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第10章「いつか離れる日が来ても」

第115話「おれの惚れた女は、おれのことなんて分かっちゃいない」

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 テルティエでダイヤのピアスを買った後、清春はすぐに佐江を見つけた。
 彼女を自宅に連れ帰るべくタクシーに乗り、それでもまだ安心できなくて、車中でもずっと手を握ったままだった。

 何がこんなに不安なのか? 清春はこっそりと隣に座る佐江を見た。
 今の彼女は、朝、カフェで会った時と同じ服を着ている。薄い紫色のニットにスカート。タクシーの中でも、細いうなじをしっかりと立てて凛《りん》と座っていた。
 朝からくすぶっている清春の欲情に火がともる。

「佐江、きみ、腹が空《す》いてる?」

 そう尋ねた清春は、もっと違うことをいいたいのを必死に押し殺す。しかし清春が恋をしている女はのんきに、

「少し空いている、程度でしょうか。キヨさんは?」
「おれは、空いてる」

 ひんやりした清春の指が、佐江の手のひらをなぞる。

「きみが飢えていなくても、おれは飢えているんだよ」

 どうやったら、この飢えがきみに伝わるんだ?
 どうしたら、同じ飢えをきみが感じてくれる?

 泣きたい気持で、清春は外を見た。

 そのとき、ふっとエルメスのトワレ『李氏《りし》の庭《にわ》』の香りが、強くなった。佐江の香り。大事な女の匂い。
 佐江が身を乗り出して清春の耳たぶをひっぱった。

 清春はおどろいて佐江を見る。

「なんだよ、どうしたんだ」

 どうしていいかわからず、清春は笑った。
 幸せだからだ。
 佐江が近くにいる。そう思うだけで、身体のどこかがやわらぎ、こわばりがほどけてゆく。

 佐江は片手をつないだまま、もう片方の手で清春の耳たぶをなぞった。
 扇情的《せんじょうてき》な動きに、清春はもう、息をするのも苦しくなる。

 いっぽうの佐江は、邪念をまったく感じさせない平静な声で、

「キヨさんの耳の形って、真乃《まの》とよく似ていますね」
「そうなのか? 妹の耳なんて、見たことがないよ」
「見てみたらいいわ。とても形がいいのよ」
「興味ないよ」

 清春はそういうと、身体をかがめて佐江の耳たぶを噛んだ。
 かちっと、佐江のつけているプラチナのちいさなピアスが歯に当たる。

「もう、挑発はよせ。これ以上されたら、我慢がきかなくなる」
 佐江は小声でささやいた。
「コントロールを失くしたことなんてないくせに」

 清春は一瞬だけ強く目を閉じ、ほそく息を吐いた。
 おれの惚れた女は、おれのことなんて、ちっともわかっちゃいない。

 自宅マンションのまえに着くと、清春は佐江をタクシーから降ろして支払いをした。車から外へ出ると、六月の夜は暖かく心地よかった。

 佐江、と清春は呼んだ。

「少し、歩こうか」
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