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第三章
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しおりを挟む俺の視線に気づいた呉内さんは、いつも通りにっこりと笑って見せた。その手には再配達の伝票が握られている。
「こんばんは。理人くん、今帰り?」
「こんばんは。深月と図書館で勉強してたんです」
「そうなんだ。偉いね」
「……何か買ったんですか?」
「ああ、これ? うん。新しい本棚を買ったんだよ。今日届くのはわかってたんだけど、仕事が長引いちゃって」
以前行ったほとんど何もない部屋を思い出す。あそこに本棚があるだけで少しは生活感が出そうだ。
「あの、それって組み立てるやつですか?」
「ん? そうだよ」
「その……よかったら手伝いましょうか?」
組み立て式の家具なら俺も一人暮らしをはじめたころに色々買ったが、かなり大変だし面倒だ。もちろん簡単にできるものもあるが、大きいものになると一人では難しい場合もある。
「え、いいの?」
「はい。学祭のとき色々お世話になりましたし、それくらいしかできないですけど。俺が空いてる日でよければ」
「それじゃ、お願いしようかな。平日は今日みたいに残業になるかもしれないから、今週の土曜とかどう?」
「土曜なら夕方から近野たちと会う予定なので、それまでなら大丈夫です」
「わかった。午前中に荷物を受け取るから、昼の一時にうちに来てくれる?」
「わかりました」
「ありがとう。助かるよ」
呉内さんが本当に嬉しそうに笑うので、こちらも嬉しい気持ちになった。二人でエレベーターに乗って俺は三階で降りて、呉内さんと別れた。
何となく気分が良いままで部屋に戻ったが、一人になった瞬間我に返った。部屋の電気もつけずに玄関で考えこむ。
あれ、何で自分から呉内さんと会う約束をしたんだ? いくら関係を修復したいからって、何も自分から会う予定をつくる必要はない。それもわざわざ相手の家になんて、一番行きたくない場所なのに。向こうから食事に誘われたら行く程度でよかったはずだ。
……いや、でも学祭で散々世話になったんだから、それくらいはするべきか。これはお礼だ。タクシーで送ってもらったうえに、ご飯までつくってもらったわけだし。何かして貰うたびにカルラでケーキを買って渡すよりはいいだろう。
それに呉内さんにはもう彼女がいるんだから、俺が部屋に行ったって何も起こりはしない。ただ本棚を組み立ててちょっと話して終わり。
学祭で話したときも、打ち上げのあとや俺の部屋に来たときも、何もされなかったんだから大丈夫だろう。あとはこっちが落ち着いて対応すればうまくいく。
なるべく深く考えないようにして、その日は眠りついた。
約束の土曜日、午後一時ちょうどに呉内さんの部屋のインターフォンを押す。十秒も経たないうちに、Uネックのカットソーにジーンズを履いた呉内さんが出てきた。
「こんにちは、理人くん。わざわざごめんね」
中に入ると相変わらず室内は整理整頓されていたが、以前来たときよりも物が増えていて、少しだけ生活感が出ていた。前に来たときはテレビの横の棚にあったうさぎのぬいぐるみは、今はソファの端に座っている。そして前に見たときよりもきれいになっていた。うさぎのいなくなった棚には十数冊の文庫本が積み上げられている。
正直、部屋に入るまで少し緊張していたが、物が増えたり家具の位置が変わっているおかげで、違う場所にいるような気がして怖いと思うことはなかった。
「物、増えましたね」
「あのときは引っ越してきたばっかりだったからね」
リビングの壁際に大きな段ボールが置いてある。あれが新しく買った本棚だろう。
「本当はね、買ってからどうしようかなって思ってたんだ。引っ越しのときは京斗に手伝ってもらったから」
俺もこのマンションに引っ越して来たとき、組み立てが必要な家具は親に手伝ってもらった。
「理人くんが来てくれてよかったよ」
