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第二章
第7話 「少女の形をした 魔」
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(UnsplashのIon Fetが撮影)
ぱきり、ぽきり。
イグネイははっと体を起こした。
かすかな音が聞こえていた。柔らかな下生えが震える感覚――足音だ。
頭を振り、意識をはっきりさせる。
まさか、自分が夜の森で熟睡できるとは思っていなかった。
五年間の軍人生活は、高級貴族の公子ですら半野の人に変えるものらしい。
ゆっくりと音を立てずに起きあがる。あたりは塗りこめたような暗夜で、かすかな星明りしか頼りにできない。
ぼうっと、何かが近づいてくる。
イグネイはマントの中でナイフを握りしめ、一気に飛び出せるように準備を整えた。
かさり。さやり。
足音が近づいてくる。
落ち葉を踏む音から計算すると、それほど大きな生き物ではないようだ。
さらに言えば、四本足の足音ではない。足は二本。
イグネイは闇に目をこらした。
しゃさっ。きさささぅ。
音がとまった。イグネイのひそむ巨木、修道院長が供物を置いた木のすぐそばだ。
『番人』だろうか。
ああ、もう少し、明かりがあればはっきり見えるのに――。
イグネイが唇をかんだ時、ほんわりと闇に浮かぶものがあった。
思わずナイフを持つ手に力がはいる。
目を見張った。
かすかな緑色の光を発しているものは――少女の形をしていた。
簡素な服を着ているが、肩までの巻き毛を揺らして立つ姿は宮廷育ちのイグネイが息をのむほどに美しい。
呼吸をひそめていると魔物は木の洞に手を入れ、供物の入ったカゴを取り出した。
中を見もしないで、そのまま歩き去る。
その動きの軽やかさ。
小さな足音だけが緑色の燐光を残して、遠ざかってゆく。
イグネイはうっとりと、その足音を聞いていた。足音すら天上の音楽のようだ……。
おもわず微笑んだ時、かしゃん! という金属音がした。
はっとする。
あろうことか、手にしていたナイフを落としてしまったのだ。落ちたナイフはイグネイの軍靴の金具にあたり、甲高い音を立てた。
金属がぶつかる耳ざわりな音は夜の森に立つはずがない音だ。
自然にない音は、暗い森の中でランタン以上に侵入者の存在を言い立てた。
緑色に光る魔物が、振りかえった。
次の瞬間、俊敏なリスのように魔は走り出した。
「……くそ!」
イグネイも木の茂みから飛び出し、魔物の緑色に光る背中を追った。
月のない夜だ。暗い森の中でも、かすかに光る緑の背中は目立つ。
歴戦の軍人であるイグネイは、たやすく追跡が出来た。
もうイグネイの存在がバレている以上、隠密裏に追う必要はない。
邪魔をする木々を振り払いながら、突っ走ればよかった。
「とらえてやる」
つぶやくと、一気に速度を上げる。
しかし、さすがは魔物。
少女の姿を取りながらも、夜風と同じ速さで暗い森を駆け抜けていく。野戦に慣れたイグネイですら、ときおり見失う速さだ。
「やはり魔物だな……」
イグネイはつぶやいた。
だが、こちらには有利な点がある。
魔物はなおも、かすかに光っていた。
薄い薄い、蟷螂(かまきり)の羽根のような緑色が夜の中で糸を引き、魔物の通った道に残っていた。
姿を見失ったらイグネイは立ち止まり、呼吸を整えながら、かすかな緑色の痕跡を探せばよかった。
そして痕跡はたいていイグネイの先、1ハロていどのところで見つかった。
夜の暗さと足元の悪さを計算に入れても、熟練の兵士なら三十秒ほどで追いつける距離だ。
緑に輝く不思議な生き物を追って、イグネイは次第に暗い森の奥へ奥へと入っていった。
後ろを確認していないので、自分がどれくらい修道院から離れてしまったのか、わからない。
振りかえっても礼拝堂の尖塔すら見えないかもしれなかった。
何百年も人の手が入っていない『聖なる森』の木々は、それぞれ勝手に生い茂り、枝を伸ばして天を覆い隠す高さに成長している。
まるで木々の迷路だ。
イグネイは枝を切り払いながら、奥へ奥へと進んでいった。
もはや後ろに下がることはできない。丁寧に手入れをされた道は、とっくになくなっている。
今はただひたすらに、魔のような少女の、ほの光る背中を追うしかない。
後を追うしかないのに。
ふっと光が消えた。真っ黒な闇の中でイグネイは首をめぐらせ、『番人』の姿を探した。
いない。
いない。
「くそ、見失った――どこだ、ここは?」
おちつけ、落ち着け、と声もなく言い続けながら、イグネイは短く切った髪を撫でつけた。
一気に汗が冷えていく。ぶるっと全身に震えが走った。
「まずい……迷ったな」
そう言った時、イグネイの耳は軽やかな音を聞きつけた。
ぱしゃ。
ひたひたひた。
ぴとり。
水の音だ。
イグネイは目を閉じ、嗅覚に集中した。
音がするのなら、どこか近くに池か泉があるのに違いない。
夜の中だ。視覚は頼りにならない。
使えるのは、嗅覚だ……。
ぱきり、ぽきり。
イグネイははっと体を起こした。
かすかな音が聞こえていた。柔らかな下生えが震える感覚――足音だ。
頭を振り、意識をはっきりさせる。
まさか、自分が夜の森で熟睡できるとは思っていなかった。
五年間の軍人生活は、高級貴族の公子ですら半野の人に変えるものらしい。
ゆっくりと音を立てずに起きあがる。あたりは塗りこめたような暗夜で、かすかな星明りしか頼りにできない。
ぼうっと、何かが近づいてくる。
イグネイはマントの中でナイフを握りしめ、一気に飛び出せるように準備を整えた。
かさり。さやり。
足音が近づいてくる。
落ち葉を踏む音から計算すると、それほど大きな生き物ではないようだ。
さらに言えば、四本足の足音ではない。足は二本。
イグネイは闇に目をこらした。
しゃさっ。きさささぅ。
音がとまった。イグネイのひそむ巨木、修道院長が供物を置いた木のすぐそばだ。
『番人』だろうか。
ああ、もう少し、明かりがあればはっきり見えるのに――。
イグネイが唇をかんだ時、ほんわりと闇に浮かぶものがあった。
思わずナイフを持つ手に力がはいる。
目を見張った。
かすかな緑色の光を発しているものは――少女の形をしていた。
簡素な服を着ているが、肩までの巻き毛を揺らして立つ姿は宮廷育ちのイグネイが息をのむほどに美しい。
呼吸をひそめていると魔物は木の洞に手を入れ、供物の入ったカゴを取り出した。
中を見もしないで、そのまま歩き去る。
その動きの軽やかさ。
小さな足音だけが緑色の燐光を残して、遠ざかってゆく。
イグネイはうっとりと、その足音を聞いていた。足音すら天上の音楽のようだ……。
おもわず微笑んだ時、かしゃん! という金属音がした。
はっとする。
あろうことか、手にしていたナイフを落としてしまったのだ。落ちたナイフはイグネイの軍靴の金具にあたり、甲高い音を立てた。
金属がぶつかる耳ざわりな音は夜の森に立つはずがない音だ。
自然にない音は、暗い森の中でランタン以上に侵入者の存在を言い立てた。
緑色に光る魔物が、振りかえった。
次の瞬間、俊敏なリスのように魔は走り出した。
「……くそ!」
イグネイも木の茂みから飛び出し、魔物の緑色に光る背中を追った。
月のない夜だ。暗い森の中でも、かすかに光る緑の背中は目立つ。
歴戦の軍人であるイグネイは、たやすく追跡が出来た。
もうイグネイの存在がバレている以上、隠密裏に追う必要はない。
邪魔をする木々を振り払いながら、突っ走ればよかった。
「とらえてやる」
つぶやくと、一気に速度を上げる。
しかし、さすがは魔物。
少女の姿を取りながらも、夜風と同じ速さで暗い森を駆け抜けていく。野戦に慣れたイグネイですら、ときおり見失う速さだ。
「やはり魔物だな……」
イグネイはつぶやいた。
だが、こちらには有利な点がある。
魔物はなおも、かすかに光っていた。
薄い薄い、蟷螂(かまきり)の羽根のような緑色が夜の中で糸を引き、魔物の通った道に残っていた。
姿を見失ったらイグネイは立ち止まり、呼吸を整えながら、かすかな緑色の痕跡を探せばよかった。
そして痕跡はたいていイグネイの先、1ハロていどのところで見つかった。
夜の暗さと足元の悪さを計算に入れても、熟練の兵士なら三十秒ほどで追いつける距離だ。
緑に輝く不思議な生き物を追って、イグネイは次第に暗い森の奥へ奥へと入っていった。
後ろを確認していないので、自分がどれくらい修道院から離れてしまったのか、わからない。
振りかえっても礼拝堂の尖塔すら見えないかもしれなかった。
何百年も人の手が入っていない『聖なる森』の木々は、それぞれ勝手に生い茂り、枝を伸ばして天を覆い隠す高さに成長している。
まるで木々の迷路だ。
イグネイは枝を切り払いながら、奥へ奥へと進んでいった。
もはや後ろに下がることはできない。丁寧に手入れをされた道は、とっくになくなっている。
今はただひたすらに、魔のような少女の、ほの光る背中を追うしかない。
後を追うしかないのに。
ふっと光が消えた。真っ黒な闇の中でイグネイは首をめぐらせ、『番人』の姿を探した。
いない。
いない。
「くそ、見失った――どこだ、ここは?」
おちつけ、落ち着け、と声もなく言い続けながら、イグネイは短く切った髪を撫でつけた。
一気に汗が冷えていく。ぶるっと全身に震えが走った。
「まずい……迷ったな」
そう言った時、イグネイの耳は軽やかな音を聞きつけた。
ぱしゃ。
ひたひたひた。
ぴとり。
水の音だ。
イグネイは目を閉じ、嗅覚に集中した。
音がするのなら、どこか近くに池か泉があるのに違いない。
夜の中だ。視覚は頼りにならない。
使えるのは、嗅覚だ……。
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