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第二章「まだ、行かないで」
第10話 「この背中については、おれのほうが、よく知っている」
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佐江《さえ》はコルヌイエホテルの小さな子供部屋で、泣いている清春《きよはる》の涙をキスで吸い取り続けた。
「あなたが泣き止まないのは、たぶん三十三年ぶん、泣いているからでしょう」
清春は目を閉じて、涙があふれるままにまかせた。
「くそ。こんなの、おれじゃないよ」
「そうかしら。こんなあなたも井上清春《いのうえきよはる》よ。あたしの選んだ男だわ。
でもこんな顔はぜったいに他の女に見せちゃだめ。女だったら、だれでもぐらっと来るわ」
清春が目を開けると、すぐそばで佐江が笑っていた。
清春は佐江に向かって手を伸ばした。今度はちゃんと手が届く。
佐江には、清春の手が届く。
「佐江」
「はい」
「抱かせてくれよ」
「……ここで?」
清春はベッドに寝たまま、佐江の高い頬骨をゆっくりとなぞった。
「おれがガキの頃にさんざん泣いたベッドの上できみを抱いて、おれの記憶を上書《うわが》きしたいんだ。
見ろよ、佐江。この部屋にはガキの頃のおれがいっぱいいる。
七歳のおれ、十歳のおれ、卒業式と入学式の両方をすっぽかされた十二歳のおれ、それから」
と清春は言葉を切り、ベッドから起き上がって佐江の顔を大きな手ですっぽりと包み込んだ。
「おふくろを一人で見送った、十四歳のおれ」
この部屋は、と清春は続けた。
「この部屋はいやな記憶に満ちている。だけど今夜ここできみといれば、この部屋は幸せな部屋に変わる。
あの七年間のつらい記憶は全部ふきとんで、この部屋がきみと結びつく。
そしておれは、なにもかもを忘れられる」
しかし佐江はにこりと笑って答えた。
「なにひとつ、忘れちゃだめよ。それはあなたを作り上げた大事な記憶よ。その半分を、あたしに持たせて」
(Foundry CoによるPixabayからの画像 )
佐江はゆっくりと清春にキスをした。
佐江の匂いが部屋中にあふれ、清春のなかの深すぎる傷を埋めてゆく。
やがて佐江の唇がかすかに開くと、清春はそっと舌を差し込んだ。
佐江の唇は柔らかく温かく、あまかった。
数えきれない哀しい日々はもう終わる。清春は、佐江のためだけに強くなれる。
甘い息がふたりの口の中にあふれてきた。
「さえ」
清春はささやいた。
「ドレスのジッパー、おろしてもいい?」
ほう、と佐江はかすかなため息をはいた。
「そっとやってくれます?このドレスは借り物で、明日には返却するんです」
「返却する? こいつは買い取れよ、佐江。きみに良く似合うドレスだ、おれは気に入った」
清春は立ち上がって背中を向けた佐江のうなじにそっとキスをした。それからドレスのジッパーを降ろしてゆく。
黒いレースのドレスのあいだから、佐江のほっそりした肩甲骨《けんこうこつ》があらわれる。
清春はしばらく天使の翼の名残《なご》りのような骨を見ていた。それから
「きみの背中には、ほくろがないんだな」
とつぶやいた。
佐江はほんの少し顔を傾けて、清春を見た。
「そうですか? 自分で背中を見ることはあまりないから、あっても気がつかないでしょうね」
「おれは、知ってる」
清春はジッパーを降ろした後の背中にそっとキスをした。うなじの骨から背骨のひとつひとつに唇を当ててゆく。
「この背中については、持ち主のきみよりもおれのほうが、よく知っている」
「あなたが泣き止まないのは、たぶん三十三年ぶん、泣いているからでしょう」
清春は目を閉じて、涙があふれるままにまかせた。
「くそ。こんなの、おれじゃないよ」
「そうかしら。こんなあなたも井上清春《いのうえきよはる》よ。あたしの選んだ男だわ。
でもこんな顔はぜったいに他の女に見せちゃだめ。女だったら、だれでもぐらっと来るわ」
清春が目を開けると、すぐそばで佐江が笑っていた。
清春は佐江に向かって手を伸ばした。今度はちゃんと手が届く。
佐江には、清春の手が届く。
「佐江」
「はい」
「抱かせてくれよ」
「……ここで?」
清春はベッドに寝たまま、佐江の高い頬骨をゆっくりとなぞった。
「おれがガキの頃にさんざん泣いたベッドの上できみを抱いて、おれの記憶を上書《うわが》きしたいんだ。
見ろよ、佐江。この部屋にはガキの頃のおれがいっぱいいる。
七歳のおれ、十歳のおれ、卒業式と入学式の両方をすっぽかされた十二歳のおれ、それから」
と清春は言葉を切り、ベッドから起き上がって佐江の顔を大きな手ですっぽりと包み込んだ。
「おふくろを一人で見送った、十四歳のおれ」
この部屋は、と清春は続けた。
「この部屋はいやな記憶に満ちている。だけど今夜ここできみといれば、この部屋は幸せな部屋に変わる。
あの七年間のつらい記憶は全部ふきとんで、この部屋がきみと結びつく。
そしておれは、なにもかもを忘れられる」
しかし佐江はにこりと笑って答えた。
「なにひとつ、忘れちゃだめよ。それはあなたを作り上げた大事な記憶よ。その半分を、あたしに持たせて」
(Foundry CoによるPixabayからの画像 )
佐江はゆっくりと清春にキスをした。
佐江の匂いが部屋中にあふれ、清春のなかの深すぎる傷を埋めてゆく。
やがて佐江の唇がかすかに開くと、清春はそっと舌を差し込んだ。
佐江の唇は柔らかく温かく、あまかった。
数えきれない哀しい日々はもう終わる。清春は、佐江のためだけに強くなれる。
甘い息がふたりの口の中にあふれてきた。
「さえ」
清春はささやいた。
「ドレスのジッパー、おろしてもいい?」
ほう、と佐江はかすかなため息をはいた。
「そっとやってくれます?このドレスは借り物で、明日には返却するんです」
「返却する? こいつは買い取れよ、佐江。きみに良く似合うドレスだ、おれは気に入った」
清春は立ち上がって背中を向けた佐江のうなじにそっとキスをした。それからドレスのジッパーを降ろしてゆく。
黒いレースのドレスのあいだから、佐江のほっそりした肩甲骨《けんこうこつ》があらわれる。
清春はしばらく天使の翼の名残《なご》りのような骨を見ていた。それから
「きみの背中には、ほくろがないんだな」
とつぶやいた。
佐江はほんの少し顔を傾けて、清春を見た。
「そうですか? 自分で背中を見ることはあまりないから、あっても気がつかないでしょうね」
「おれは、知ってる」
清春はジッパーを降ろした後の背中にそっとキスをした。うなじの骨から背骨のひとつひとつに唇を当ててゆく。
「この背中については、持ち主のきみよりもおれのほうが、よく知っている」
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