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1「欲情を、煽るがごとく」
第7話「唇だけを、知っている男」
しおりを挟む(Kerstin HerrmannによるPixabayからの画像 )
「おはようございます。本日はコルヌイエホテルをご利用いただきまして、ありがとうございます」
白石が礼をすると、カウンターの向こうからおだやかな女の声が聞こえてきた。
「おはようございます、白石さん。お世話になります」
そこには、井上の恋人である岡本佐江(おかもとさえ)が優雅に立っていた。
岡本は有名ブランドのショップ店長だ。いつ見てもスキのない着こなしで、問答無用に美しい。
「今度うちのブランドが主催するレセプションパーティがあるんです。今日はその打ち合わせで――みなさまのお力添えでなんとか成功させたいと思っております」
「“なんとか成功”じゃあダメなんだって、いつも言ってるだろ、岡本」
ずいっと野太い声が聞こえた。ロビーを大股で歩いてきた男は、笑っているような大声で。
「うちのブランドが世話んなっているデザイナーの、旗艦店(きかんてん)オープンだ。失敗したら顔が立たねえ。気合を入れろよ」
岡本はにこやかな顔のまま、ダークピンクの唇で鋭く言い放った。
「それなら先輩が担当なさればいいじゃないですか」
「通常業務のすきまに、ちっとばかりパーティの仕事をしたって罰は当たらねえだろうが。
成功したら、特別ボーナスをやるように本部長に掛け合ってやる。機嫌直せよ、な?」
男は肉の厚い手のひらで、ぽんぽんと岡本の頭をたたいた。
「それじゃ、いくか。ん、ガーデン棟ってのはどこにあるんだ?」
「こちらです」
と、カウンター横に立っていた井上清春(いのうえきよはる)が、三人を誘導すべく先に立つ。それからふと振りかえり、
「こちらさまをガーデン棟へご案内いたしますので、しばらくレセプションをお願いいたします」
「りょうかい、いたしました」
茫然としたまま白石は答える。その声に反応したかのように、最後にやってきた男がレセプションカウンターをみた。
男の大きな瞳がきらりと光る。
――あの男だ。
巨大な体躯を持ち、温かくて柔らかい唇をそなえた男。
白石糺(しらいしただす)は、この男の名前を知らず住所も職業も知らない。
しかし唇だけは、知っている。
ごくりと自分が唾をのむ音を、あの巨大な男に聞かれた気がした。
動揺が伝わったかのように巨大な男が顔を向けた。
肉の厚い唇が、にやりと笑っている。
「よう。あとからそこへ寄るぜ」
「いつでも、どうぞ」
三人がエレベーターホールへ去っていく。
白石は汗が流れるのを感じる。
まずい、まずい。
これじゃまるで――恋に落ちたみたいじゃないか。
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