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第2章「ここから登る、坂の途中」~真乃×洋輔 編
第31話「この男に、どうにでもされたい」
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(UnsplashのPriscilla Du Preezが撮影)
しかし美麗な男は真乃の唇を素通りして、手を握った。両手で、するりと手を包むと自分の薄い唇に持っていく。
がりっ、と音を立てて真乃の関節を噛んだ。
「痛たっ!」
思わず声を上げると男は口元にぬぐい、かすかに笑った。
「わりい、気が付かなかった」
二度目のせりふは、男が意図的に吐いたものだ。真乃の背筋にどうしようもない震えが走る。
ああもう、この男に――どうにでもされたい。
真乃が唾をのんだ時、男の背後で小さなドアが開いた。
ドアの隙間からは、見慣れた異母兄の端正な顔がのぞいていた。
「洋輔、まだ真乃が見つからないのか? なんだ、いるじゃないか」
「ようやく捕まえたぜ。なんていうかまあ、やんちゃな子リスみてえな妹だな」
”ようすけ”と呼ばれた男は清春を振りかえり、真乃の手を放した。ドアの中に入っていく。
あとには美貌の異母兄が、困ったような顔つきで真乃を見ていた。
やがて清春はバーのドアを開いて、異母妹に入るよううながした。
「まあ、入れ。ちょっとだけだぞ。本当は未成年は入っちゃダメなんだ」
渡部真乃が初めて足を踏み入れたバーは”トリルビー”といった。
店に入るとまず細長い木のカウンターがあり、その奥に酒瓶が整然と並んだ棚がある。
酒瓶の隣にはやはり整然とグラス類が並んでいる棚があり、その並び方を見ただけで真乃には、この棚を管理しているのが異母兄の清春であることが分かった。
潔癖症で整理魔の清春は、かつて松濤《しょうとう》にある父親の家でも、自室をこんな風に管理していた。
自分がわからないものが何一つないように。
無駄なものは一つも置かないように。
何かが欲しいと思ったら手を伸ばしてすぐさまとれる距離に、すべてのものが配置されている。
機能性と整然とした美意識ががっちり四つに組んでいるのが、井上清春という男だ。面白味には欠けるが信用ができ、なによりも頼りになる。
少なくとも、十六歳の真乃にとっては世の中の誰よりも甘えられ、安心できる相手だった。
その異母兄が、けわしい顔でバーの止まり木に座っている真乃を見おろしている。
「ここへは、来るなって言ったはずだ、真乃」
「だって電話してもキヨちゃんが出てくれないから」
「おまえと話していても、どうしようもない。どうせ、親父から金を預かってきたんだろう」
「お父さんからじゃないわよ、あたしからの差し入れだもの」
「馬鹿言うなよ」
清春は切れ長の目で妹をにらんだ。
「金づかいの荒いおまえに、余分な金があるはずがない。親父がおれに渡せって言ったんだろう?」
真乃は内心でぺろりと舌を出す。
異母兄のいうとおりだ。今、バッグに入っている現金は、おととい父親である渡部誠《わたべまこと》から渡されたものだ。
『清春に、渡せ』
父は自宅の書斎で言った。
『ひとりで暮らすなどといってここを出て、もう半年以上たつ。金がなくてろくに飯も食っていないはずだ。
といって、ここにはもう帰ってこないから、無理に食わすわけにもいかん。せめて金を受け取らせろ』
『キヨちゃん、受け取らないわよ。お父さんだって分かっているでしょう?』
真乃はそう言ったが、渡部誠は眉一つ動かさず言い放った。
『清春が受け取らなければ、あいつのポケットに金を突っ込んで来い。いいか、お前の小遣いは別にやるから金を抜くなよ』
そう言うと渡部誠はガサリと財布から金を抜き取り、分厚い封筒とは別にして真乃に渡した。真乃はちゃっかり自分の分も受け取って、書斎を出ようとした。
しかしドアの前で立ち止まり、振りかえると、
『お父さんが、自分で渡せばいいじゃない』
と言ってみた。すると渡部誠は整った顔をしかめて、鼻を鳴らした。
真乃はもうそれ以上、何かを言う気をなくし父の書斎のドアを閉めた。ため息をつく。
渡部誠が最後に見せた強情な顔つき。それは今、アルバイト先のバーで真乃を見おろしている清春とそっくりだ。
頑固で強情で、誰の助けも借りずに自分がやりたいと思うことを難なくやってのける男の顔つき。
『あたしがこういう顔つきだったなら、自分のやりたいことを見つけることが出来るのかしら』
真乃は小首をかしげて思った。
おかしい。自分はこのふたりと血がつながっているのに、なぜ十六にもなって自分のやりたいことも居場所も見つけられないのだろうか。
それは十六歳だからだ、という答えは、まだ真乃のなかには湧いてこない。
そして今、井上清春はバースツールに座る異母妹を見ろして、
「その金は持って帰れ」
冷たく言った。
「ああ、想像どおり」
真乃はつぶやいて、かばんの中の金をそっと握りしめた。
いっそ、清春の顔にぶん投げてやろうか?
