36 / 382
わが家へようこそ
第36話:僕のうちに好きな人がやってくる
しおりを挟む
18時などという夕方にここを歩いて、リゾットなど作りに行ったのが、遥か遠い過去のようだった。たった、二日前なのに。
「何かさあ、その辺の、高速バスとかに乗っちゃってさ、どっか遠くにでも行きたいよね」
黒井はいつもより更に遅いペースで新宿地下通路を歩く。どうして会社にはあんなに人間がいるのに、こいつは僕と一緒にいるんだろうなあ。
「ああ、温泉、とか、ね」
「温泉!」
「いいだろ?」
「最高。何もかもが最高。熱い温泉浸かってさ、浴衣でさ、座敷でさ、刺身とか、鍋みたいのつついて、そんで・・・」
「そうそう。何か、畳ってか、い草とか、座布団の匂いがして。で、いまいちあったかくない布団敷いて」
「猥談」
「・・・情緒がないやつだな」
「えー。お約束だよ」
「お約束っていうのは、好きな女の子の話とか、そういうこと」
「別に、誰でもいいよ」
「はあ。そんなんじゃ一緒に行けないね」
「えっ、何で?じゃ、ねこ、好きな女の子の話できんの?」
「うっ、それは・・・今は、ちょっと」
「自分で出来ないこと、人に言う?」
「・・・そうね。すんませんでした。一緒に行こう」
「そうだそうだ!・・・で、いつ行く?明日?」
「・・・ぷっ、そうね。明日ね。って、そんなの」
地下通路を経て、改札を抜ける。連休前の、金曜の夜の、新宿西口。たったの一週間前だ。僕が「みつのしずく」に向けて、ここを徘徊していたのは。そのことを言ってしまいたくなるけど、もちろん、みーちゃんとのことが言えるわけもなく。それに、結局携帯に出ないまま僕が何をしていたのか、改めて聞かれることもなく。ちょっぴり淋しいけれども、それでいいと思った。
うん、みーちゃんにも、伝えたいな。こうして、今僕が、笑いながら黒井と温泉話なんかしてるって。僕が今ここにいるのも、みーちゃんの荒療治?のおかげなのだから。
「ん、どしたの?」
「ああ、何でもない」
「ねえ、次でいいよね。座りたい」
「うん。座って帰ろう。疲れたし」
そして。
座ったのはいいものの。
寝ちゃうんだから。
僕は、黒井が僕の反対側に舟を漕ぐのを、腕をつかんで強引に止め、僕の肩に引き寄せた。い、いえ、同僚がご迷惑をおかけして。ええ、責任持って僕が、はい、引き受けますので。え、よだれ?はあ、それも込みで、はい。
ま、聞こえてないんだし、言っても言わなくても、考えても考えなくても、結局はちらっと見るだけで誰も何も言ってこないんだから。いいでしょ。
そうして僕は、黒井がまたあっちへ行かないように腕を取って、自分も寝た振りをした。どんなに素晴らしい大義名分を考えたって、貼り紙にして貼っておけないんだよな。ああ、もう、うっとおしい。ふたりっきりにしてくんない?なんて。
・・・。
・・・?
・・・。
音が、感覚が、浮かぶように戻ってきて。
あれ。
僕、寝た?え、うそ。
今さっき、大義名分が、どうとか。あれ。
タイムスリップした?
・・・席が、空いている。さっきまで、席も、目の前に立っている客も、いっぱいだったのに。
ずり下がった体を起こして、黒井の頭も肩から落っこちるけど、車両を見渡す。
え、ここ、どこ?
