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第9章「何かを我慢している男は、どうしてこんなに美しいのだろう」
第64話「この世にない花」
しおりを挟む(UnsplashのSeverin Höinが撮影)
井上《いのうえ》が深夜のホテル廊下で、すり取るように手に入れた数本の髪へのキスで、どうにか自分を抑《おさ》えこんでいるように、聡》も最後の我慢で音也への恋を押さえている。
だが、こんなことがいつまで続くのか。
おれには、とてもこれほどの恋はできない、と聡は思った。
井上は、いったいどれだけの時間、この恋をこらえてきたんだろう。
そしてこの先、どこへ行くつもりなのだろう。
苦しく見るうち、井上の指に力が入った。
今度は明確に、女性のネックレスを自分のほうへ引き寄せる。
女性の若木《わかぎ》のようなしなやかな長身がゆらりとした。
そして一瞬だけためらってから、女性は初夏の夜風のようにゆるやかに井上に向かって倒れかけた。
倒れかけた先に、井上の広い肩がある。
しかしそのとき、スイートルームの奥からかすかな音がした。
音がした、と聡が思ったときには、かつんっと硬い音が女性の足元から刻《きざ》み立っていた。
ヒールが鋭角に廊下のじゅうたんに突き刺さり、女性の揺らぎを止めた。
井上のふわりと広げた両手が、イカロスの翼のごとく夜の中にほどけてしまう。
「……”まの”が」
井上に背中を見せたままの女性は、静かな声で言った。
「まのが、起きたようです。見てまいります」
女性は振り返って井上を見た。廊下に一歩出て小さな明かりを浴びた女性の顔が、初めて聡の眼にうつった。
清らかな頬骨と、その下にできる柔らかい影の持ち主だった。
男が、その頬骨の上で指をすべらせたいと思う女。
いとおしむようなセックスの後、抱きしめてそのまま眠らせたいと思うような女が、井上の端正な美貌を見上げていた。
ゆっくりと、女性の手が井上に伸びる。
春先の蔓《つる》が天に向かって伸びあがるように、女性は井上の涼やかな目元に指を伸ばし、冷たく光るシルバーフレームの眼鏡の前で指を止めた。
この先は、行けないと言うように。
「おやすみなさい、キヨさん。あなたも、あまり無理をなさらないで」
にこりとほほ笑むと、女性は静かに指を引き、そっとスイートのドアを閉めた。
井上は、しばらくじっと閉じられたドアの前でたたずんでいた。
やがて左手でスイートのドアにふれると、切れ長の美しい目を閉じた。
何かを――と聡は思った。
何かを我慢している男は、どうしてこんなに美しいのだろう。
その美しさは、井上がこの恋を死ぬまで隠しきるつもりでいるからにじみ出るものだ。
では、必死で音也におぼれまいと耐えている聡の恋は、これほど美しい形をしているのだろうか。
「おれなんて、およばない」
つぶやいたとき、井上はついにこらえかねたかのようにスイートのドアに額《ひたい》をつけた。
そこに恋しい人の唇があるかのように。
この世にない花に、そっと額《ぬか》づいて何かを祈る人のように。
ダークスーツを着た機能的なホテルマンは、ホテルマンとしてのすべての身動きを忘れて、目を閉じたままつぶやいた。
「――おやすみ、さえ」
それが、最後だった。
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