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炭酸水を片手に、千乃は濡れた髪を拭きながらリビングの床にペタンと腰を下ろした。
仁杉の家を出てから、この古いワンルームへと移り住み、まる三年が過ぎようとしている。
箱みたいな狭い部屋も、千乃にとっては快適な城だった。
誰の視線もなく、干渉もない。話し相手のいない食卓は昔も今も同じだったが、心はあの頃と比べ物にならないほど軽くなった。
ペットボトルの蓋を開けようとした時、壁にかけたカレンダーが目に入り、「そうだ」と、腰を上げて台所へと向かった。
一人暮らしに相応しい、こじんまりとした冷蔵庫を開けると、中からコンビニの袋を手にして静かに扉を閉めた。
部屋の片隅にある三段ボックスの前に立つと、袋から取り出した紙パックのリンゴジュースとプリンを棚の一番上に置いた。
「葉月、誕生日おめでとう。今日でお前も十八だな」
満面の笑顔で母親の腕の中にいる、幼い少年の写真に声をかけた。
「十八にもなってプリンはないだろって、きっと天国で笑ってるかもな。でもさ、お前の大好物は俺の中でこの二つで止まってるんだ、だから勘弁してくれよな」
写真立てを手にして見つめていると、自分を呼ぶ、可愛い声が聞こえた気がした。
今まで数え切れないほど、二人が写るこの写真と会話をしてきた。
大学やバイト先のたわいもないことや、日常の出来事。時々、愚痴をこぼしたり寂しさを埋めたりと、この写真と共にこれまで生きてきた。
ひとりが寂しいわけではない、母と弟がいないから寂しくて、家族ごっこをしているに過ぎない。
千乃は写真の横の花瓶を手にすると、台所で水を入れ替え、ようやく花を開かせようとするフリージアを挿し直した。
一つずつ段階的に咲いていく、それが健気でいじらしいから好きだと言っていた母。飾るとほのかに香り、一本でも華やぐことができるのは羨ましいとも。
その時は意味がわからなかったけれど、今なら何となくわかる。
写真を見つめながらベッドに腰かけ、ペットボトルに手を伸ばした。
乾いた喉へ流し込むと、程よい刺激が疲れた体に心地いい。半分ほど飲むとベッドの上にゴロンと転がり、静かに目を閉じた。
一週間分の疲労を布団に託すと、思い出したくない記憶がじわりと襲ってくる。
小さな弟の笑顔が蘇ると、その顔は苦しみで歪んだ顔に変わってしまう。紅葉のような手が助けをもとめるよう伸ばしてきても、千乃がその手を掴むことはできない。
救えなかった悲しみを味わいながら、千乃は自身の頸動脈にそっと触れてみた。
肌に残る痕はもうとっくにない。だが、指の感触だけは今でも覚えている。
目覚めた時、消毒薬の匂いが鼻腔を刺激した。
布団に寝かされていることに気付いて、起き上がろうとしても、体が重くて上手く動かすことができない。
暫くして自分がいる場所が病院だとわかった時、目に映った大人に尋ねようとした、『お母さんはどこ? 葉月は?』と。
けれどその声は音にならず、忙しなく動く看護師や医者を見つめることしかできなかった。
何気なく隣のベッドを見ると、そこには蒼白な肌をした母と弟が静かに目を閉じていた。
二人が息をしていないことがそこから伝わり、点滴に繋がれている自身の腕を上げて手のひらを見つめた。
涙が溢れ、こめかみを伝ってシーツへと染み込んでいく。
失った悲しみより、ひとりだけ置いて行かれた事実に滂沱した。
胸が張り裂けそうで、言葉にならない声を叫びたかった。この時の感覚は今でも鮮明に覚えている。
最後に笑顔を見たあの日、母の細くきれいだった指先はしっとり濡れていた。何度も泪を拭っていたからだと幼心にそう悟った。