うわっ。
黒井がぐらりと揺れて、僕の、膝に。いや、股間、に。だめだめ、何か、僕寝てたから、その。
「おい、ちょっとクロ、起きて」
「ん・・・」
「ねえ」
「・・・っ、ふうん・・・」
ああ、もう、またぐんにゃりして。やっぱりよだれとか垂らしてるし。ハンカチで、拭いてやった。
「ねえ、クロ。ちょっと、何か、寝過ごしたっぽい」
「ふぇ・・・?」
「やばいかも。下手すると帰れないよ」
「なにが」
「とにかく、次の駅・・・」
そのとき、車内アナウンスが流れ、僕の自宅の駅の、次の駅だと告げた。とりあえず僕は帰れるけど、うん、黒井はどうなるんだろう?
「とりあえず、降りるから。鞄、持ってほら」
「え、着いたの?」
「桜上水じゃないよ。もう俺んちも過ぎてんの。すっごく寝過ごしたってこと。上り、まだあるかな」
駅に着き、黒井の腕を抱えて何とか降りた。寒い。
黒井をベンチに座らせて、時刻表を見る。ギリギリ、あと何本かあるけど、桜上水まで行ってくれるかどうか。最終で間に合わなければ、うちに泊めるしか・・・。
え。
・・・。
いや。
無理だよ。
だめだめ。次の電車。乗せなきゃ。絶対。
「クロ、よく聞いてよ。次の電車ね、途中で止まっちゃうから、乗り換えるの。たぶん調布で向かいに電車待ってるから、それに乗れないと、お前帰れないからね」
「・・・ねこは?」
「俺は、ここ、隣の駅だから大丈夫だよ。歩いて歩けないこともないとこ」
「・・・ふうん。こういう、とこに、住んでんだ。・・・静か、だ」
「うん。・・・まあ、この時間ならどこだって静かだよ。あ、電車来るから、乗るよ」
「ふうん・・・」
分かってるのかな。心配だけど、桜上水までついていったら当然僕が帰れないし。
ほとんど無人の電車がホームに滑り込んで、あっと言う間に僕たちを乗せていった。僕は一生懸命乗り換えを説明するけど、黒井はあんまり聞いていなくて。
すぐに、駅に着いてしまう。
「おい、頼むよ。俺、ここで降りなきゃ」
「うん。大丈夫。たぶん」
「そうかな。分かんなかったら、電話してこいよ」
「うん」
電車が、減速して。止まって。ドアが、開いて。
「じゃ、その、ちゃんと・・・」
「だいじょぶって」
「・・・うん。じゃあ」
僕がホームに降り、黒井と向かい合う。まるで、お別れみたい。いや、お別れだけど。僕と黒井の間に見えないドアが立ちはだかって、本当はそんなの、もう、ああ、乗っちゃおうか。
ジリリリとベルが鳴って。そういうわけにもいかないし、僕の足は凍ったまま。ドアが、閉まりはじめ、て・・・。
「えいっ」
あ、れ。
「っ・・・!」
「やった!」
「お、おま・・・」
飛び出してきて、しまった。ドアをすり抜けて、僕の駅に、黒井が、降り立った。
「やった、泊まり。明日、温泉!」
楽しそうに、笑いやがって。
「こ、このやろ!人が一生懸命・・・!」
「ふふーん。分かんないもーん。全然聞いてなかったもーん」
「な、何だよ、人の気も知らないで」
「良かったじゃん、だって俺、電話かけて泣きついたらお前、どうするつもりだったの?タクシーで迎えに来てくれた?」
「え、それは・・・」
「だからこれで良かったんだって。知ってた?俺、乗り換え苦手なの」
「し、知るかよそんなこと。・・・ったく、しょうがねえなあ!」
「そうだよ。俺んちばっか文句言って、お前どんな部屋住んでるか見てやるって、ずっと思ってたもん」
「大丈夫、お前のとこより綺麗だから」
「言ったな?」
「はいはい。じゃあ・・・帰る、か」
「あはは、何か、楽しくなってきた!」
どうしよう。
うちに連れ込んだりして、僕、大丈夫かな。大丈夫だよ、って自分からの返事、まったく返ってこないけど。
「よし、酒買って帰ろ!」
・・・一日が、長い。
こんなことになっちゃって、今年中の運を全部使い果たして、もうマイナスになってる気がする。たぶん週明けくらいからもう取り立て人がぞくぞくとやって来て、着ぐるみ剥がされてしまうだろう。
・・・来るなら、来い、か。
それならせいぜい、この連休を楽しんでやる。先のことなんか知るもんか。今このチャンスをつかまないで、何が人生だ。
よし!とにかく・・・帰ったらまず、あの皺になったネクタイとボタンのちぎれたYシャツを、クロゼットの奥へ丸め込まなきゃな!