彼女には頼まなかったのだろうか。ふと、そんな疑問がよぎったが、予定が合わなかったのかもしれないし、わざわざそんなこと聞く必要はないと思い直し、二人で組み立て作業に移った。
大きな段ボールを開けると中にも小さな段ボールが入っている。それを一つ一つカッターで開封していく。
「痛っ」
出しすぎた刃の部分で左の小指を少しだけ切ってしまった。指先を見るが血は出ていなかったので気にせず作業を続けようとした。
「理人くん、ちょっと待って」
「……はい?」
「もしかして指切ったの?」
「血は出てないんで大丈夫ですよ」
そう言って左手を見せたが、呉内さんは慌ててリビングの棚にある箱から絆創膏を取り出した。
「これ、貼って」
「え、あ、ありがとうございます」
絆創膏を貼る必要はなかったが、俺の指を見る呉内さんの顔があまりにも深刻だったので、仕方なく貼ることにした。まるで大怪我をした人間を見るような、心底不安そうな表情だった。
前から思っていたけど、呉内さんって心配性なのだろうか。わざわざ三階で降りて部屋の前まで送ってくれたり、俺が体調不良だと知ると打ち上げを抜けたり、今のこともそうだ。
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしてすいません」
「ううん。大丈夫ならよかった」
怪我というほとでもなかったので断ろうかと思ったが、本当に安心したように笑うので、どうやら俺の選択は間違っていなかったらしい。
すべての段ボールを開封したのち、部品を確認し、説明書を見ながら本棚を組み立てていく。大変な作業ではあったが、一時間ほどで完成した。本当に大きな本棚で、一人で作業をするのは無理があっただろう。
「ありがとう。仕事帰りとかについつい本を買っちゃって、置き場に困ってたんだけど、これならしばらくは大丈夫そう」
「そうですね。文庫本サイズならたくさん入りますね」
完成した本棚に入りきらなかった本を収納していく。それでもまだまだスペースがあるので、せっかくだからと呉内さんは観葉植物やガラスのインテリアや香水のボトル並べ、最後にうさぎのぬいぐるみを置いた。
「呉内さんって香水お好きなんですか?」
本棚に並べられた香水のボトルは全部で五個あった。どれも見るからに高そうなデザインで、有名なブランドのロゴが施されている。
「詳しいわけじゃないけど、たまに気分転換でつけるかな。あとインテリアとして置いておけるしね。理人くんは香水つけないの?」
「そうですね。単に買ったことがないってだけですけど」
高校時代に付き合っていた彼女の一人が香水好きで、よく買い物に付き合わされたが、何度も匂いを嗅いでいるうちに鼻がおかしくなりそうだった。
他にも付け方を間違っているのか、会うたびに強烈な匂いを放つ知り合いもいたので、苦手なわけではないが、わざわざ買ってつけようとは思わない。
「試しにつけてみる?」
「いいんですか?」
「うん。俺も頻繁につけるわけじゃないし」
「じゃあ、お願いします」
呉内さんがおすすめと言って手に取ったのは、丸い透明なボトルの香水だった。中身はほとんど残っている。
「手首につけるから、それを耳の裏のあたりポンポンってつけてね」
「はい」
言われるがまま手首を差し出すと、プシュッと香水をひと吹きかけれた。その瞬間、ふわっと甘い匂いがした。
本当に心臓が止まるかと思った。
「こすっちゃダメだよ」
震える手で何とか耳の後ろに香水をつける。甘い匂いがより強くなる。
「……ごめんね。もしかして気に入らなかった?」
俺が何も言わないせいか、心配そうに呉内さんがこちらを覗き込む。
「あ、いや……すごくいい匂いだなって。ちょっと浸ってました」
「よかった。香水は好みがあるから、理人くんが苦手だったらどうしようかと思った」
苦手なわけじゃない。この匂いも嫌いなわけじゃない。
ただこれは……この香水は、学祭のとき由莉奈さんがつけていたものと同じだ。メイド喫茶に行きたいからと俺に声をかけてきたときの、あの匂いだ。
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