母の冷えた指が千乃の喉元に巻き付くと、僅かな躊躇いの後、震えながらゆっくりとそこに力が込められていく。
徐々に息は遮断され、千乃は呼吸が思うように出来ず、意識を次第に薄れさせた。その後に襲った感覚は、冷たくて暗い水の中。そこで見たのは、弟を抱き締めたまま沈んでいく母の姿だった。
優しく笑って頭を撫でてくれる優しい母も、無邪気な笑顔で寂しさを埋めてくれる小さな弟もいない。
微熱を帯びた瞼が開き直ると、そこから容赦なく雫が溢れてくる。
一度涙を流すと、それは堰を切ったように滔々と溢れしてきた。
「ああ、また……もう泣く。油断するとすぐこれだ」
タオルで雫を払うと、ベッドから起き上がり、残った炭酸水を涙を紛らわすように飲み干した。
「さあ、気を入れ直して課題でも仕上げるかっ」
キーボードに触れ、キーを押した途端、不意に藤永のことが脳裏に浮かんだ。なぜ、このタイミングで思い出したのか自分でもわからない。
もしかしたら、懐かし添えうに微笑んでくれたことが嬉しかったからかもしれない。
高校の卒業を前に疎遠になった藤永は、変わらずかっこよくて眩しさに目が眩みそうになった。そう思うことさえも、藤永からすれば嫌悪を抱くものかもしれないと言うのに。
千乃はキーボードの上に両手を添えたまま、虚無感しかなかった日々を思い出していた。
大好きな母と弟を失くしたあと、千乃が連れてこられたのは広大な庭のある大きな家だった。
県知事を代々と継続する、由緒正しい家柄の人だから気をつけるようにと、迎えに来てくれた人が教えてくれたけれど、子供の千乃にそんなことわかるわけがない。
玄関で待つように言われ待っていると、部屋の奥からスーツの男と、和服姿の女性が現れた。
男の方は二杉家の主人だと告げてきたけれど、女の方は黙ったままだった。
どうしていいかわからず、黙って突っ立っていると、二杉から耳を疑う言葉が放たれた。『お前は私の息子だ』と。
身寄りのなくなった千乃を、仁杉家で引き取ると言われ、何気なしに女の方を見ると、汚いものでも見るような目と合う。
突然の父親の出現に驚く間もなく、父と名乗る男が千乃を部屋に上げようとしたが、妻がそれを許さず、厳しく阻止してきた。
男の制止を振り払う女がいきなり手首を掴んでくると、千乃は強引に玄関の外へと連れ出された。
広い庭をどんどん奥へ進むと竹藪が見え、その横には古びた猟師小屋のような建物が姿を現した。
女が着物の袂で口を覆ってから、ドアを開けると、突如流れ込んできた空気に、小屋の中で沈殿していた埃が一気に空|《くう》を舞う。
たまらず咳き込んでしまった千乃の背中を女がドンっと押すと、たたらを踏みながら中へと入る形になった。
目にした部屋の中は酷かった。
床は所々腐って穴が開いていて、壁も崩れて脆くなっている。天井は雨漏りの跡を思わせるシミがいくつもあった。
窓硝子が割れ、ガムテープで補修はされていたけれどそれは粘着力を失い、途中まで剥がれて外から吹き込む風の経路になっている。
『お前は今日からここで住むのよ』
口を手で覆っているから、女の声はくぐもって聞こえた。
女が父の妻だと知ったこの日を境に、千乃の孤独で辛い日が始まったのだ。
二杉の家に来て半年ほど経った、暑い夏の日。 鉄格子がないだけの獄舎のような場所へ義母は突然現れた。
仄暗い離れには、扇風機の回転する音だけが響いていた。
蒸し暑い空間で外に出ることもできず、窓からそよぐ風と森のような樹木と竹が作ってくれる日陰だけが暑さを凌いでくれるだけの場所。
小学校へ行くこと以外、千乃はこの家で過ごすことを決められていた。