・・・・・・・・・・・・・
駅からうちへ歩くほんの十数分。
途中、コンビニでまた深夜の買い出しをして、帰るわけだが。
酒なんて、また、買ってしまって。
・・・。
黒井が。
この、隣の、少し背の高い、傍目には爽やかイケメン風の男が。
僕の、片想いの、相手が。
うちに、来て。
・・・どこで、寝る気、なんだ。
ぼ、僕の、ふ、布団に、こいつ、一緒に入ったり、なんか、したら。
おかしくなりそうだ。
そんなの、僕の妄想が異次元から出てきて、都合のいいハーレムマンガみたいに、僕の夢を叶えにきたとしか思えない。
「ね、どしたの?」
「いや、ちょっと。人が来るなんてないから、緊張、してる」
もう、黒井が、どこの誰なんだかよく分からなくなってくる。
「別にさあ、いつもとおんなじだよ。お酒飲んでさ、何か食べてさ。お前どうせ、寝ちゃうし」
「ああ、そうだな。確かに。寝ちまうかもな・・・」
だめだ。
たぶん、目が据わったまま、ぎらついている。いや、襲ってしまいそう、という意味ではない。そうじゃなくて、ただ、黒井が現実で、自分の布団にいるという事実が、歪んで、ぶっ飛んで、おかしくなって、僕は家を飛び出してどこかで野宿するんじゃないかって、そういう心配だ。
酒を飲んで、酩酊して寝るか。
穴が開くほどこの男を眺めた後、飛び出すか。
どっちかなんだろう。
もう、好きな人なんだか、異次元の存在なんだか、よく分からなくなってくる。黒井の家に行くときは、僕は自分が主人公の小説を読んでいるような客観的な感じだが、今は、僕が主人公の僕になって、僕をやらなくちゃいけないんだ。それって、僕が腕を動かしたら動くし、足を動かしたら歩くし、ああ。
「・・・てっ」
「あ、こけた」
「・・・はは」
意識すると、歩くのさえ困難だ。僕は僕をうまく操縦できてない。
「なに、もう眠いの?肩貸そっか。あ、おんぶしてやろっか」
「け、結構だよ黒井くん。自分で歩かなきゃだめなんだ。慣れなきゃ、無事に、朝が来ないよ・・・」
「何言ってんの?もう寝ぼけてんの?」
「そういうことにしといてくれ」
「変なの」
もうすぐ、ああ、見えてるじゃないか。僕の、マンションが。
どうしよう。
あと五分、いや、三分後には、玄関を開けて、黒井が、僕の部屋に入ってきてしまう。空間が、侵される。黒井のことを何時間考えたんだって部屋に、本人が侵入するなんて。ものまね歌合戦の、ご本人登場じゃないんだから。来るって分かってても、目を見開いて口に手を当て、絶句のポーズ。・・・それがあと、三分後!
今までの妄想が全部部屋に浮いていそうで、それをくまなく見られそうで、もう半分、白状しちゃおうか、と思う。俺さ、実は、お前のこと好きなんだ。いや、そうじゃないよ。ウマが合うとか、親友だねとかじゃないんだ。ちゃんと、好きなんだよ。キスの先まで、考えちゃうくらいに。意味、分かるでしょ?お前が言うような、好き、じゃないんだ。お前がするような、キス、じゃないんだ。ね、分かった?俺のこと全然分かってなかったの、お前の方なんだよ。こんな妄想してるなんて、知らなかったでしょ。だってもし知ってたら、ふつうに付き合えるはず、ないもんね。でしょ?
