幻獣の棲みか

iejitaisa

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第四章 監視

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 ホタルは見た。
 赤髪の女の子が、拷問されているところを。
 ガラスの部屋の中で、父親を始めとする研究員に囲まれていた。
『ああああぁああぁあぁあぁぁぁぁ!』
 その声を聞くだけで、心臓が石になったかのように重たく、苦しくなる。
 白く、薄いもやがかかった部屋の中で、少女を乗せた台が、床面と水平になるまで傾けられている。父親の手に、丸いノコのついたエンジンカッターが握られている。それが、少女の腹の上で、滑らかに回転している。
 ホタルはそれを、ガラスの向こう側から見ている。
『さあ言え!不老不死の仕組みを!言うまで何度でも殺す!』
 父親が、ホタルの聞いたことのないどす黒い声で脅しをかけている。この人が普段、甲高いネズミのようなきいきい声で喋るなどと、誰が想像できるだろうか。
 やめて――
 自分の声がガラスの壁に反射する。
 ――――――やめて!
 両手でガラスを叩く。しかし、耳栓をしたままドラムをたたいたように、遠くから音が返ってくるばかりだ。
「あら」
 父親の隣にいた研究員の一人が、思い出したように振り向いた。
 金髪をボブカットにした美人だった。瞳がエメラルドのように綺麗だった。白衣を羽織っていたが、胸が大きすぎて前をとめられないでいた。白衣の下は、なぜか全身、真っ黒なレザースーツだった。胸の上に、金の十字線が入った綺麗なガラス玉が転がっていた。ネックレスだ。
「あなた――」
 金髪の女性はじわりと目を細めた。
 突然声をかけられたものだから、ホタルはびっくりして両こぶしを握りしめた。肩に力が入って、セメントで固めたみたいにこわばった。
 金髪の女性はふふ、と笑みをこぼした。
「たまにいるのよね、夢が夢じゃない、特別な人が」
「……これは、夢なの?」
「普通はそうなのだけど……あなたのは――ちょっと不思議ね。夢と現実がごっちゃになってるみたい。もう帰るわ」
 金髪の女性はすっぱそうに唇をすぼめ、落ちていくモミジの葉のように、手をヒラヒラさせた。
「同業者相手だと、私の仕事はうまくいかないの」



「気をつけなさい。夢に囚われないように」



――記録。西暦2045年8月10日。福建省奥地、ワイルドハントベース基地、居住区。



 ホタルは机の上で目を覚ました。いつの間にかうたた寝していたらしい。
 今の今まで見ていた夢を、惚けたように追いかけていた。
「さぶ……」
 ついつい、いつものクセで暖房をつけないでいた。ホタルはニットの上から自分の腕をさすった。吐く息が白い。
 机の上に散らばっているシャーペンやノック式の消しゴムを手早く片付け、伊達巻を作るように筆箱を巻きとった。
 カーテンを開くと、まん丸のお月様がちょうど森の向こうに消えるところだった。もうすぐ朝だ。
 システムキッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。
 食材は相変わらずパンパンに詰め込まれている。いつ補充されているのか、知りたくもない。そして相変わらず無いのは、タッパーや弁当箱、ラップといった〝食材を持ち運べるもの〟だ。
 ホタルはパンを切り、たっぷりとマーガリンを塗って、チーズやハムだけを挟んだ。ごはんを炊いて、手にごま油をつけ、梅干しや、塩でもんだ昆布を入れて握った。それを熱したフライパンの上に転がし、フライ返しでぺしゃんこになるまで押し付け、パリパリになるまで焼いた。
 ベッドの脇に置いていたえんじ色のリュックサックを引っ張り出し、冷蔵庫の中に入っていたミネラルウォーターを三本、横倒しにして底に敷き詰めた。その上に下着をくるんだタオルを二枚重ね、仕上げにぱさぱさのサンドウィッチと、干からびたおにぎりを詰め込んだ。
 キッチンペーパーとハンカチーフできつく縛ってはいるが、どうしても食材には水分が残る。日が経てば染み出すし、雑菌もわくだろう。
 机の上に置いたままのスケッチブックと筆箱を思い出しホタルはあやうく、日が暮れるほど悩むところだった。しかし、うかうかしていられない――二度ほど筆箱に手が伸びたが――人差し指の第二関節を甘噛みすることで、なんとか我慢した。荷物は必要最小限だ。
 ホタルは腕をすりむかないようにゆるめの長袖シャツを着て、家から持ってきていたレギンスと、その上にオリーブ色のハーフパンツをはいた。洗面台で手早く髪をまとめると、目線を隠すようにキャップ帽を深くかぶり、その後ろからポニーテールを流した。最後に、兵舎からこっそりくすねてきたミリタリーブーツに足を通した。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 鉄張りの廊下に出たとたん、ワタルとおでこをぶつけそうになった。
 ホタルは廊下の壁に背中から突っ込んだ。ぐにゃりと、おにぎりが潰れた感触が背骨に伝わってきた。
「いや、違う!今度はちゃんと押そうとしたって、チャイム!」
 怒られる前に言い訳をする子供のように、ワタルは早口でまくしたてた。
 残念だが、今は相手をしている暇はない。「いいの」と短く言って、ホタルは右向け右で歩き出す。
「待てよ」こんな時だけ男らしい声で、ワタルは言う。
「ちょっと、離して」突然右の手首を掴まれ、ホタルは怪訝な顔で振り向く。
「どこに行くつもりだよ」
 ワタルはなんだか、切羽詰まった表情をする。それはいいが、手首が痛い。ホタルは全力で右手を引く。
「ワタルには関係ないでしょ」
「あるかもしれないだろ」
「ないわよ」
「あるって!」
 ワタルは頬を真っ赤にしながら怒鳴った。
 なぜ怒られなければならないのか、ホタルは不快でたまらなかった。あと、手首が本当に痛くなってきた。強く握りすぎだ。