友達も作るな。担任に何を聞かれても何も答えるな。勉強だけしていればいいと、約束をさせられた。一度、友達だと言って同級生が母屋の方に来た時は、約束を破ったと言われ、容赦なく義母に折檻された。
突然現れた義母の姿に、また打たれると思っていたのに、聞いたことのない優しい声で義母が、おやつよと、座卓に置いてくれたかき氷に千乃は目を疑った。
湿気と暑さで弱った子供心をくすぐる、いちごのシロップのかかった氷菓。
待てをされた犬のように、千乃はキラキラと輝く氷をジッと見つめていた。
義母の合図で千乃は差し出された器を手に取り、溶けだす綿雪の上を輝く赤い斜面からひと匙掬って口に入れた。
夏の幸せを感じる、甘さと冷たさが口の中に広がった瞬間、それは姿を変え、鉄の味へと豹変した。唇にはチリリとした痛みが走り、抗えないままそれは喉へと到達してこようとする。
飲み込んではいけない──。咄嗟に頭の中で思っても、見下ろされる視線に恐怖を感じ、千乃は飲み込む選択しかできなかった。
蔑むように見下ろされ「泥棒」と、彼女に囁かれた言葉を受け止めるよう、千乃は痛みを堪えながら匙を往復させた。
離れと言う名の物置部屋に窓は一つ。そよいでいた風は止み、肌はじっとりと汗ばんでいく。外では残された命を削って叫ぶ蝉達の声だけが聞こえ、それが千乃の恐怖心を更に煽ってきた。
口の中で溶けない氷を必死で噛み締め、唇の端から血が滲むのを義母がずっと見ていた。
スプーンを持つ手を止めると義母が睨む、食べないのかと。
ゆっくり氷を口に運ぶと、溶けずに舌に残る異物。飲み込めないまま口腔内に留まらせていると、義母が頬を打ってきた。何度も叩かれ、飲み込めないのならずっと口に含んでろと言いながら首を絞められた。
恐怖と痛みで千乃は意識が遠のき、蝉の声を聞きながらその場に蹲っていしまった。
目が覚めた時には病院だったけれども、無理やり退院させられ、また小屋に閉じ込められた。
嗜虐心溢れる彼女からの執拗な甚振りがまた始まり、その都度、『お前の母親のせいだ、お前達が私の幸せを奪った』と、なじられた。いつしか彼女の口にする歪曲された事実は、義母の苦しみが生み出したもの。千乃はそう思うようになった。
自分の存在がなくなれば彼女も苦しまずに済むんじゃないかと思うようになった。
この時点で千乃の心は、罪悪感で自己攻撃をしている状態に陥っていた。
義母が子供の産めない体と知ると、それをも自分のせいだと思い込み、父が一度も自分を訪れてくれないのも、妾の子供で恥ずかしい存在だからなんだと責めた。
高校生になる頃には、義母からの異常な行為は減ったものの、カビの臭いとしっけた空気は、千乃の言葉と笑顔をどんどん奪っていった。
そんな千乃を救ったのは、眞秀の存在だった。
陰湿な部屋で過ごしても、何とか正常な気持ちを保てていたのは眞秀がいたからだ。
眞秀といるだけで幸せだと思い、高校を卒業してこの家を出ることを決意した。
学費だけは父が支払ってくれていたのだろう、きっと通常よりも多い金額で。お陰で千乃は受験することに希望を持てた。
妻からの仕打ちさえ耐えていれば、千乃は幸せだった。
邪な気持ちが生まれ落ちたのを、あの人に知られるまでは……。
パソコンを開いてから、いつの間にか日付が変わろうとしていた。
思い出したくないのに、一度過去に囚われるといつも長々と忌まわしい過去に引きずられてしまう。
スクリーンセーバーで真っ暗になった液晶に映る憂いた目に気づくと、千乃は仕切り直すようエンターキーをポンっと弾いた。
「しっかりしろ……」
悪夢と対峙していると、スマホからメッセージを告げる音が聞こえて画面を確認した。液晶には、数少ない登録された名前のひとつが喜びを運んできた。