「ねえ、まだ?」
ああ。我に返る。今の、口に出してないよね。
「うえっ?あ、ええと」
「ちょっと、どしたのさっきから?」
「あら?通り過ぎちゃってた」
「はあ?ねこ、大丈夫?」
「あはは、何だろうね、お客さん怖い症候群?」
「・・・俺が来るの、そんなにやだった?」
「いや、そういうわけじゃ、ないよ。ただ、ひたすらに、緊張してるんだよ」
「あ、まさか」
「・・・え」
「分かった。何か、すごい部屋なんだ?すっごい濃ゆい、マニアックなポスターだとか、グッズだとか、人に見せるの初めてとか」
「・・・いや、そういうの、別にないかな」
「アニメファンとか、エロゲマニアとか」
「何それ。僕が好きなのは、事件ものの海外ドラマと、ミステリ小説だよ」
「・・・そうなの?」
「ああ」
「本当?」
「うん」
「知らなかった」
「僕も今思いだしたよ」
「ぼく、て」
「あたしでもいいよ」
「・・・ほんとに壊れちゃったのかな。俺、どうしよう」
「ああ、黒井さん、着いちゃったわ。ここなの、うち」
黒井が僕から顔を背けて、どうしよう、と囁いていた。それは、あたしのせりふだってば。
「何かさあ、その辺の、高速バスとかに乗っちゃってさ、どっか遠くにでも行きたいよね」
黒井はいつもより更に遅いペースで新宿地下通路を歩く。どうして会社にはあんなに人間がいるのに、こいつは僕と一緒にいるんだろうなあ。
「ああ、温泉、とか、ね」
「温泉!」
「いいだろ?」
「最高。何もかもが最高。熱い温泉浸かってさ、浴衣でさ、座敷でさ、刺身とか、鍋みたいのつついて、そんで・・・」
「そうそう。何か、畳ってか、い草とか、座布団の匂いがして。で、いまいちあったかくない布団敷いて」
「猥談」
「・・・情緒がないやつだな」
「えー。お約束だよ」
「お約束っていうのは、好きな女の子の話とか、そういうこと」
「別に、誰でもいいよ」
「はあ。そんなんじゃ一緒に行けないね」
「えっ、何で?じゃ、ねこ、好きな女の子の話できんの?」
「うっ、それは・・・今は、ちょっと」
「自分で出来ないこと、人に言う?」
「・・・そうね。すんませんでした。一緒に行こう」
「そうだそうだ!・・・で、いつ行く?明日?」
「・・・ぷっ、そうね。明日ね。って、そんなの」
地下通路を経て、改札を抜ける。連休前の、金曜の夜の、新宿西口。たったの一週間前だ。僕が「みつのしずく」に向けて、ここを徘徊していたのは。そのことを言ってしまいたくなるけど、もちろん、みーちゃんとのことが言えるわけもなく。それに、結局携帯に出ないまま僕が何をしていたのか、改めて聞かれることもなく。ちょっぴり淋しいけれども、それでいいと思った。
うん、みーちゃんにも、伝えたいな。こうして、今僕が、笑いながら黒井と温泉話なんかしてるって。僕が今ここにいるのも、みーちゃんの荒療治?のおかげなのだから。
「ん、どしたの?」
「ああ、何でもない」
「ねえ、次でいいよね。座りたい」
「うん。座って帰ろう。疲れたし」
そして。
座ったのはいいものの。
寝ちゃうんだから。
僕は、黒井が僕の反対側に舟を漕ぐのを、腕をつかんで強引に止め、僕の肩に引き寄せた。い、いえ、同僚がご迷惑をおかけして。ええ、責任持って僕が、はい、引き受けますので。え、よだれ?はあ、それも込みで、はい。
ま、聞こえてないんだし、言っても言わなくても、考えても考えなくても、結局はちらっと見るだけで誰も何も言ってこないんだから。いいでしょ。
そうして僕は、黒井がまたあっちへ行かないように腕を取って、自分も寝た振りをした。どんなに素晴らしい大義名分を考えたって、貼り紙にして貼っておけないんだよな。ああ、もう、うっとおしい。ふたりっきりにしてくんない?なんて。
・・・。
・・・?
