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第8章「夏が来りて、歌え」
第71話「口でされたこと、ないのか」
しおりを挟むベッドで性急に佐江を抱いたあと、清春は悦楽の甘い疲れの中で寝入ってしまった。
目を覚ましたとき、となりに佐江がいないのに気がついた。
手を伸ばして触れたシーツがひんやりしていることを理解すると、清春はがばっとベッドから跳ね起きた。佐江に、逃げられたと思った。
それから寝室の中を見まわして、彼女のワンピースがていねいにハンガーにかけられているのを見た。
まさか佐江が裸で帰るわけがないから、つまり彼女は清春のマンションのどこかにいる。それがわかってようやく清春は息をついた。
「みっともないな」
そうつぶやいてから、バリバリと短く切った髪をひっかいてから寝室を出る。
寝室にいなければ、佐江はリビングにいるに違いないと清春は思った。
部屋をのぞくと、佐江は清春のシャツをまとったままソファの上で膝を抱えていた。
まるで家族を待っていて眠りに落ちてしまった少女のように。
岡本佐江という女は、清春にいつも清浄なイメージをもたらす。
「佐江」
清春は、女の後ろからこめかみにキスをした。佐江からは悦楽の名残りの、甘い香りがした。
振り返った佐江ははにかむように笑い、
「ごめんなさい、こんな格好で。いま着替えてまいりますから」
て立ち上がろうとする。
とんでもない。清春はあわてて佐江の腕をつかんだ。
「いいんだ。このままで―――膝に乗せてくれよ」
清春は煙草をくわえて火をつけ、ソファに横になって佐江のはだかの腿に頭を乗せた。
佐江の頬骨の高い顔が困ったように清春を見おろしている。
清春の目には、男物のシャツのすきまから佐江の縦長のへそがみえ、シャツの生地越しに柔らかい乳房の形が見え、乳房のすきまから佐江の小さくとがった顎が見えた。
にんまりと笑ってつぶやいた。
「男としちゃ、たまらない光景だ」
「なにかおっしゃいました?」
「いや。このまましばらくいてくれよ」
佐江の体温を味わう。そして少し眠そうな佐江を眺めた。
情事のあと、男のシャツ一枚をはおっただけの女のしどけない格好は、ただもう純粋に清春の欲情をそそった。
不埒《ふらち》な妄想を知らずに、佐江はそっと膝の上の男の頭を撫でている。
「お仕事が忙しいんでしょう。疲れているんですよ。まだ、寝ていればいいのに」
ふうと清春は小さなため息を佐江に知られないように吐く。
この女はほんとうにおれのことなんてわかっちゃいない。そう思うとつい、ほろりと清春の口から本音がこぼれ出た。
「仕事の忙しさなんて、どうにでもなるんだ。きみに会えないのが、きつい」
言ってしまってから清春はあわてて口をふさぐが遅く、佐江が困ったように笑うのが見えた。
清春は自分の愛情がむなしく両手からすべり落ちていく瞬間を見る。
どれほど清春が愛しても、清春の異母妹にほれ込んでいる佐江にとっては、その愛情は余計なものだ。あくまでもたいせつな真乃《まの》の付属品にすぎない。
清春は左手の中指と薬指で煙草を挟み、にがい煙を吐き出した。そして吸いかけの煙草をクリスタルの大きな灰皿で押しつぶすと、手をのばして佐江の頬骨をそっと撫でた。
目を閉じて、佐江の膝の上で寝返りを打った。清春が寝返りを打つと、佐江がほんの少し身体をよじらせた。
「キヨさん、痛い」
「うん?」
清春は目を開けた。
「ひげが、生えてきているでしょう」
自分のあごをなでる。夜になって薄くひげが生えてきているのが、佐江の裸の腿にあたったのだ。
見ると佐江の白い太ももの一部が赤くなっていた。
ぞくっと清春の身体に欲情が走った。
自分のひげが当たった佐江の太ももを見ながら、清春はゆっくりと指を佐江の奥に進ませた。
佐江があわてて言う。
「キヨさん、ちょっと!」
「あんなのじゃ足りないんだよ」
指は、佐江の内側を嬉々として動き回った。
「もう五日もコルヌイエにカンヅメで、この先もまだ五日つづけて泊まり込みだ。きみを抱けないとわかっているんだ。もっと、したい」
清春はするりと佐江の膝から降り、彼女を長い指で割って唇をつけた。
びくっと佐江の身体が飛び跳ねる。
「なんだよ、初めてでもあるまいし」
清春は笑いながら身体を固くしている佐江を見た。佐江は急いで脚を閉じ、ソファの上で膝を抱えた。
「佐江」
清春は彼女の顔をのぞきこむ。
「口でされたこと、ないのか」
佐江の白い肌が、たちまち真っ赤になった。それを見た瞬間、清春の自制がはじけ飛んだ。
佐江の中に、他の男が知らない部分がまだ、ある。
だとしたら、それは清春のものだ。
佐江を十二年も愛し続けた清春だけが手に入れていいものだ。ほかのどの男にも、渡してはならない。
清春はそっと舌を乗せた。
指と口が、まるで知り尽くした場所のように佐江を侵食する。しだいに甘さを増す佐江の息を聞きながら、清春は笑う。
「佐江、佳いんだろう?」
佐江はもう何も言わず、ただ身体を甘やかに、甘やかに震わせている。
清春は彼女の体温と柔らかさにおぼれこんでいきながら、わずかに残る冷静な部分で考えた。
このひとが、大切だ。
ほかの何よりも誰よりも。
世界中に向かってそう言い切れるのに、なぜおれの背骨には昔の女の声が鳴り響いている?
――きよはる。
あたしの声と体温を、忘れないで。
忘れられるわけがない、と清春は佐江を抱きしめながら、思う。
だが。
香奈子の記憶を捨てきることが、佐江への愛だ。
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