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第12章「あれは、夢か?」
第90話「勝手なこと、言ってんじゃねえ」
しおりを挟む「……そうだな、お前が東京へ来るまでもないよ。おれが今すぐ、名古屋へ帰る」
きちんとスーツを着て、コルヌイエホテルの優美なスイートルームで座っている松ヶ峰聡《まつがみね さとし》は、電話で部下に指示をした。音也が何を考えているにせよ、今の聡にできることは多くない。
つまり、音也の立てたスケジュールどおりに動くことだ。
できのいい、人形みたいに。
自分の情けなさを鼻で笑ってから、聡は今野に言った。
「予定通り、東京駅19発の新幹線に乗る。名古屋駅に迎えに来てくれ」
「了解です……あの、音也さんは、そこにいないんですか?」
今野の問いに聡は顔をしかめた。スマホ越しに表情がわかるわけでもないのに、今野は機敏に気配を察して声を落とした。
「すいません、余計なことを言って……じゃあ名古屋駅でお迎えします」
電話は切れた。
聡はスマホをベッドに放り投げる。高級ホテル、コルヌイエのベッドはスプリングがよくきいていて、スマホは音もたてずに、シーツのすきまに沈んだ。
聡はもう一度、自分の一分《いちぶ》の隙《すき》もない着衣を眺めて、息をはいた。
「あのヤロウ、どういうつもりだよ」
立ち上がる。少し早いが、チェックアウトしよう。新幹線の時間を繰り上げてもいい。
とにかく名古屋へ戻って、これからの事を考えなければ。
聡はジャケットをはおる。袖を通したジャケットとベストの隙間から、ふわりと花のような香りがした。
音也の使っているトワレ、デューンの匂いだ。
甘い香りは聡の脳髄に向かって真っすぐに突き進み、思考をめちゃくちゃにしていく。
……音也は、最後に何と言った?
『何もかも忘れてくれ』だと?
聡は濃紺のネクタイをなでおろしながらつぶやいた。
「勝手なこと、言ってんじゃねえ」
そのまま足早にスイートを出る。
ふんわりとドアがしまり、音也の残り香が断ち切られた。
しかし、ホテルルームのドアが閉じてしまっても――身体の底には、親友が残していった悦楽の名残《なごり》が深く沈んでいる。
忘れられるはずが、ない。
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