「助けるぅ!?」
「しっ!声が大きいわ!」
 ホタルは咄嗟に両手でワタルの口を塞いだ。部屋の中に戻ったとはいえ、気が気ではない。カーテンを閉じた大窓や、鍵をかけた入り口ドアを何度も見てしまう。
「んむむ、むぐ」
 手の平で、柔らかく湿った感触がにゅるにゅると動いた。ホタルはしかめっ面になって手を放した。気持ち悪いことに、ワタルは微妙に顔を緩ませていた。
「助けるったって……どうすんだよ!」
 平行四辺形に潰れそうだった顔を立て直して、ワタルは真面目ぶった。
「警察に助けを求めるつもり」
「ここは中国だぞ、それも、うんと山奥の……電波届くのか?」
「電波はずっと届いてる。彼らは電波を増幅しているの。基地の上に大きなアンテナがあったでしょう?」
 ワタルは腕を組んで黙り込んだ。
「ねぇワタル、中国語喋れる?」
 ワタルは無言で肩をすくめた。
「はぁ……」ホタルは口元を押さえ、ため息を吐き出した。
 ワタルはなぜか、ホタルの手をまじまじと見つめ、そわそわしていた。
「それに……どうやってここに来てもらうんだ」
 スケベ、と言おうとしたら、ワタルは早口で喋り始めた。
「覚えてるか?車で――八時間も走ってぇ――そのあと――あー、なんだっけ――あぁ!ヘリだ!ヘリでここまで来たじゃないか!上からつるされてぇ――なんか滝つぼの前に下ろされてぇ――なんか滝の中に、でっかい洞窟があった。で、入ったら……なぜか滝の中に――世界がもう一つあった」
 夢いっぱい!とでも言いたげに両腕をぐるんと回し、ワタルは目をぱちくりとさせた。
 言いたいことはわかる。滝つぼをくぐった時の衝撃を、ホタルも覚えている。ただでさえ秘境中の秘境と言われる中国福建省の、その一番奥深いところに――秘境どころか――もう一つの地球を発見してしまったのだから。
「来てもらう前に、どうやって説明するんだ?」
 ワタルの言う通り、まずは信じてもらうことが先決だ。
 そのためには誰でもいい、外部の人間を連れ込んで、実際に目にしてもらわなければ。
「そ、」ホタルはほら見なさい、と人差し指を立てる。
「だからまず、どうにか下道で行く方法がないか、調べてみようと思って」
「どうやって?」
「実際に歩くの」
「危ないだろ!そんなの!」
 ワタルはまた怒った。
「なんとかなるはずよ!」
 ホタルもいい加減イライラして怒鳴り返した。
「入り口がある以上、誰かが昔、通ったはず……そうじゃなきゃおかしいわ。わたし、行ってくるから。その間に、中国語でなんとかできないか翻訳してみて。ネットで調べればでるはず」
「ちょ……おい!ホタル!」
 ワタルにまた掴まれたらたまらない。ホタルは逃げるように部屋を後にした。



