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第10章「いつか離れる日が来ても」

第116話「行き急ぐ清春の恋」

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 佐江は、自宅近くまで帰ってきたのに少し歩こうと言い出した清春を、首をかしげて見た。
 ほっそりした長い首の曲線に飢えたような目を当てたまま、清春は自宅周辺の風景を、初めて見る人のように眺める。

『——ここはどこだ?』

 と清春は思う。
 佐江と一緒にいると何もかもが、まったく違って見える。世界は呼吸をし始め、色づき、香りをもって清春の目の前にふわりとあらわれる。

 佐江と手をつないだまま、ゆっくりと歩き始めた。
 マンションのそばには住宅や寺社がならぶ通りがある。
 清春は黙って、静かな通りを選んで歩き始めた。
 夏の予感を秘めた夜の空気は、たとえようもなくおだやかだった。

「このあたりって、あまり来たことがないんですけどとても、静かね」


 佐江は清春に手を取られたまま、ゆっくりと歩く。

「こんなふうに、誰かと夜の中を歩いたことはないな」

 おだやかで静かで、けれども何かがはじけそうに膨張している。ちょうど、木に生ったザクロの実がはじけるように。
 そしてザクロの実は、はじけてからもしばらく辛抱づよく木に残しておかねば甘く熟さない。うっかり早採りしてしまうと酸っぱい実ばかりで甘さがない。
 まるで清春の恋のように。
 行き急ぐ清春の恋のように。

「キヨさん、いい匂いがする」

 佐江は立ち止まり、夜に流れる香りのもとをさぐっていた。甘い花の香りが、あたりに満ちている。

「くちなしの花ね」

 清春は花の香りをかぐ。目を閉じた佐江の横顔を見ている。
 佐江はふっくらした唇を開いた。

「とても甘い香りがするわ。くちなしって雨の花なんですって。もうじき梅雨になるのね」

 清春は佐江の声に聞き入っていた。
 毎日の、追い立てられるような仕事のあいまに、ぽっかりとひらいた夜と夜の切れ間。
 佐江がそばにいる、宝石以上に貴重な時間。

 清春は、そっと佐江の手を握りしめた。佐江はかすかに笑ってふり返る。
 白い佐江の顔が、甘く香るくちなしのように清春には見えた。
 肉厚の楕円形《だえんけい》の花びらが開いた優雅な花。
 男の、感情と身体をとらえて離さない妖艶な花だ。

「キヨさん、あたし―――」

 佐江が何かを言いかけて、言葉を切った。

「どうした?」

 清春は静かに尋ねる。
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