上 下
74 / 153
第8章「夏が来りて、歌え」

第74話「おれの半分以上は香奈子さんが作ったようなもの」

しおりを挟む


 佐江《さえ》の身体には、胸の下から下腹部にかけて清春がわざと残したキスの跡が散っている。
 清春はベッドに腰を掛けて佐江の耳元にささやいた。

「仕事の服、着られるか?」
「大丈夫……です」

 佐江は小声で答えた。清春はもうこらえきれなくなり、大きな声で笑った。

「おれのせいじゃないぞ、きみがしてもいいって言ったから」

 佐江はもう布団に突っぷしてしまい、顔をあげない。
 清春はどうしてももう一度、顔が見たくて、佐江のなめらかな裸の肩に手をかけた。

「おれはあと五日はコルヌイエに泊まりこみだ。仕事が終わったら電話するよ」

 清春は佐江の額に軽くキスをした。寝室を出ようとした時、名前を呼ばれてベッドを振り返る。佐江はなぜか少し息を止めたような顔をしてから、

「いってらっしゃいませ」

 と言った。
 清春は一瞬かたまり、それから口元をゆるめて微笑んだ。

「行ってくる。きみ、今日は午後出勤だろう。寝すごすなよ」

 寝室を出て、玄関で靴を履く。外へ出て鍵をかけてから、ちょっと立ち止まった。
 部屋に誰かを残して出かけるのは、いつ以来だろうか。
 いってらっしゃいという声を受けて、いってきますという返答をしたのはいつが最後だろうか。

 母親が死んだときからだから…と頭の中で年数を計算し始めて、清春はすぐに首を振った。計算しなくても十年以上たっている。

 マンションのエントランスを出て、迎えのタクシーに乗り込む。
 慣れているドライバーは三着のダークスーツを詰め込んだ大きなガーメントバッグを持ち込む清春をみても驚かない。

「またしばらく泊まり込みですか」

 ええ、と清春は短く答えた。
 車のドアが閉まりタクシーが進みだすと、佐江の眠る部屋が遠ざかっていく。車のほとんどないこの時間なら清春の部屋からコルヌイエまではタクシーで十五分しかかからない。
 清春の送迎に慣れたタクシードライバーはコルヌイエホテルの従業員入り口の近くで降ろしてくれた。


 早朝四時にもならないホテルは、静まり返っている。清春はスタッフ用のロッカーに行き、ガーメントバッグから出したスーツをかけた。
 ちらりとロッカーの鏡を見て、自分がいつもの顔になっているのを確認する。有能かつ冷静なホテルマンの顔からは、昨夜の甘い余韻はカケラも見つからない。
 その代わり、皮膚には消しきれない佐江の気配が残っている。

 荷物を片付けた清春は、取り急ぎレセプションカウンターに向かった。
昨夜、清春の代わりに香奈子の部屋付きコンシェルジュをつとめてくれた後輩ナイトマネージャーとの引継ぎがある。

 申し送りを受けてみると、さいわい昨夜は何事もなかったらしい。銭屋香奈子《ぜにやかなこ》はレセプションに何の連絡もせず、一晩ぐっすりねむったようだ。
 ほっと胸をなでおろし、後輩の峰(みね)に礼を言う。

「ありがとう、峰。助かりました」
「いえいえ、一晩だけのことですから。井上さんこそ大変ですよね。プレジデンシャルスイートのゲストのアウトまで、まだ五日もありますから」
「やっと半分です。皆にも無理を言いますが、よろしくお願いいたします」

 同僚や後輩に対して清春の態度はいつも丁寧だ。オーナーの愛人の子供だという微妙な立場を考えると、高圧的になるのは控えたいと思っている。
 話をしているうちに、香奈子の秘書の村上から内線がかかってきた。清春がコルヌイエに戻ってきたのかを確認したかったらしい。

 清春は電話を取り、

「おはようございます、村上さん。どうなさいましたか」

 朝の四時半にもかかわらず村上は眠気のない闊達《かったつ》な声で、

「ああ、井上さん。お戻りになっていらっしゃいましたか。よろしければ、香奈子さまがお部屋でお食事をとりながら本日の打ち合わせをしたいと言われるのですが」
「すぐ参ります」

 だちに香奈子のいるプレジデンシャルスイートに向かう。
 こういうとき香奈子は迅速な対応をすることを好む。時間を無駄にされるのが何よりも嫌いなのだ。

 七年も前に別れたのに、香奈子の思考回路と行動様式は本能のように清春に染みついている。それがコルヌイエホテルで働くうちにより磨き上げられて、今の清春はまさしく香奈子ごのみの、有能なホテルマンになりおおせた。

 彼女のためにこうなったわけじゃない、と清春は考える。
 しかし結果的には香奈子のためにこうなったようなものだ、と清春の中の半分が答える。
 若いころ、清春が溺れるほどに愛してあこがれた年上の女は、ビジネスマンとしての心得を若い男の背骨に叩き込んで去っていったのだ。

 おれの半分以上は香奈子さんが作ったようなものだ、と清春は考える。
 つまりそういうことだ。どうしようもない。今さら、変えようもない。
 清春は自分にそう言いきかせて、プレジデンシャルスイートのドアをノックした。

「おはようございます、井上でございます」

 ドアが開く。村上がにこやかに立っていた。

「おはようございます。どうぞ、香奈子さまがお待ちです。」

 清春は微笑んだ。
 さあ。
 戦場だ。
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

【R18】こんな産婦人科のお医者さんがいたら♡妄想エロシチュエーション短編作品♡

雪村 里帆
恋愛
ある日、産婦人科に訪れるとそこには顔を見たら赤面してしまう程のイケメン先生がいて…!?何故か看護師もいないし2人きり…エコー検査なのに触診されてしまい…?雪村里帆の妄想エロシチュエーション短編。完全フィクションでお送り致します!

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

車の中で会社の後輩を喘がせている

ヘロディア
恋愛
会社の後輩と”そういう”関係にある主人公。 彼らはどこでも交わっていく…

【R-18】クリしつけ

蛙鳴蝉噪
恋愛
男尊女卑な社会で女の子がクリトリスを使って淫らに教育されていく日常の一コマ。クリ責め。クリリード。なんでもありでアブノーマルな内容なので、精神ともに18歳以上でなんでも許せる方のみどうぞ。

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

処理中です...