 ホタルは基地の中を歩幅小さく歩いた。
 壁や床が黒い鉄板になると要注意だ。だいたい、そこは立ち入り禁止区域に指定されている。とはいえ、ホタルの目指すところはおそらく、そういったエリアの中にある。だからホタルは、できるだけ兵士が集団で移動しているところを見つけて、その後ろにこっそりついて行く。
 何度か厳重そうな扉を見つけたが、そういう時はたいてい、横に銃を持った兵士が立っていて、ジロリと睨みつけられた。ホタルは回れ右を四回、他人のふりをして通り過ぎることを三回、兵士の列に続いてしれっと扉に近づいて怒られるを一回、それぞれ経験した。
 太陽が真上に登ったころ、ホタルは、昨日大佐が燃やしてしまった憩いの場にいた。ベンチの上でリュックサックを開き、煎餅のようになったおにぎりをはんだ。部屋に戻って、ワタルに見つかるのが癪だった。
 一本しか立っていない街灯の足下には、アルストロメリアが美しく咲いている。
 無事でよかったとぼんやり考えながら、メリメリと米粒を噛んでいると、ふいに光明が差し込んだ。
 コカ・コーラの箱を持った作業員がやってきたのだ。
 兵士たちとはあきらかに気色が違う。赤と黒の作業着に身を包んでいるし、顔が脂ぎっているし、たぬきのようにお腹が出ている。
 作業員は自販機に近づくと、鍵を使って開き、小銭の回収を始めた。
 ホタルは胸の奥で早送りボタンをぽちっと押した。咀嚼のスピードを三倍にした。
 段ボールの中に入っていたコカ・コーラが、ガランゴロンと投入されていく。ぺしゃんこのおにぎりが、ホタルの口の中へ転がるように入っていく。
 段ボールを空にすると作業員は、手慣れた様子でぱぱっと畳み、その辺に放り投げた。
 ポイ捨てするのかと早とちりし、あやうく激高しかけたホタルだったが、作業員は自販機の隣に設置されたゴミ箱に手をかけ、空き缶がたんまりと入ったビニール袋を引っ張り出した。ホタルは胸をなでおろした。
 作業員は右手にビニール袋を、左の脇に段ボールを抱え、基地の中へ戻っていった。三十秒前におにぎりを食べ終えていたホタルは、すぐにあとを追いかけた。
 迷路のような基地の中を、作業員は一切の迷いなくずたずたと歩いていく。おそらく何度も出入りしているのだろうと、ホタルは推察する。兵士とすれ違う度に、首をすぼめてやりすごす。キャップ帽のおかげで顔は見えないはずだ。
 作業員は食堂の前を横切り、トイレの前を通り過ぎ、兵士の待機室を素通りした。突き当りまで行くと、そこには――今までとは違う――ドアノブのついた開き戸が待ち構えていた。しかも、ここには見張りの兵士がいない。あるのは、鍵穴の位置についているカードリーダーだけだ。
 作業員はビニール袋を左手に持ち替え、空いた右手でポケットをまさぐった。白いカードを取り出すと、リーダーに通し、ノブを捻った。
 ホタルは作業員の姿が扉の向こうに消えるのを待って駆け出した。扉が閉まる直前に、ブーツを差し込むことに成功した。隙間から外の様子を伺うと――やっぱりだ――黒い壁と床のエリアがそこにはあった。昨夜軍用車で通ったところと同じように、広い通路になっていた。そして、真っ赤なトラックが鎮座していた。荷台に書かれている筆記体はもちろん、コカ・コーラだ。
 荷台の後ろにはハシゴがついていて、作業員はそこから上に登り、荷台の屋根にゴミを放り投げた。黒い網をゴミの上にかぶせ、落ちないように固定していた。
