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第二章「まだ、行かないで」

第16話 「まだ、いかないで」

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(Thorsten FrenzelによるPixabayからの画像 )
 月光の下で白い渦巻《うずま》きが激しく動き回り、きらきらとまぶしく輝いた。
 まるで、言い残した言葉がみずからを傷つけて、鋭い破片をまき散らしているように。
 清春《きよはる》の腕の中で、月光を浴びた渦巻きが半狂乱になって叫んでいた。

『きよはる。ごめんなさい、かあさんが馬鹿だった。母さんがへんな意地を張らなければ、あなたはちゃんと
”渡部清春《わたべきよはる》”だったのに。
 あなたはちゃんとした家の、ちゃんとした男の子だったのに。あたしが、あたしが、あたしが……!』
「かあさん、もういいんだ」

 清春は静かにそう言って、月光を浴びた白い渦巻きにキスをした。

 その瞬間、渦巻きの悲鳴のような音が広すぎる子供部屋に響いた。母の悲鳴の残響が、清春の耳にしみとおった。

「もういいんだ。母さんがくれたものはぜんぶ大事なものだって、佐江《さえ》が教えてくれた。おれの痛む部分も寂しかった記憶も一人で泣いたことも、これからは、なにもかも佐江が半分、背負《せお》ってくれる。もう、大丈夫なんだ」

 白い渦巻きは、次第に動きを緩《ゆる》やかにし始めた。
 清春は自分が何に向かって話しているのかよくわからないまま、おだやかに話し続けた。

「佐江は、おれはおれのままでいいんだって言う。成績のいい子供でなくても、仕事のできるホテルマンでなくてもいい。今のままのおれでいいって言うんだ。
 かあさん、そんなことを言ってくれる女は、おれは佐江以外に母さんしか知らない」

 ふわんと、白い渦巻きは回転を止め、月の光を浴びながら広がって、薄まってゆく。清春は、薄まりつつある渦巻きを頼りなく眺めた。

 かあさん。
 もう少し一緒にいてよ。

「おれが小さなころ、あなたはいつも笑っていた。まるで、おれがいることだけで世界に光が満ちているとでもいうように。
 おれはただそこにいるだけで、あなたを笑わせていた。あれほど幸せな日々はなかったよ」

 こんな大事なことを、たった一人の息子から聞く時間もなく、あわただしく逝ってしまったひと。
 井上清春《いのうえきよはる》の、最愛の母。

 まだ行かないで、かあさん。
 おれはまだ、大事なことを言っていない。

「おれをおれのままで愛してくれたのは、母さんと佐江だけだ。母さん、母さんまだ行かないで。おれはおれの佐江を、あなたに見せたいんだ」

 しかし清春の言葉が終わらぬうちに、ふわっと白い渦巻きは消えてしまった。
 清春は自分がひとりで、小さな子供部屋の真ん中に立っているのに気がつく。

 もう、レモンバーベナの香りもしない。
 清春は目を閉じて立ち尽くした。

 かあさん。
 倖せになったおれを、見てくれよ。
 一目でいいから。
 まだ、いかないで。
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