「眞秀……お前、ほんとタイミングいいな」
ほくそ笑みながらメッセージを開くと、次の休みはどこへ行こうかと言う嬉しい内容だった。
眞秀といると忘れられる。
首に残る体温と忌まわしい痛みや、孤独で寂しかった日々も。あの人の……ことも。
千乃は再び頸動脈に手をやった。そして指先に力を入れ、もう片方の手をその上から添えてグッと押してみる。
徐々に感じる痛みの奥にあるのは、冷たい水の中を沈みながら見た景色。
感覚が体を麻痺させた先に、失った家族が存在するような気がして、千乃は更に指へと力を込めた。
今までも淋しくなると、幾度となく繰り返して来たこの行為。自慰にも似たことをしてしまうのは、母や弟の死を忘れないようにするため。
何年も千乃を縛り付ける、無慈悲な磔刑なのかもしれない。
「俺も葉月を守るためなら、あの人と同じことしたかもな……」
言葉は勇しく、強気ではあったが千乃の身体は思い出すだけでまだ震えてしまう。
その原因は十分過ぎるほどわかっていた。 それは生きている事さえ罪だと言うよう、無数の根になって千乃の身体に纏わりつき、進む足へと絡みついてくるようだった。
孤独の行く末に死を選ぶ方が、どんなに楽だろうかと何度も考えた。
けれどそこを踏み外さないでこれたのは、眞秀が親友として側にいてくれたからだ。
その思いに報えるよう、千乃の淡い恋心は日陰の残雪が溶けるよう、自然と消滅してくれた。ただあの人だけは、まだ千乃を許さないだろう。
今でも忘れられない、優しく向けられた眼差しが憎悪に変わった日のことを。
千乃は唇を固く結ぶと、戒めるよう眸を閉じた。
自分が生まれてしまった事で悪鬼に変えてしまった人達。生き残ってしまったことで、苦しめてしまった大好きな人達。
自分さえ存在しなければよかったんだと、我が身を毒のようだと咎めることは止まなかった。
仁杉の家を出てから、この古いワンルームへと移り住み、まる三年が過ぎようとしている。
箱みたいな狭い部屋も、千乃にとっては快適な城だった。
誰の視線もなく、干渉もない。話し相手のいない食卓は昔も今も同じだったが、心はあの頃と比べ物にならないほど軽くなった。
ペットボトルの蓋を開けようとした時、壁にかけたカレンダーが目に入り、「そうだ」と、腰を上げて台所へと向かった。
一人暮らしに相応しい、こじんまりとした冷蔵庫を開けると、中からコンビニの袋を手にして静かに扉を閉めた。
部屋の片隅にある三段ボックスの前に立つと、袋から取り出した紙パックのリンゴジュースとプリンを棚の一番上に置いた。
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満面の笑顔で母親の腕の中にいる、幼い少年の写真に声をかけた。
「十八にもなってプリンはないだろって、きっと天国で笑ってるかもな。でもさ、お前の大好物は俺の中でこの二つで止まってるんだ、だから勘弁してくれよな」
写真立てを手にして見つめていると、自分を呼ぶ、可愛い声が聞こえた気がした。
今まで数え切れないほど、二人が写るこの写真と会話をしてきた。
大学やバイト先のたわいもないことや、日常の出来事。時々、愚痴をこぼしたり寂しさを埋めたりと、この写真と共にこれまで生きてきた。
ひとりが寂しいわけではない、母と弟がいないから寂しくて、家族ごっこをしているに過ぎない。
千乃は写真の横の花瓶を手にすると、台所で水を入れ替え、ようやく花を開かせようとするフリージアを挿し直した。
一つずつ段階的に咲いていく、それが健気でいじらしいから好きだと言っていた母。飾るとほのかに香り、一本でも華やぐことができるのは羨ましいとも。