しかし美麗な男は真乃の唇を素通りして、手を握った。両手で、するりと手を包むと自分の薄い唇に持っていく。
がりっ、と音を立てて真乃の関節を噛んだ。
「痛たっ!」
思わず声を上げると男は口元にぬぐい、かすかに笑った。
「わりい、気が付かなかった」
二度目のせりふは、男が意図的に吐いたものだ。真乃の背筋にどうしようもない震えが走る。
ああもう、この男に――どうにでもされたい。
真乃が唾をのんだ時、男の背後で小さなドアが開いた。
ドアの隙間からは、見慣れた異母兄の端正な顔がのぞいていた。
「洋輔、まだ真乃が見つからないのか? なんだ、いるじゃないか」
「ようやく捕まえたぜ。なんていうかまあ、やんちゃな子リスみてえな妹だな」
”ようすけ”と呼ばれた男は清春を振りかえり、真乃の手を放した。ドアの中に入っていく。
あとには美貌の異母兄が、困ったような顔つきで真乃を見ていた。
やがて清春はバーのドアを開いて、異母妹に入るよううながした。
「まあ、入れ。ちょっとだけだぞ。本当は未成年は入っちゃダメなんだ」
渡部真乃が初めて足を踏み入れたバーは”トリルビー”といった。
店に入るとまず細長い木のカウンターがあり、その奥に酒瓶が整然と並んだ棚がある。
酒瓶の隣にはやはり整然とグラス類が並んでいる棚があり、その並び方を見ただけで真乃には、この棚を管理しているのが異母兄の清春であることが分かった。
潔癖症で整理魔の清春は、かつて松濤《しょうとう》にある父親の家でも、自室をこんな風に管理していた。
自分がわからないものが何一つないように。
無駄なものは一つも置かないように。
何かが欲しいと思ったら手を伸ばしてすぐさまとれる距離に、すべてのものが配置されている。
機能性と整然とした美意識ががっちり四つに組んでいるのが、井上清春という男だ。面白味には欠けるが信用ができ、なによりも頼りになる。
少なくとも、十六歳の真乃にとっては世の中の誰よりも甘えられ、安心できる相手だった。
その異母兄が、けわしい顔でバーの止まり木に座っている真乃を見おろしている。
「ここへは、来るなって言ったはずだ、真乃」
「だって電話してもキヨちゃんが出てくれないから」
「おまえと話していても、どうしようもない。どうせ、親父から金を預かってきたんだろう」
「お父さんからじゃないわよ、あたしからの差し入れだもの」
「馬鹿言うなよ」
清春は切れ長の目で妹をにらんだ。
「金づかいの荒いおまえに、余分な金があるはずがない。親父がおれに渡せって言ったんだろう?」
真乃は内心でぺろりと舌を出す。
異母兄のいうとおりだ。今、バッグに入っている現金は、おととい父親である渡部誠《わたべまこと》から渡されたものだ。
『清春に、渡せ』
父は自宅の書斎で言った。
『ひとりで暮らすなどといってここを出て、もう半年以上たつ。金がなくてろくに飯も食っていないはずだ。
といって、ここにはもう帰ってこないから、無理に食わすわけにもいかん。せめて金を受け取らせろ』
『キヨちゃん、受け取らないわよ。お父さんだって分かっているでしょう?』
真乃はそう言ったが、渡部誠は眉一つ動かさず言い放った。
『清春が受け取らなければ、あいつのポケットに金を突っ込んで来い。いいか、お前の小遣いは別にやるから金を抜くなよ』
そう言うと渡部誠はガサリと財布から金を抜き取り、分厚い封筒とは別にして真乃に渡した。真乃はちゃっかり自分の分も受け取って、書斎を出ようとした。
しかしドアの前で立ち止まり、振りかえると、
『お父さんが、自分で渡せばいいじゃない』
と言ってみた。すると渡部誠は整った顔をしかめて、鼻を鳴らした。
真乃はもうそれ以上、何かを言う気をなくし父の書斎のドアを閉めた。ため息をつく。
渡部誠が最後に見せた強情な顔つき。それは今、アルバイト先のバーで真乃を見おろしている清春とそっくりだ。
頑固で強情で、誰の助けも借りずに自分がやりたいと思うことを難なくやってのける男の顔つき。
『あたしがこういう顔つきだったなら、自分のやりたいことを見つけることが出来るのかしら』
真乃は小首をかしげて思った。
おかしい。自分はこのふたりと血がつながっているのに、なぜ十六にもなって自分のやりたいことも居場所も見つけられないのだろうか。
それは十六歳だからだ、という答えは、まだ真乃のなかには湧いてこない。
そして今、井上清春はバースツールに座る異母妹を見ろして、
「その金は持って帰れ」
冷たく言った。
「ああ、想像どおり」
真乃はつぶやいて、かばんの中の金をそっと握りしめた。
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