 ホタルは、扉を半開きにしたまま、その様子をじっと確認していた。作業員がトラックの運転席によじ登ったタイミングで、扉の影から猛ダッシュして、ハシゴに飛びついた。
 ホッとしたのもつかの間、プシュン、という音を立て、トラックが揺れた。ホタルはとび職も顔負けの速度でハシゴをよじ昇った。
「ひゃっ!」
 天井から垂れ下がった照明が、振り子についたハンマーのように勢いよく襲ってきた。ホタルは空き缶や段ボールの上にダイブした。飲み残しが醸し出す甘酸っぱい香りに顔をしかめながら、水を嫌がる飼い犬のように、いやいや顔をうずめた。
 トラックはその後、鉄板で舗装された通路を走り続けた。鉄板の継ぎ目を通過するたび、空き缶に耳たぶをぶたれた。トラックは、数分走ってはプシュン、と止まり、十数秒後に発進するを繰り返した。ゴミの隙間からのぞくと、警備詰め所のようなところでトラックが止まり、その中にいる兵士に、作業員が通行証のようなものを見せているのがわかった。そういった検問所が、四か所も設けられていた。
 鉄板エリアの終わりは、トラックの揺れ具合ですぐにわかった。回転寿司のように定期的に流れてきていた頭上スレスレの照明がなくなり、むき出しの岩肌になった。舗装されていない道が、トラックをガダガダに鳴らした。地面の凹みや、飛び出した石を踏むたび、ホタルは空き缶と一緒に浮いたり、叩きつけられたりを繰り返す。やんちゃな子供に叩かれているおもちゃはきっとこんな気分なのだろうと、ホタルは思う。
 これ以上はかなわないと体が悲鳴を上げ始めたころ、トラックが速度を落とし始めた。ホタルはハシゴまで這っていき、ひんやりとした持ち手を掴んだ。
 半分ほど降りてみたが、トラックはまだ走り続けている。ホタルが小走りする時と同じくらいの速度ではあったが、眼下の地面がルームランナーのように流れていく様は中々に恐ろしい。
 ハシゴを握る手が汗ばむ。ホタルは目をつむり、深呼吸する。
 痛いだろう、むき出しの地面に落ちたら。
 怪我をするだろう、擦りむくのが膝だけですめばよいが。
 いち、に、さんと覚悟を決めて、ホタルはハシゴから手を離した。
「わわっ!」
 自分で思っていたより二秒早く、地面がやってきた。ミリタリーブーツが受けた衝撃が、そのまま膝を伝って腰に直撃した。ごうつくばりなホタルの体は、こけたくないと手足を動かしたが、速度も回数もまったく足りなかった。ホタルはそのまま前につんのめり、どの方向に回転したのか、自分でもわからなくなりながら転がった。
「ぁう……」
 もうもうと立ち上る土煙が晴れていくと、次第に、自分がいる場所がどこなのか見えてきた。ドドドドド……という音も聞こえるようになった。
 洞窟の中だ。普通と違うのは、太陽の光が黄色や白でなく、青みがかっていることだ。
 その原因は、出口にかかっている水流のカーテンだ。巨大な滝が、洞窟と外の世界とを断絶している。
「ん……」
 ホタルは泥だらけになった頬を拭って、立ち上がった。
「あぁ……」
 薄いレギンスでは防ぎきれなかった。両膝の小僧が真っ赤に腫れて泣いている。それと、右手の平にもぶつぶつのひっかき傷ができている。
 ホタルは浅い呼吸を繰り返し、脳みそに痛みを納得させた。
 そうこうしている間に、コカ・コーラのトラックは洞窟を出て行った。水のカーテンの前で九十度左折したことから、ホタルは、彼らがあの先に道を作ったのだと勘ぐった。

