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1「欲情を、煽るがごとく」

第3話 ‟三十六計、逃げるにしかず”

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(David MarkによるPixabayからの画像)


 白石の薄れゆく意識を引き留めたのは、エレベーターの到着音だった。
 ポーン!という電子音で、ハッと気を取り直す。
 必死で呼吸を整え、目の前の大男をにらみつける。

「ご宿泊なのに、お荷物がないとは、どういう事でしょうか」
「へへっ、怖い顔だな。
 俺はどこに泊まるときもクレジットカードしか持って歩かねえんだ」
「……それはまた、身軽ですね……」

 白石がそう言うと、男は顔をかたむけてニヤリとした。

「そうさ、時には身軽さが大事だからな」
「さようですか」
「とくにさ、浮気がバレて半殺しにされそうなときは、逃げるにしかず、だろ?」

 ようやく、白石の呼吸が戻ってきた。しかし大男には混乱をまったく見せない顔で答える。
「逃げるとは……賢明なご判断です」

 平気な顔でエレベーターのボタンを押す。コルヌイエホテルのメイン棟レセプションカウンターは地上一階にある。
 レセプションに着くまでに、この男が宿泊代を踏み倒す人間かどうか、白石が見抜かねばならない。あやしさレベルは上がる一方だが……。

 「なあ。ちょっと聞きたいんだがな」
 と、声が続いた。
 巨大な男はパンツのポケットに肉の厚い手を突っ込み、白石に向かって笑っている。しかし見た目にごまかされてはならない。白石は気持ちを引き締めた。
 人なつっこい笑顔は巨体に似合わない。表情だけは小動物みたいだ。
  
「なあ――ホテルマンってのは、いつ何を言われても、何でもねえって顔をしてんのが仕事かな」
「さようですね」

と答えつつ、白石はちょっと首をかしげた。

「なにがあっても、お客さまに安心して過ごしていただくのがホテルマンですから。何があっても冷静であるようにしております」
「ははあ」

 巨大な男がつぶやいた。

「たいしたもんだな。だからも、あんなふうなのか」

 男のもらした“あいつ”という言葉に、白石の耳は敏感に反応した。
 これほど人好きのする男に“あいつ”と呼ばれるなんて、さぞかし幸せな男だろう。ひょっとして部屋に残してきた恋人の事だろうか。

 ここまで考えて、白石はかすかに首を振る。
 いずれにせよ、俺には関係のないことだ。
 俺は生粋のコルヌイエマンで、このひとはゲストだ。ゲストのプライベートには絶対に立ち入らないのが鉄則。
 ホテルマンは、全身でおもてなしするのが仕事だ――金さえ、払ってくれれば。

 エレベーターの扉がゆっくりと開く。
 男はまったく関係のないことを言いはじめた。

「こういう場所は防犯カメラがついているもんだろう?」
「はい、ついております」
「ってことは、あんたたちは四六時中、監視されているようなもんだ。そういうのって、気にならねえのか」
「そうですね……気にしたことはございません。お客さまの安全が最優先ですから」

 白石は会話の行先がわからなくなり、男の顔を眺めた。
 目も鼻も口も大ぶりで、あけっぴろげな表情の男は、両手をポケットに突っ込んだまま子供のような目つきで笑っている。

「俺は気になるなあ」
「防犯カメラが、でございますか」

 白石の警戒心のレベルがどんどん上がっていく。
 この男、あやしすぎる。
 不信感がつのるほどに白石の表情は柔らかくなっていく。

 どんなゲストも、一度は信じる。
 どんなゲストも、一度は疑う。
 それがホテルマンだ。

 白石の疑念を裏付けるように、大男はきょろきょろとエレベーター回りを見渡し、防犯カメラを見つけてうなずいた。
 
「カメラはあそこか……まあ、なんだな、角度によっちゃ、あんたの顔は映らねえだろう」
「どういう意味でしょ――」

 言いかけた白石の言葉は、最後まで出てこなかった。
 しっとりとした大きな唇が突然ふり落ちてきて、白石の口をふさいでいたからだ。
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