上 下
44 / 73
第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編

第44話「柔らかく、温かい唇の感触」

しおりを挟む
(Unsplashのnrdが撮影)

 深沢の問いに、真乃《まの》はかぶりを振って答えた。

「キヨちゃんなんて、まだ一目も見ていないわ」
「しょうがねえなあ、何しに来たんだ」

 そう言って深沢は、すっと真乃をスタッフエリアから廊下に出した。手には女性スタッフが着用する黒いジャケットを持っている。

「ほら、これを着ろ。ネクタイはねえが、ごまかせるだろ」

 真乃がジャケットを着ると、深沢はすばやく骨太の指で真乃のジャケットを直して、ぽんと背中をたたいた。

「キヨに会わせてやる。ついて来いよ」

 深沢の手にはすでに二枚のシルバー盆があり、自分の盆にウィスキーソーダのグラスをいくつか乗せた。

「ついでに、ウィスキーの流れをこしらえてこよう」
「じゃあ、あたしもグラスを」
「バカ。これだけの人ごみの中で、しろうとがシルバーにグラスを乗せて歩けるかよ。あんたのシルバーはカラでいい」

 するっと、混みあうバンケットの中に深沢が入っていく。真乃はその後ろをあわてて追った。

「あんたの兄貴が見たけりゃな、トラブルが起こりそうなところを探すんだ」
「トラブル?」

 真乃が不思議そうに深沢を見上げると、長身の男はすっかり自分のオーラを消して男性ゲストから空いたグラスを受け取り、手早くウィスキーソーダを握らせてしまった。

「客商売を長くしているとな、妙な勘が働くようになる。トラブルが起きる前兆が読めるようになるんだ。たとえば、そら、あそこ」

 深沢が小声でしめした方を真乃が見ると、このパーティの主役である新頭取の周囲に人がむらがっているのが見えた。今日の主賓《しゅひん》に祝いを述べようとする人の群れだ。
 すうっと深沢は真乃を連れて、新頭取を取り巻く人々が見渡せる場所に連れていく。
 その間も深沢は手早くテーブルから空いたグラスをバッシングし、自分のシルバーに乗せていた。

「見てろ、そろそろ誰かが酒をこぼしそうになる」

 真乃がみるうちに、新頭取を中心とした輪がゆっくりと動き始めた。しかしその動きに気が付かない人々が、ふいに押されてバランスを崩した。
 ざわっ、と気配がうごめく。

 その瞬間、人ごみの中にするりと入っていった黒い影が、たくみに新頭取を誘導し始めた。
 影は先ぶれのような絶妙な距離感で周囲の人々を動かし、静かに人々の輪を移動させていく。まるで、指一本で人を動かせるかのように。

 真乃は目を見張って影を見た——清春だ。

 黒いジャケットを着た影は、整った顔立ちにかすかな笑いを浮かべ、きれいに櫛目の通った黒い髪から形のいい耳をのぞかせている。

 ゆったりと、新頭取を取り巻く人々が移動していく。その動きはまるで清春の影に人々がついて歩いているように見えた。
 ふっ、と清春の足が止まる。
 すると人々の群れもそこで止まり、何事《なにごと》もなかったように会話が始まる。
 清春はいつのまにかどこかに退《しりぞ》き、端正な姿を消していた。

「な、わかったか」

 深沢が長身をかがめて、真乃の耳にささやいた。

「あれがキヨの特技だ。あいつはトラブルが起こりそうなところに、トラブルが起こる直前にたどり着く。鼻が利《き》くんだろう。それでもって、火種がつく前に火を消しちまうんだ」

 深沢はそっと真乃の背を押した。今度は真乃が、深沢の指に誘導されるがごとくバンケットルームの出口に向かって歩き始める。

「キヨちゃんは、なぜあんなことができるの?」

 真乃はシルバーを持ちながら、茫然とつぶやいた。
 
「さあな。ありゃキヨの特技だ。あんな男、他に見たことがねえ」

 気が付くと、真乃は深沢とふたりでバンケットルームの外の廊下にいた。まるで上手な手品でも見せられたかのようだ。
 どこかにきっとタネがある。仕掛けがあるはずだ、と真乃は思うが、心のどこかで、仕掛けなんかないと叫ぶ声がする。

 あれは、清春の才能だ。
 そしてバーカウンターにいて客のリクエストをいいように操れるのは、深沢の才能だ。
 こんな二人に、かなうわけがない。キャリアと経験を積めばいつか同じようにできるようになるという慰めは、真乃の中にわいてこなかった。
 この二人だって、ホテル業界に入ったのは、ほんの三年前のことなのだ。
 それなのに、二人ともまるで水を得た魚のようにゆうゆうと巨大なコルヌイエホテルの中を泳ぎ回っている。

 真乃は、思わず深沢の顔を見上げた。その目の色が真剣すぎたのだろう、深沢は軽く笑って真乃の手からシルバー盆を取った。

「てめえとキヨを比べようとするなよ。あんたのアニキは突然変異だ。あれが、おかしいんだ。
こんなところで泣くんじゃねえよ。俺がいじめているみたいじゃねえか」

 深沢がそう言い終わらないうちに、真乃の上にすっと、黒い影が落ちてきた。
 柔らかく、温かい唇の感触。

「え?」

 真乃が見上げると、つややかな色気をしたたらせて、深沢洋輔が笑っていた。

「ま、キスくらいしておけば、あんたも元気が出るだろ」
 深沢は骨ばった指で真乃のフェイスラインを撫で上げた。

「ジャケットはスタッフエリアに返しておけよ」

 そう言うと、今度は鮮やかな色気の帯をひらめかせて、長身の男はバンケットルームへ戻っていった。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

秘事

詩織
恋愛
妻が何か隠し事をしている感じがし、調べるようになった。 そしてその結果は...

甘い束縛

はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。 ※小説家なろうサイト様にも載せています。

処理中です...