 また人類が自然を壊した。
 人間の都合で。

 その事実にはらわたが煮えくり返る。膝の痛みなど軽く吹き飛ぶ。ホタルは怒りにまかせて、洞窟の中を早足で行く。水の向こうに、福建省が誇る大自然が見え隠れする。もうすぐで、コカ・コーラのトラックが通ったわき道にたどり着く――ホタルは、エンストした車のように大げさに立ち止まる。
 悲鳴は押し殺した。

 わき道には先客がいた。

「あぁ」
 大佐がつぶやいた。
 しぶきを上げて落ちる水の塊に目を細めながら、煙をふかした。
「奇遇ですな、ホタル様」
 それがちっとも奇跡の再会でないことが、ホタルにはわかった。
 大佐は人差し指と中指でタバコを挟むと、無造作に落とした。
「……ドレイク、ポイ捨てはよくないことだわ」
「おっと……これは失敬」
 大佐は大根役者ばりに笑うと、タバコをぐりぐりと踏みつぶし、拾い、コートのポケットに突っ込んだ。代わりにスキットルを持ち出すと、当たり前のように栓をひねった。
「どこに行かれるおつもりですか」
「ちょっと、下山しようと思って」
 ホタルは慎重に慎重を重ねて言う。
「あまりお勧めできませんな」
 アルコールを補充してドレイク。
「その恰好では、装備では、滑落して死にます」
 スキットルを持った手で、膝小僧を指さされる。ホタルはリュックサックの肩ベルトを握り直す。
「一緒に降りるのを、手伝ってくれると嬉しいんだけど」
 スキットルを傾けたまま、大佐はピタリと止まった。もうほとんど飲みほしてしまったのだろうか、呑み口から溢れ出たのは、大佐の笑い声だった。
「んっふっふっふっ……んっはっはっはっはっ……あぁ、ホタル様」
 大佐は酔い醒ましと言わんばかりに頭を振った。
「下まで降りて、どうなさるおつもりですか」
「この辺りの植生について……もう少し、詳しく調べておきたいと思って――」
「――スケッチブックも持たずに?」
 ホタルはもうすぐで叫びだしてしまうところだった。
 胃の入り口を直接握られたような恐怖と、薄ら寒い違和感だった。
 リュックサックの中身を見もせずに、しかし大佐は、絶対の確信を持ってそれを言った。
「私は植物と向き合っておられるホタル様が好きです」
 大佐は滝の向こう側を見ながら言う。それはまるで、遠い昔を思い出しているように見える。
 ホタルは悟る。言い訳も言い逃れも、大佐には通じない。
「スケッチブックと睨めっこされているお姿が、大変愛らしい。それに、幸せそうだ」
「あむ……あぁー、忘れてた。入れるの」
「ならば、取りに戻られた方がよろしいかと」
 気づかうような笑顔は、決して本心ではない。
「えぇ……そうね……」
「どうぞ、あぁ、」スキットルの口をぎゅっ、と締め、大佐が思い出したように呟いた。
「セキュリティゲートは開けております。ですから、まっすぐお進みになって結構ですよ」
 大佐の笑顔はロシアンルーレットと同じだ。
 いつ、その、奥深くに潜んだ蛇が飛び出してくるのか、怖くてたまらない。
 一滴の水を砂漠に垂らしたように、口の中がカラカラに干上がる。
 ホタルはなんとか、言葉を捻り出す。
「……ありがとう、ドレイク」
 大佐は笑顔の仮面を貼り付けたまま、何も言わない。ホタルは滝の向こう側に希望を見たまま、ブーツのつま先で半月を描く。後ろ髪を引かれる思いと、一刻も早くこの場を立ち去りたい思いとで、左右の足がバラバラに動く。コカ・コーラに引っかかってやって来た道を、同じくらい、いやそれ以上の速度で帰りたいと願う。
「指輪の話をしていませんでしたね」
 洞窟の中に大佐の声がこだました。
 ホタルは、大佐のその、喉奥に何かが引っかかったような喋り方が嫌いだ。
 影を踏まれたように、体が動かなくなるから。
 振り返ると、轟音を立てて落ちる滝を背に、大佐が、左手の指輪を愛おしそうに撫でていた。
 金の指輪に差し込まれた赤い染料が、青空の中の太陽のように輝いていた。

「これは彼女にもらいました――」

 大佐の口が、恐ろしい愛を形作る。
 噓か、真か、そんなことが気にならないほど、恐ろしい愛を。
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