・・・。
音が、感覚が、浮かぶように戻ってきて。
あれ。
僕、寝た?え、うそ。
今さっき、大義名分が、どうとか。あれ。
タイムスリップした?
・・・席が、空いている。さっきまで、席も、目の前に立っている客も、いっぱいだったのに。
ずり下がった体を起こして、黒井の頭も肩から落っこちるけど、車両を見渡す。
え、ここ、どこ?
うわっ。
黒井がぐらりと揺れて、僕の、膝に。いや、股間、に。だめだめ、何か、僕寝てたから、その。
「おい、ちょっとクロ、起きて」
「ん・・・」
「ねえ」
「・・・っ、ふうん・・・」
ああ、もう、またぐんにゃりして。やっぱりよだれとか垂らしてるし。ハンカチで、拭いてやった。
「ねえ、クロ。ちょっと、何か、寝過ごしたっぽい」
「ふぇ・・・?」
「やばいかも。下手すると帰れないよ」
「なにが」
「とにかく、次の駅・・・」
そのとき、車内アナウンスが流れ、僕の自宅の駅の、次の駅だと告げた。とりあえず僕は帰れるけど、うん、黒井はどうなるんだろう?
「とりあえず、降りるから。鞄、持ってほら」
「え、着いたの?」
「桜上水じゃないよ。もう俺んちも過ぎてんの。すっごく寝過ごしたってこと。上り、まだあるかな」
駅に着き、黒井の腕を抱えて何とか降りた。寒い。
黒井をベンチに座らせて、時刻表を見る。ギリギリ、あと何本かあるけど、桜上水まで行ってくれるかどうか。最終で間に合わなければ、うちに泊めるしか・・・。
え。
・・・。
いや。
無理だよ。
だめだめ。次の電車。乗せなきゃ。絶対。
「クロ、よく聞いてよ。次の電車ね、途中で止まっちゃうから、乗り換えるの。たぶん調布で向かいに電車待ってるから、それに乗れないと、お前帰れないからね」
「・・・ねこは?」
「俺は、ここ、隣の駅だから大丈夫だよ。歩いて歩けないこともないとこ」
「・・・ふうん。こういう、とこに、住んでんだ。・・・静か、だ」
「うん。・・・まあ、この時間ならどこだって静かだよ。あ、電車来るから、乗るよ」
「ふうん・・・」
分かってるのかな。心配だけど、桜上水までついていったら当然僕が帰れないし。
ほとんど無人の電車がホームに滑り込んで、あっと言う間に僕たちを乗せていった。僕は一生懸命乗り換えを説明するけど、黒井はあんまり聞いていなくて。
すぐに、駅に着いてしまう。
「おい、頼むよ。俺、ここで降りなきゃ」
「うん。大丈夫。たぶん」
「そうかな。分かんなかったら、電話してこいよ」
「うん」
電車が、減速して。止まって。ドアが、開いて。
「じゃ、その、ちゃんと・・・」
「だいじょぶって」
「・・・うん。じゃあ」
僕がホームに降り、黒井と向かい合う。まるで、お別れみたい。いや、お別れだけど。僕と黒井の間に見えないドアが立ちはだかって、本当はそんなの、もう、ああ、乗っちゃおうか。
ジリリリとベルが鳴って。そういうわけにもいかないし、僕の足は凍ったまま。ドアが、閉まりはじめ、て・・・。
「えいっ」
あ、れ。
「っ・・・!」
「やった!」
「お、おま・・・」
飛び出してきて、しまった。ドアをすり抜けて、僕の駅に、黒井が、降り立った。
「やった、泊まり。明日、温泉!」
楽しそうに、笑いやがって。
「こ、このやろ!人が一生懸命・・・!」
「ふふーん。分かんないもーん。全然聞いてなかったもーん」
「な、何だよ、人の気も知らないで」
「良かったじゃん、だって俺、電話かけて泣きついたらお前、どうするつもりだったの?タクシーで迎えに来てくれた?」
「え、それは・・・」
「だからこれで良かったんだって。知ってた?俺、乗り換え苦手なの」
「し、知るかよそんなこと。・・・ったく、しょうがねえなあ!」
「そうだよ。俺んちばっか文句言って、お前どんな部屋住んでるか見てやるって、ずっと思ってたもん」
「大丈夫、お前のとこより綺麗だから」
「言ったな?」
「はいはい。じゃあ・・・帰る、か」
「あはは、何か、楽しくなってきた!」
どうしよう。
うちに連れ込んだりして、僕、大丈夫かな。大丈夫だよ、って自分からの返事、まったく返ってこないけど。
「よし、酒買って帰ろ!」
・・・一日が、長い。
こんなことになっちゃって、今年中の運を全部使い果たして、もうマイナスになってる気がする。たぶん週明けくらいからもう取り立て人がぞくぞくとやって来て、着ぐるみ剥がされてしまうだろう。
・・・来るなら、来い、か。
それならせいぜい、この連休を楽しんでやる。先のことなんか知るもんか。今このチャンスをつかまないで、何が人生だ。
よし!とにかく・・・帰ったらまず、あの皺になったネクタイとボタンのちぎれたYシャツを、クロゼットの奥へ丸め込まなきゃな!
・・・・・・・・・・・・・
駅からうちへ歩くほんの十数分。
途中、コンビニでまた深夜の買い出しをして、帰るわけだが。
酒なんて、また、買ってしまって。
・・・。
黒井が。
この、隣の、少し背の高い、傍目には爽やかイケメン風の男が。
僕の、片想いの、相手が。
うちに、来て。
・・・どこで、寝る気、なんだ。
ぼ、僕の、ふ、布団に、こいつ、一緒に入ったり、なんか、したら。
おかしくなりそうだ。
そんなの、僕の妄想が異次元から出てきて、都合のいいハーレムマンガみたいに、僕の夢を叶えにきたとしか思えない。
「ね、どしたの?」
「いや、ちょっと。人が来るなんてないから、緊張、してる」
もう、黒井が、どこの誰なんだかよく分からなくなってくる。
「別にさあ、いつもとおんなじだよ。お酒飲んでさ、何か食べてさ。お前どうせ、寝ちゃうし」
「ああ、そうだな。確かに。寝ちまうかもな・・・」
だめだ。
たぶん、目が据わったまま、ぎらついている。いや、襲ってしまいそう、という意味ではない。そうじゃなくて、ただ、黒井が現実で、自分の布団にいるという事実が、歪んで、ぶっ飛んで、おかしくなって、僕は家を飛び出してどこかで野宿するんじゃないかって、そういう心配だ。
酒を飲んで、酩酊して寝るか。
穴が開くほどこの男を眺めた後、飛び出すか。
どっちかなんだろう。
もう、好きな人なんだか、異次元の存在なんだか、よく分からなくなってくる。黒井の家に行くときは、僕は自分が主人公の小説を読んでいるような客観的な感じだが、今は、僕が主人公の僕になって、僕をやらなくちゃいけないんだ。それって、僕が腕を動かしたら動くし、足を動かしたら歩くし、ああ。
「・・・てっ」
「あ、こけた」
「・・・はは」
意識すると、歩くのさえ困難だ。僕は僕をうまく操縦できてない。
「なに、もう眠いの?肩貸そっか。あ、おんぶしてやろっか」
「け、結構だよ黒井くん。自分で歩かなきゃだめなんだ。慣れなきゃ、無事に、朝が来ないよ・・・」
「何言ってんの?もう寝ぼけてんの?」
「そういうことにしといてくれ」
「変なの」
もうすぐ、ああ、見えてるじゃないか。僕の、マンションが。
どうしよう。
あと五分、いや、三分後には、玄関を開けて、黒井が、僕の部屋に入ってきてしまう。空間が、侵される。黒井のことを何時間考えたんだって部屋に、本人が侵入するなんて。ものまね歌合戦の、ご本人登場じゃないんだから。来るって分かってても、目を見開いて口に手を当て、絶句のポーズ。・・・それがあと、三分後!
今までの妄想が全部部屋に浮いていそうで、それをくまなく見られそうで、もう半分、白状しちゃおうか、と思う。俺さ、実は、お前のこと好きなんだ。いや、そうじゃないよ。ウマが合うとか、親友だねとかじゃないんだ。ちゃんと、好きなんだよ。キスの先まで、考えちゃうくらいに。意味、分かるでしょ?お前が言うような、好き、じゃないんだ。お前がするような、キス、じゃないんだ。ね、分かった?俺のこと全然分かってなかったの、お前の方なんだよ。こんな妄想してるなんて、知らなかったでしょ。だってもし知ってたら、ふつうに付き合えるはず、ないもんね。でしょ?
「ねえ、まだ?」
ああ。我に返る。今の、口に出してないよね。
「うえっ?あ、ええと」
「ちょっと、どしたのさっきから?」
「あら?通り過ぎちゃってた」
「はあ?ねこ、大丈夫?」
「あはは、何だろうね、お客さん怖い症候群?」
「・・・俺が来るの、そんなにやだった?」
「いや、そういうわけじゃ、ないよ。ただ、ひたすらに、緊張してるんだよ」
「あ、まさか」
「・・・え」
「分かった。何か、すごい部屋なんだ?すっごい濃ゆい、マニアックなポスターだとか、グッズだとか、人に見せるの初めてとか」
「・・・いや、そういうの、別にないかな」
「アニメファンとか、エロゲマニアとか」
「何それ。僕が好きなのは、事件ものの海外ドラマと、ミステリ小説だよ」
「・・・そうなの?」
「ああ」
「本当?」
「うん」
「知らなかった」
「僕も今思いだしたよ」
「ぼく、て」
「あたしでもいいよ」
「・・・ほんとに壊れちゃったのかな。俺、どうしよう」
「ああ、黒井さん、着いちゃったわ。ここなの、うち」
黒井が僕から顔を背けて、どうしよう、と囁いていた。それは、あたしのせりふだってば。
0
お気に入りに追加
55
あなたにおすすめの小説
食事届いたけど配達員のほうを食べました
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
なぜ自転車に乗る人はピチピチのエロい服を着ているのか?
そう思っていたところに、食事を届けにきたデリバリー配達員の男子大学生がピチピチのサイクルウェアを着ていた。イケメンな上に筋肉質でエロかったので、追加料金を払って、メシではなく彼を食べることにした。
少年野球で知り合ってやけに懐いてきた後輩のあえぎ声が頭から離れない
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
少年野球で知り合い、やたら懐いてきた後輩がいた。
ある日、彼にちょっとしたイタズラをした。何気なく出したちょっかいだった。
だがそのときに発せられたあえぎ声が頭から離れなくなり、俺の行為はどんどんエスカレートしていく。
部室強制監獄
裕光
BL
夜8時に毎日更新します!
高校2年生サッカー部所属の祐介。
先輩・後輩・同級生みんなから親しく人望がとても厚い。
ある日の夜。
剣道部の同級生 蓮と夜飯に行った所途中からプチッと記憶が途切れてしまう
気づいたら剣道部の部室に拘束されて身動きは取れなくなっていた
現れたのは蓮ともう1人。
1個上の剣道部蓮の先輩の大野だ。
そして大野は裕介に向かって言った。
大野「お前も肉便器に改造してやる」
大野は蓮に裕介のサッカーの練習着を渡すと中を開けて―…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる