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第9章「何かを我慢している男は、どうしてこんなに美しいのだろう」

第60話「理知も論理も、感情にはかなわない」

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(UnsplashのAlexander Krivitskiyが撮影)

 聡は、老舗コルヌイエホテルの明かりも付けないスイートルームに隠れ、ごく細く開けたドアの隙間から廊下を見ていた。

 深紅の廊下に立っているのは、美貌のホテルマン井上だ。聡の部屋から見て、向かい側にあるスイートの扉が開いている。

 声がする。

「忙しいのに、“まの”の風邪ごときで呼びつけてしまって、申し訳ない、さえちゃん」

 小声ではあるが井上は滑舌《かつぜつ》がいいので、よく聞こえた。
 それにしても“まの”とは誰だろう。
 風邪で寝ているというのなら子どもだろうか?

 そこまで考えて聡は、自分が井上について何も知らないことに気づいた。
 既婚者なのか独身なのか。
 子供がいるのか、いないのか。

 この15年間、年に数回のペースで会っていたのに、聡は井上のプライベートな部分については全く知らない。
 そういえば、井上はこのコルヌイエホテルを所有するオーナー社長の息子だと聞いたことはあるのだが……。

 どの情報も、断片的だ。

 ホテルマンと客の関係など、しょせんこの程度なのだ、と聡は考えた。それが当たり前だが、ここへきて聡はがぜん井上という男に興味がわいてきた。

 聡が暗いスイートの中で聞き耳を立てていると、今度はやや低い女性の声が聞こえてきた。

「“風邪ごとき”だなんて言ってはいけませんわ。”まの”は呼吸器が弱いんですから大事《だいじ》を取《と》らないと……。
 あの、あたしは今夜このまま、こちらのお部屋に泊まってもいいでしょうか」

 女性の声は柔らかく理知的で、聡は別の意味で興味をそそられた。思わずドアからわずかに首を出した。
 が、聡の位置からは女性の姿は良く見えない。廊下に立つ井上の大きな背中が、女性の姿をかくしてしまっているからだ。

 ただ井上が、女性に向かって柔らかく首をかしげている様子から見て、かなり背の高い人だと聡にも推測できた。
 声の使い方、しゃべり方、言葉の選び方からみて、若い女ではない。

 30歳に近い井上と同じくらいだろうか。ひょっとすると、聡と同い年くらいかもしれない。

 彼女を見たい、と危険を冒《おか》して扉をもう少し開いてみる。
 我ながら、やっていることが情けない。夜の高級ホテルで、廊下の立ち話を盗み聞きするなんて。

 そう思いながらも聡はなぜか、扉を閉めてしまうことができなかった。


 理知的な声の女性と話している井上の様子が、聡のなかの“何か”を喚起《かんき》する。

 それはわずかに鼻につくような、開ききった花の甘すぎる香りにも似ていた。

 井上のテノールの声が続けて、

「この部屋に泊まる? まののスイートはシングルベッド二つのツイン仕様だ。狭くて居心地が悪いだろうから、隣の部屋を手配する。今夜はちょうど右隣があいているはずだから」

 井上の、冷静な声。ひんやりした声だった。
 その透明すぎる声が、聡の鼓膜にザリッと引っかかった。
 だが、聡はすぐに首をひねる。
 おかしいことなど、何もない。

 女性の声は理知的で、それにこたえる井上の声は論理的だ。

 理知と論理が、やり取りしあっているのだから、無数の人がぶつからずに行《ゆ》きすぎるスクランブル交差点のように話はすんなりと着地するはずなのに。

 わずかな会話のなかですら、ふたりは着地点が見いだせないようだ。
 お互いに一歩も引く気がない。
 ひりっとする空気が、静かな夜のホテル廊下にわき上がった。

 やがて、女性が最終通告を突きつけるようにきっぱりとそう言った。

「私、この部屋が、いいんです」

 その声は理知的というより、感情が勝っていた。
 論理も理知もなぎ倒す、感情の声だった。

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