その時は意味がわからなかったけれど、今なら何となくわかる。
写真を見つめながらベッドに腰かけ、ペットボトルに手を伸ばした。
乾いた喉へ流し込むと、程よい刺激が疲れた体に心地いい。半分ほど飲むとベッドの上にゴロンと転がり、静かに目を閉じた。
一週間分の疲労を布団に託すと、思い出したくない記憶がじわりと襲ってくる。
小さな弟の笑顔が蘇ると、その顔は苦しみで歪んだ顔に変わってしまう。紅葉のような手が助けをもとめるよう伸ばしてきても、千乃がその手を掴むことはできない。
救えなかった悲しみを味わいながら、千乃は自身の頸動脈にそっと触れてみた。
肌に残る痕はもうとっくにない。だが、指の感触だけは今でも覚えている。
目覚めた時、消毒薬の匂いが鼻腔を刺激した。
布団に寝かされていることに気付いて、起き上がろうとしても、体が重くて上手く動かすことができない。
暫くして自分がいる場所が病院だとわかった時、目に映った大人に尋ねようとした、『お母さんはどこ? 葉月は?』と。
けれどその声は音にならず、忙しなく動く看護師や医者を見つめることしかできなかった。
何気なく隣のベッドを見ると、そこには蒼白な肌をした母と弟が静かに目を閉じていた。
二人が息をしていないことがそこから伝わり、点滴に繋がれている自身の腕を上げて手のひらを見つめた。
涙が溢れ、こめかみを伝ってシーツへと染み込んでいく。
失った悲しみより、ひとりだけ置いて行かれた事実に滂沱した。
胸が張り裂けそうで、言葉にならない声を叫びたかった。この時の感覚は今でも鮮明に覚えている。
最後に笑顔を見たあの日、母の細くきれいだった指先はしっとり濡れていた。何度も泪を拭っていたからだと幼心にそう悟った。
母の冷えた指が千乃の喉元に巻き付くと、僅かな躊躇いの後、震えながらゆっくりとそこに力が込められていく。
徐々に息は遮断され、千乃は呼吸が思うように出来ず、意識を次第に薄れさせた。その後に襲った感覚は、冷たくて暗い水の中。そこで見たのは、弟を抱き締めたまま沈んでいく母の姿だった。
優しく笑って頭を撫でてくれる優しい母も、無邪気な笑顔で寂しさを埋めてくれる小さな弟もいない。
微熱を帯びた瞼が開き直ると、そこから容赦なく雫が溢れてくる。
一度涙を流すと、それは堰を切ったように滔々と溢れしてきた。
「ああ、また……もう泣く。油断するとすぐこれだ」
タオルで雫を払うと、ベッドから起き上がり、残った炭酸水を涙を紛らわすように飲み干した。
「さあ、気を入れ直して課題でも仕上げるかっ」
キーボードに触れ、キーを押した途端、不意に藤永のことが脳裏に浮かんだ。なぜ、このタイミングで思い出したのか自分でもわからない。
もしかしたら、懐かし添えうに微笑んでくれたことが嬉しかったからかもしれない。
高校の卒業を前に疎遠になった藤永は、変わらずかっこよくて眩しさに目が眩みそうになった。そう思うことさえも、藤永からすれば嫌悪を抱くものかもしれないと言うのに。
千乃はキーボードの上に両手を添えたまま、虚無感しかなかった日々を思い出していた。
大好きな母と弟を失くしたあと、千乃が連れてこられたのは広大な庭のある大きな家だった。
県知事を代々と継続する、由緒正しい家柄の人だから気をつけるようにと、迎えに来てくれた人が教えてくれたけれど、子供の千乃にそんなことわかるわけがない。
玄関で待つように言われ待っていると、部屋の奥からスーツの男と、和服姿の女性が現れた。
男の方は二杉家の主人だと告げてきたけれど、女の方は黙ったままだった。
どうしていいかわからず、黙って突っ立っていると、二杉から耳を疑う言葉が放たれた。『お前は私の息子だ』と。
