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第10章 「裏工作」
第73話「あまりにもつややかで、あまりにも薄汚くて」
しおりを挟む聡は無意識のうちに、左目の下をこすった。ひりひりする。音也《おとや》の言うとおり、すり傷ができているのだろう。
それから聡は考える。
高校時代の楠音也は、たしかに金のない家庭を雑誌モデルのバイトで支えていた。
いわば、たぐいまれな美貌を切り売りして家族を養っていたわけだから、名古屋の超名門校・西海《せいかい》高校のバカ高い学費を払えたわけがない。
聡は、おそるおそる言葉をつないだ。
「奨学金、もらってたんだろ?」
「聡、よく考えろよ。そもそも金持ち学校の西海《せいかい》に、奨学金制度なんか必要か?おれが入学するまで奨学金をもらったやつなんか、いなかっただろう」
「……いなかった」
「あれは『俺のため』に、無理やり設置された奨学金だ」
聡はこくり、と唾を飲んでいってみた。
言葉が、薄葉紙のように二人の隙間を飛んでゆく。
「オト、あの噂は、ほんとうか?
お前が、入学前に西海高校の理事の奥さんと……その」
聡が言いよどむと、音也はまるで役者が舞台上で見栄《みえ》を切るようにプラスチックのペットボトルから水を飲み、ごく短く言った。
「ほんとうじゃない」
聡はほっとして、
「そうだよな。たかが中学生が、理事の奥さんとヤレるはずがない」
音也はピアニストのような長い指をひらひらさせて聡の言葉をとめた。
「そこが違う。おれが寝ていたのは”理事”のほうだ」
ひゅっと、聡は息を飲んだ。音也はにやりと笑う。
その顔があまりにもつややかで、あまりにも薄汚《うすぎた》いので聡は吐きそうになった。
「り……りじ? あの太った、脂《あぶら》っこい男のことか」
「ねちっこい前戯が好きなやつだったが、人の良いオヤジでな。
おれがどうしても西海に入りたんだと言ったら、月に3回のセックスで納得したよ」
「おまえ……まさか西海にいるあいだずっと、あいつに」
音也は答えなかった。
聡はもう、自分の中の何かがぶった切れるのを感じる。
おもわず、音也のグレーのスーツの襟をつかみ上げた。
「なんで、なんで言わなかった!
結局はカネだったのか? あのくそじじい、今からぶち殺しに行ってやる」
聡が乱暴に立ちあがると、音也が手をかけてきた。
「サト」
「冗談じゃねえよ、おれの親友を金づくでいたぶりやがって。
そのとき、てめえ、いくつだった?
14か、15か? そんな子供相手によくも……くそっ!」
「サト。いいんだ」
「おまえが良くても、俺がよくねえよ!」
「紀沙《きさ》さんが、肩代わりしてくれた」
聡は親友の一ミリのあやまちもないような美貌を見た。
山奥の静かな淵《ふち》のような、人《ひと》ひとりくらい平気で呑み込んでしまう底《そこ》のない淵のような美しさ。
怖いけれど、ひきつけられる。
音也はかすかに笑った。
「学費も生活費も、ぜんぶ紀沙さんが払ってくれたんだ」
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