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第9章「水平線」

第92話「会いたいんだ」

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 清春は酒やグラスを片付けてオリエンタルホテルのスイートを出た。ホテルのエントランスからタクシーにのり

「コルヌイエホテルまで、お願いします」

 タクシーが動き始めると、清春はようやく息を吐いた。
 その姿はいつものコルヌイエのアシスタントマネージャーにもどっており、借り物の黒いベストやネクタイは酒瓶ともにカバンにしまい込まれた。
 混みあう車外を眺めて、清春はドライバーに声をかけた。

「混んでますね」
「五十日《ごとおび》ですからね。コルヌイエまでだと、ちょっとかかりますよ。急ぐなら電車の方が良いでしょう。駅に行きますか」
「べつに急いでいませんから。あ、煙草が吸えるといいんですが」

 どうぞ、と年配のドライバーは後部座席の窓を開けた。
 清春はスーツの内ポケットから煙草とライターを取り出し、一本くわえて火をつける。
 ライターをしまうタイミングで、スマホも取り出して画面を立ち上げた。

 清春の指が、ためらいながら佐江の連絡先を探す。
 やがてメッセージを送信した。

『会いたい』

 こんなシンプルな言葉が、これほど重い意味を持つことを清春は知らなかった。
 なにもかも、清春の生活を変えて男のすべてを意識もしないで支配する佐江という女を、清春が持ってしまったから起きた変化だ。
 清春が想像もしなかった変化が、いまや清春の身体を侵食している。

 それが、清春が望んだ人生だった。

 煙草を一本吸い終わらないうちにスマホが振動する。佐江から返信がきた。
 画面には短い言葉が並んでいた。

『ずるい』
『会えない時に、そんなことを言わないで』

 煙草をくわえて、清春はかすかに微笑んだ。もう一度メッセージを佐江に送る。

『会いたいんだ』

 会いたいんだ。

 清春は、窓の外を見る。
 気温が上がり始めた横断歩道の上で、ゆらりと小さな陽炎《かげろう》が立った。
 切れ長の目でじっと見ていると、陽炎は反対車線から走ってきたトラックに轢《ひ》かれて、あっというまに消えてしまった。

 清春の口元には、火のついた煙草がある。
 この煙草の灰を、佐江の部屋の灰皿に落としたい、と清春は思った。
 けれども荷物と清春を乗せたまま、タクシーは午後の混雑に飲み込まれてゆく。


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