身寄りのなくなった千乃を、仁杉家で引き取ると言われ、何気なしに女の方を見ると、汚いものでも見るような目と合う。
突然の父親の出現に驚く間もなく、父と名乗る男が千乃を部屋に上げようとしたが、妻がそれを許さず、厳しく阻止してきた。
男の制止を振り払う女がいきなり手首を掴んでくると、千乃は強引に玄関の外へと連れ出された。
広い庭をどんどん奥へ進むと竹藪が見え、その横には古びた猟師小屋のような建物が姿を現した。
女が着物の袂で口を覆ってから、ドアを開けると、突如流れ込んできた空気に、小屋の中で沈殿していた埃が一気に空|《くう》を舞う。
たまらず咳き込んでしまった千乃の背中を女がドンっと押すと、たたらを踏みながら中へと入る形になった。
目にした部屋の中は酷かった。
床は所々腐って穴が開いていて、壁も崩れて脆くなっている。天井は雨漏りの跡を思わせるシミがいくつもあった。
窓硝子が割れ、ガムテープで補修はされていたけれどそれは粘着力を失い、途中まで剥がれて外から吹き込む風の経路になっている。
『お前は今日からここで住むのよ』
口を手で覆っているから、女の声はくぐもって聞こえた。
女が父の妻だと知ったこの日を境に、千乃の孤独で辛い日が始まったのだ。
二杉の家に来て半年ほど経った、暑い夏の日。 鉄格子がないだけの獄舎のような場所へ義母は突然現れた。
仄暗い離れには、扇風機の回転する音だけが響いていた。
蒸し暑い空間で外に出ることもできず、窓からそよぐ風と森のような樹木と竹が作ってくれる日陰だけが暑さを凌いでくれるだけの場所。
小学校へ行くこと以外、千乃はこの家で過ごすことを決められていた。
友達も作るな。担任に何を聞かれても何も答えるな。勉強だけしていればいいと、約束をさせられた。一度、友達だと言って同級生が母屋の方に来た時は、約束を破ったと言われ、容赦なく義母に折檻された。
突然現れた義母の姿に、また打たれると思っていたのに、聞いたことのない優しい声で義母が、おやつよと、座卓に置いてくれたかき氷に千乃は目を疑った。
湿気と暑さで弱った子供心をくすぐる、いちごのシロップのかかった氷菓。
待てをされた犬のように、千乃はキラキラと輝く氷をジッと見つめていた。
義母の合図で千乃は差し出された器を手に取り、溶けだす綿雪の上を輝く赤い斜面からひと匙掬って口に入れた。
夏の幸せを感じる、甘さと冷たさが口の中に広がった瞬間、それは姿を変え、鉄の味へと豹変した。唇にはチリリとした痛みが走り、抗えないままそれは喉へと到達してこようとする。
飲み込んではいけない──。咄嗟に頭の中で思っても、見下ろされる視線に恐怖を感じ、千乃は飲み込む選択しかできなかった。
蔑むように見下ろされ「泥棒」と、彼女に囁かれた言葉を受け止めるよう、千乃は痛みを堪えながら匙を往復させた。
離れと言う名の物置部屋に窓は一つ。そよいでいた風は止み、肌はじっとりと汗ばんでいく。外では残された命を削って叫ぶ蝉達の声だけが聞こえ、それが千乃の恐怖心を更に煽ってきた。
口の中で溶けない氷を必死で噛み締め、唇の端から血が滲むのを義母がずっと見ていた。
スプーンを持つ手を止めると義母が睨む、食べないのかと。
ゆっくり氷を口に運ぶと、溶けずに舌に残る異物。飲み込めないまま口腔内に留まらせていると、義母が頬を打ってきた。何度も叩かれ、飲み込めないのならずっと口に含んでろと言いながら首を絞められた。
恐怖と痛みで千乃は意識が遠のき、蝉の声を聞きながらその場に蹲っていしまった。
目が覚めた時には病院だったけれども、無理やり退院させられ、また小屋に閉じ込められた。
