鳴られるか、「お、久しぶり、何しに来たの?」って言われるか、「ちょっと、疲れてるからさ」ってため息つかれるか、予想も出来ない。
怖い。正直、震えそうなほど怖い。
でも、心は決まっている。だから、足を踏み出した。
今までお前と接して、お前と話して、一緒にいた自分が、僕の中にちゃんといた。そう、自分を、信じるんだ。今の自分が頼りにならないとき、過去の自分にすがるんだ。大丈夫、過去の僕は、今思えば過ちも犯してるし、やるべきことをやらず、どうでもいいことにとらわれてたけど、でも、それでも、お前のことを好きだって気持ちは純粋で、嘘偽りなく、恥ずべきことなんか一点もない。もっとこうしてれば、あれをしてればってことはあるけど、でも、こんな僕の人生で、最高の三ヶ月だったんだ。だからこれ以上のものは振っても叩いても出てこない。その僕でだめなら、もう諦めもつく。それなら悔いはないよ。
今、心臓はバクバクだし、手だって震えそうだけど、でも、びっくりするほど落ち着いていた。取り繕うような気持ちもないし、自虐的な苦笑いもない。澄んだ湖のように透明で、中立。何を言われても受け止められるし、どれだけでも正直に向き合える。
エレベーターのボタンを押して、ふう、と息をついて、乗り込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
深夜、しんとしたマンションの廊下で、ドアの前に立ち尽くした。
何度深呼吸しても、目を閉じて、開けても、インターホンを押すことが、出来なかった。
心臓だけが速いけど、他の部分は、時間が止まったように固まっている。呼吸だけをして、何かを待つけれども、・・・自分から、動かなくちゃ。
部屋からは、何の気配もしなかった。
換気扇とか、シャンプーの匂いとか、足音とか、何も。明かりだけはついているからいるはずだけど、そのまま、寝ちゃったのかな。
・・・何分、こうしているつもりなんだろう。
さっきの晴れやかな高揚感はまたどこかへ去って、ネガティブに戻りはしないけれども、でも、口に出さずに繰り返す<言うべきこと>について、本当にこれでいいのかと自問し続けた。
・・・本当は、何を言いに来たんだろう。
もちろん、研修中に、無自覚であれひどいことをしたというなら謝りたい。
でも、本当はたぶん、そうじゃない・・・。
・・・。
僕に何を望んでるのか、何を考えてるのか、ただそれを知りたい。きっと、それだけだった。
震える指で、インターホンのボタンを、押した。部屋の中にピンポーンと呼び出し音が鳴り響く。二回聞こえて、終わった。・・・何も、聞こえない。出てくる気配はなかった。ああ、やっぱり寝てるかな。そうか、話も出来ずに終わるのか。・・・いや、まあ明日出直すしかない。もう終電も終わってるから、そこらへんの公園で寝ようか。
・・・先延ばしに、するの?
ため息。
何をするべきか、しないべきかのせめぎあいは平行線で、もう一度インターホンを押すことは出来なかった。
0
お気に入りに追加
55
あなたにおすすめの小説
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
僕が玩具になった理由
Me-ya
BL
🈲R指定🈯
「俺のペットにしてやるよ」
眞司は僕を見下ろしながらそう言った。
🈲R指定🔞
※この作品はフィクションです。
実在の人物、団体等とは一切関係ありません。
※この小説は他の場所で書いていましたが、携帯が壊れてスマホに替えた時、小説を書いていた場所が分からなくなってしまいました😨
ので、ここで新しく書き直します…。
(他の場所でも、1カ所書いていますが…)
少年野球で知り合ってやけに懐いてきた後輩のあえぎ声が頭から離れない
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
少年野球で知り合い、やたら懐いてきた後輩がいた。
ある日、彼にちょっとしたイタズラをした。何気なく出したちょっかいだった。
だがそのときに発せられたあえぎ声が頭から離れなくなり、俺の行為はどんどんエスカレートしていく。
部室強制監獄
裕光
BL
夜8時に毎日更新します!
高校2年生サッカー部所属の祐介。
先輩・後輩・同級生みんなから親しく人望がとても厚い。
ある日の夜。
剣道部の同級生 蓮と夜飯に行った所途中からプチッと記憶が途切れてしまう
気づいたら剣道部の部室に拘束されて身動きは取れなくなっていた
現れたのは蓮ともう1人。
1個上の剣道部蓮の先輩の大野だ。
そして大野は裕介に向かって言った。
大野「お前も肉便器に改造してやる」
大野は蓮に裕介のサッカーの練習着を渡すと中を開けて―…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる