【本編完結】鳳凰抱鳳雛 ～鳳凰は鳳雛を抱く～

海誓山盟明和暗（不変の誓い）

122：干将莫耶（五）

　何日か悩みあぐねたあと、翳黒明イーヘイミンはようやく翳白暗イーバイアンに先日の謝罪と、それに話を聞いてみようと決意した。このままでは自分の心にけりもつけられないし、こんな浮ついた心では修練も疎かになってしまう。

　そしてやはり、翳白暗イーバイアンが本当に婚約をしていて、相手のことを思っているのなら。兄として心から祝福しなければ……。

　いや、無理だ。
　心からでなくとも、せめて体面上はそう見えるように保たなければならない。

　情けないほどのやせ我慢をして、翳黒明イーヘイミンは翳白暗イーバイアンの部屋に向かった。
　翳白暗イーバイアンの部屋の前で案の定、翳黒明イーヘイミンは声を掛けるべきか否かで迷って立ち尽くしてしまう。そんな都合の悪いときにばかり決まって現れるのはお邪魔虫。

「公子様、どうしたんですか？」

　驚いて翳黒明イーヘイミンは仰け反るとたたらを踏んだ。
　背後にいたのは愚京ユージンだ。慌てて翳黒明イーヘイミンは『しー』と指を口元にあて、黙れと愚京ユージンに訴える。
　しかしこの無神経な侍女はそんなことはお構いなしに代わらぬ声で翳黒明イーヘイミンに話しかけた。

「公子様、二公子様にご用事ですか？　でも多分無理だと思いますよぉ。二公子様はいま、想い人のための贈り物を作っていらっしゃるから……」

　にんまりと笑う愚京ユージンに、このときほど翳黒明イーヘイミンはこの女の首を掴んでやりたいと思ったことはない。しかしそんな湧き上がった殺気をどうこうする前に翳白暗イーバイアンが部屋から顔を出したのでそれどころではなくなってしまった。

「黒明ヘイミン!?　えっと、違うんだよ、そうだけど……いや、でも」
「二公子様ってば。ちゃんと仰ったらいいじゃありませんか。……大好きな人に差し上げるためのものだって」
「ちがっ……！　何を言うんだ！」

　翳白暗イーバイアンが気色ばみ、珍しく声を荒げる。そんな翳白暗イーバイアンの姿を見るのは初めてで、翳黒明イーヘイミンは少々驚き呆気に取られてしまった。
　逆に言うなら、それほど婚約者のことを彼は思っているということなのだろうか。そう思うとまた翳黒明イーヘイミンの心がきりきりと痛み始めた。

「みんな噂してるんですよ？　ここのところ二公子様が遅くまで毎日何かをしていらっしゃるって」
「そ、それは……」

　翳白暗イーバイアンは後退り、そしてちらりと部屋の中に目を向けた。翳黒明イーヘイミンもつられて彼の視線の先を追うと、机の上にあるものが目に入る。
　翳黒明イーヘイミンはその瞬間、雷に打たれたような気がした。

　――約束の花。

　翳白暗イーバイアンの机の上にあったのは、約束の花を模した羊脂玉の髪飾りだったのだ。

　――まさか、あれを婚約者に贈る気なのか!?

　確かめるより早く、嘘だと思うより早く、翳黒明イーヘイミンの頭の中は怒りと悲しみで一杯になった。

「約束の花を、思い出のあの花を、婚約者のために作ってやったのか？」
「ご、誤解だよ黒明ヘイミン！」
「何が誤解なんだ？　お前は俺たちの約束なんて、どうでもいいってことなんだな！」
「違うんだ、ほんとに……」

　この期に及んでも二人の大切な花を模した髪飾りを、婚約者に贈るためのそれを翳白暗イーバイアンが必死で弁明していることに翳黒明イーヘイミンはいらついた。

「公子様、なにも怒ることないじゃないですか。公子様にだって大切な人がいるでしょう？　二公子様を咎める権利なんてないんですよ」

　愚京ユージンの言うことはもっともだ。

（でも、でもそれなら部屋の前で声をかけなくったって良かったのに。そっとしておいてくれたら……こんな気持ちにならなかったのに）

　しかし、彼女の一言で翳黒明イーヘイミンもほんの少しだけ頭が冷えた。

「……もういい、部屋に戻る」

　なんとか怒りを抑え込み、これ以上言い合いを続けないように踵を返す。素早く翳白暗イーバイアンの部屋から去ろうとすると、翳白暗イーバイアンが翳黒明イーヘイミンの腕にしがみ付いた。

「待って、黒明ヘイミン！」
「いま話したって喧嘩になるだけだ。話があるなら後で聞く。……いまは、一人になりたいんだ」

　それでも翳白暗イーバイアンは泣きながら「待って」と懇願する。
　いまの自分では、何を言っても翳白暗イーバイアンを傷つけてしまうだろう。それは嫌というほど良く分かっている。
　仕方なく翳黒明イーヘイミンは力任せに翳白暗イーバイアンを振りほどいたのだが、それがいけなかった。

　想定以上に吹っ飛んだ翳白暗イーバイアンは机に体を打ち付けた。机の上にあった髪飾りは床に落ちるとばらばらに飛び散ってしまったのだ。
　驚いて駆け寄ろうとした翳黒明イーヘイミンは、その光景に足が竦んで動かなくなってしまった。
　翳白暗イーバイアンは言葉にならない嗚咽を漏らし、翳白暗イーバイアンは床に散った髪飾りを必死で拾う。

　その瞬間、翳黒明イーヘイミンはようやく大変なことをしでかしてしまったことに気づき、青ざめた。言いようもない罪悪感が湧き上がり、目の前が真っ暗になる。
　いまのは一方的に自分が翳白暗イーバイアンに対して怒りをぶつけただけだった。彼が約束の花を、たとえ二人だけの秘密だと言ったとしても。その髪飾りを作ったことを咎める権利は翳黒明イーヘイミンにはなかったし、ましてや彼が賢明に作った髪飾りを壊していい道理などどこにもない。

　なおも泣きながら髪飾りを拾い続ける翳白暗イーバイアンの姿を見て、呼び止める愚京ユージンの声を聞きながら。翳黒明イーヘイミンは這う這うの体でその場から逃げ出してしまった。



　翳白暗イーバイアンはそれから暫くの間ふさぎ込んでいた。誰が呼びかけても応えることもなく、部屋から出ることもない。宮主ぐうしゅも困り果ててしまい、暫くそのまま時間が過ぎていった。
　悪いことをした、そうは思っていてもどうしていいか分からない。翳白暗イーバイアンの部屋に足を向ければ――あのときの悲痛な翳白暗イーバイアンの泣き声が蘇る。

　それが辛くて、恐ろしくて、翳黒明イーヘイミンは翳白暗イーバイアンの元へ会いにも行けなかった。
　いや、行けなかったのだ。
　愚京ユージンは何度か翳黒明イーヘイミンの元を訪れ、翳白暗イーバイアンの元に行かないのかと尋ねてきた。

「あたしには二公子様が何を作っていたのかよく分かりませんけど、でもきっと大事な方を想って作ったのでしょ？　二公子様はあれ以来婚約者にすら会われないみたいですよ」

　ときおり愚京ユージンがやってきては、翳白暗イーバイアンの様子を伝えてくれる。しかし、彼女が言うことは大概翳黒明イーヘイミンの罪悪感を刺激するか、翳白暗イーバイアンの恋人に対する話ばかりなので、やはり翳黒明イーヘイミンはどうしても気持ちの整理がつかず、翳白暗イーバイアンの元を訪れることができなかった。

　愚京ユージンの話では、翳白暗イーバイアンがふさぎ込んでいる間も富豪の娘は甲斐甲斐しく翳白暗イーバイアンの元を訪れ、部屋の前で呼びかけていたらしい。
　それでも翳白暗イーバイアン出てこないので仕方なく彼女は部屋の前に贈り物を置いて去り、それから暫くのあと宮主ぐうしゅが富豪の娘を連れて部屋の中に入っていったそうだ。しかし、翳白暗イーバイアンは頑なに父と彼女を拒絶してちょっとした諍いになった……と、門弟たちが噂しているのを翳黒明イーヘイミンは偶然立ち聞きしてしまった。

　翳白暗イーバイアンもいずれは気持ちを落ち着けて、部屋から出るだろう。そのときはもう、彼に当たるような醜いことはやめて、できるだけ距離を置くのが良い。
　そう決めて翳黒明イーヘイミンは変わりない日々を繰り返す。
　とても長い時間だったように思っていたのだが、実は思うほどには長くはなかった。




　妙なことが始まったのはそれからじきのこと。
　それまで翳黒明イーヘイミンの周りにいた門弟たちが少しずつ減っていったのだ。別に彼らに囲まれて嬉しいと思ったことはさほどなかったが、あからさまに人数は減ってゆき、何故か言葉をかけても無視されることが増えていった。

（いったい何があったんだ？）

　心当たりを探すも、別段普段通りにしか行動はしていない。しかし確実に翳黒明イーヘイミンに対するみなの対応は変化してきているのだ。
　翳黒明イーヘイミンがこのさき翳冥宮えいめいきゅうの宮主ぐうしゅになることは誰でも知っている話。だからこそみな翳黒明イーヘイミンの傍にいて話しかけることが多かった。
　そしてそれは翳黒明イーヘイミン自身良く知っていることだ。

　ならば何故？
　そう思っていると答えはすぐにやってきた。

　鬱々とした気持ちを抱えながら少しでも気分を晴らそうと思い、翳黒明イーヘイミンは翳冥宮えいめいきゅうの領内にある林に出かけた。そこは普段から門弟たちが修行で使用している場所で、行けば誰かしらが剣を振っていることも多い。翳黒明イーヘイミンが訪れたときもやはり見知った顔が沢山いて剣を交えたり一人で修行に励む者もいた。

「あれ、黒明ヘイミンじゃないか！　最近とんと見なかったけど、いったいどうしたんだ？」
「ああ、ちょっと。なんか調子が悪くて」

　うじうじと女々しく悩み過ぎて、何もする気になれなかったなど、言えるわけがない。適当に話を濁して翳黒明イーヘイミンはみなと共に剣を振ろうとした。
　そのときだ。翳黒明イーヘイミンはあることに気づいた。
　誰かを中心にみなが集まってわいわいと話しかけている。ただ一人に向かってみなの視線が集まっているため、その理由を察するのはそう難しいことではなかった。

「白暗バイアン……」

　みなの中心にいたのは他でもない翳白暗イーバイアンだ。
　少し前まで誰とも口を利かず、部屋に閉じこもっていたはずの彼が、いま門弟たちに囲まれて笑いながら話をしている。

「黒明ヘイミン」

　翳白暗イーバイアンは翳黒明イーヘイミンがいることに気づくとクスリと小さく微笑んだ。その微笑みは、翳黒明イーヘイミンがいままでただの一度も見た事のない、妖艶な微笑みだった。
　ぞくりと違和感が翳黒明イーヘイミンの背筋を駆け抜ける。

　その原因を探ろうと翳黒明イーヘイミンが翳白暗イーバイアンを見ていると、翳白暗イーバイアンのほうから更に翳黒明イーヘイミンに向けて言葉をかけてきた。

「黒明ヘイミンどうしたの？　もしかして少し痩せたんじゃない？」

　翳黒明イーヘイミンが避けることもできないほど鮮やかな動きで、翳白暗イーバイアンは翳黒明イーヘイミンの腰を引き寄せる。驚いた翳黒明イーヘイミンが離れようとすると、翳白暗イーバイアンは一層強い力でそれを遮った。

「ほら、やっぱり。……それに修行もさぼってるんじゃないの？　すぐ分かったよ」
「急にどうしたんだ、何のつもりだ？」

　痩せたというのは本当だし、修行をさぼっていたのも本当だ。ここのところ、翳白暗イーバイアンとのことで頭が一杯で、とても修行など集中できる状態ではなかったし、食事も正直喉を通らなかった。
　だがしかし、部屋から一歩も出ずにふさぎ込んでいた翳白暗イーバイアンに比べたらまだましなほうだったろう。
　お前が言うのか、と翳黒明イーヘイミンは思った。