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第8章「夏が来りて、歌え」

第73話「昨夜の跡(あと)」

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 翌朝、早朝三時。
 清春はスマホの目覚ましが鳴る前に目を覚ました。いつもの早朝勤務の出勤時間と同じなので、身体がかってに目を覚ます。大きく伸びをしようとして、ベッドのなかに佐江がいることを思い出した。
 隣に顔を向けると、佐江は規則正しい寝息をたてて安らかに眠っている。

 彼女を起こしてしまわないように、清春はそっと彼女を抱いていた腕をはずした。そのまましばらく寝顔を見てから、頬骨にキスをしてベッドを出た。
 なごりおしい。もっと佐江のそばにいたいが、仕方がない、仕事だ。

 バスルームで顔を洗って身支度をするうちに、井上清春の頭と身体は仕事モードに入っていく。
 今頃、コルヌイエホテルのプレジデンシャルスイートでひとり眠っている香奈子の機嫌はどうだろう。
 香奈子は気分の上下が少ない女ではあるが、扱いやすいわけではない。ひと晩不在にした後、ゲストの機嫌が変わるのはよくあることだ。
 今朝は心してかからねば、と清春は鏡にうつる顔を見て、気を引き締めた。


 身支度を終えた清春は足音を消しながら寝室に戻る。佐江を起こさないよう、音を立てずにクローゼットをあけ、シャツを着はじめた。
 袖口をカフリンクスで止めながら、リビングにおいてあるガーメントバッグに入れたスーツとネクタイ、シャツの組み合わせを確認する。

 今日のスーツはダークブルーのダブル。明日と明後日は黒に近いチャコールグレーとネイビーだ。スーツが三セットあれば、あとはコルヌイエホテルの有能なランドリーサービスがなんとかしてくれるだろう。

 香奈子が日本を出立するまであと五日。コルヌイエホテルでの、一分たりとも気を抜けない仕事がまた始まる。
 清春がワイシャツを着てネクタイを結びはじめると、ベッドの中で佐江が身動きする気配がした。
 ベッドの中の佐江を見る。

「わるい、起こしたな」

 まだほとんど夢のなかといった感じの佐江は、目をこすりながら清春を見上げた。その少女っぽいしぐさに思わず微笑んだ。
 女を、これほど愛おしいと思うようになるとは、想像もしなかった。ほんの二カ月前までは。
 だが、これは現実だ。井上清春は恋をしていて、この世の何よりも、佐江がいとおしい。

「まだ早いんだ、寝ていろよ」
「……何時です、キヨさん?」
「三時半」

 ネクタイを結び終えた清春は答えて、ベッドサイドのテーブルから煙草とライターを取った。それをオーダースーツの内側につけてもらった煙草用のポケットにしまう。

 佐江が、ふとんで胸元をおおいながら体を起こした。まだ眠そうな顔で微笑む。

「もう出かけるんですか?」

 清春は恋人の姿を見て、にやりとした。昨夜の佐江のささやきと、せっぱつまった甘い吐息が、身のうちによみがえる。

「まずいな、昨夜、『跡(あと)』を残しすぎたか」

 清春がそういうと、佐江は自分の身体を見おろし、小さく叫んだ。
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