嗜虐心溢れる彼女からの執拗な甚振りがまた始まり、その都度、『お前の母親のせいだ、お前達が私の幸せを奪った』と、なじられた。いつしか彼女の口にする歪曲された事実は、義母の苦しみが生み出したもの。千乃はそう思うようになった。
自分の存在がなくなれば彼女も苦しまずに済むんじゃないかと思うようになった。
この時点で千乃の心は、罪悪感で自己攻撃をしている状態に陥っていた。
義母が子供の産めない体と知ると、それをも自分のせいだと思い込み、父が一度も自分を訪れてくれないのも、妾の子供で恥ずかしい存在だからなんだと責めた。
高校生になる頃には、義母からの異常な行為は減ったものの、カビの臭いとしっけた空気は、千乃の言葉と笑顔をどんどん奪っていった。
そんな千乃を救ったのは、眞秀の存在だった。
陰湿な部屋で過ごしても、何とか正常な気持ちを保てていたのは眞秀がいたからだ。
眞秀といるだけで幸せだと思い、高校を卒業してこの家を出ることを決意した。
学費だけは父が支払ってくれていたのだろう、きっと通常よりも多い金額で。お陰で千乃は受験することに希望を持てた。
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邪な気持ちが生まれ落ちたのを、あの人に知られるまでは……。
パソコンを開いてから、いつの間にか日付が変わろうとしていた。
思い出したくないのに、一度過去に囚われるといつも長々と忌まわしい過去に引きずられてしまう。
スクリーンセーバーで真っ暗になった液晶に映る憂いた目に気づくと、千乃は仕切り直すようエンターキーをポンっと弾いた。
「しっかりしろ……」
悪夢と対峙していると、スマホからメッセージを告げる音が聞こえて画面を確認した。液晶には、数少ない登録された名前のひとつが喜びを運んできた。
「眞秀……お前、ほんとタイミングいいな」
ほくそ笑みながらメッセージを開くと、次の休みはどこへ行こうかと言う嬉しい内容だった。
眞秀といると忘れられる。
首に残る体温と忌まわしい痛みや、孤独で寂しかった日々も。あの人の……ことも。
千乃は再び頸動脈に手をやった。そして指先に力を入れ、もう片方の手をその上から添えてグッと押してみる。
徐々に感じる痛みの奥にあるのは、冷たい水の中を沈みながら見た景色。
感覚が体を麻痺させた先に、失った家族が存在するような気がして、千乃は更に指へと力を込めた。
今までも淋しくなると、幾度となく繰り返して来たこの行為。自慰にも似たことをしてしまうのは、母や弟の死を忘れないようにするため。
何年も千乃を縛り付ける、無慈悲な磔刑なのかもしれない。
「俺も葉月を守るためなら、あの人と同じことしたかもな……」
言葉は勇しく、強気ではあったが千乃の身体は思い出すだけでまだ震えてしまう。
その原因は十分過ぎるほどわかっていた。 それは生きている事さえ罪だと言うよう、無数の根になって千乃の身体に纏わりつき、進む足へと絡みついてくるようだった。
孤独の行く末に死を選ぶ方が、どんなに楽だろうかと何度も考えた。
けれどそこを踏み外さないでこれたのは、眞秀が親友として側にいてくれたからだ。
その思いに報えるよう、千乃の淡い恋心は日陰の残雪が溶けるよう、自然と消滅してくれた。ただあの人だけは、まだ千乃を許さないだろう。
今でも忘れられない、優しく向けられた眼差しが憎悪に変わった日のことを。
千乃は唇を固く結ぶと、戒めるよう眸を閉じた。
自分が生まれてしまった事で悪鬼に変えてしまった人達。生き残ってしまったことで、苦しめてしまった大好きな人達。
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