上 下
67 / 153
第8章「夏が来りて、歌え」

第67話「惚れた女のことは、どんな小さな事でも忘れません」

しおりを挟む

(SusasによるPixabayからの画像)

 
「あれは、私が将来ある若い男のために、泣く泣く身を引いたのよ」

 コルヌイエホテルのプレジデンシャルスイートでソファに座り、軽く足を組み変えながら、しれっと銭屋香奈子《ぜにやかなこ》は答えた。
 清春はもう何も言わずに香奈子が散らかしたものを片付け始めた。

「お食事はどうされますか?」
「食べたくない。疲れすぎていて食事なんてとれない」
「少しは何かを食べたほうが――」

 清春が言いかけたとき香奈子のスマホが鳴った。すばやく取って香奈子に渡す。香奈子は一瞬だけ画面を見て、電話をつないだ。

「あなた、どうなさったの。ええ、ええ、東京での仕事はうまくいっていますわ、心配いりません。それより今日の調子はどう? だめよ、無理をなさっては」

 電話口の香奈子の声は普段よりやや高くなる。電話嫌いの香奈子が緊張している証拠だ。スイスにいる夫との通話では一段とトーンが高いように清春には聞こえた。

「もちろんよ。でもあなたこそ、ゆっくりお休みになってね」

 そういって香奈子は電話を切った。そしてスマホをもったままソファにぐったりともたれた。
 清春は、香奈子のネイルをほどこした指をほぐすようにしてスマホをとる。
 男の長い指が器用に手のひらからスマホを持って行くのを、香奈子はぼんやりと見つめていた。

「——銭屋のこと、聞いている?」
「はい」

 香奈子はため息をついた。

「ドクターからは、あと三ヶ月だと言われているの。ねえ、清春。私、ほんとうは日本に来ている場合じゃないのよ。
でも、あのひとが仕事を優先しろなんて言うから――」

 香奈子は弱々しくそういった。
 清春はテーブル周りをすっかり片付けてから香奈子の前にひざまずいた。

「ヒールを脱いで」

 低い声で、そう命じる。
 香奈子はちょっとぼんやりしたまま黙って、清春の言うなりに靴を脱いだ。
 シルクの黒いストッキングに包まれた小さな足が、ひざまづいている清春の前にむきだしになる。

 清春はその足を手に取り、ゆったりとマッサージを始めた。

「貴女《あなた》は昔から、疲れがたまると足に来るから」
「——よく、覚えているのね」
「惚れた女のことは、どんな小さなことでも忘れませんよ」

 男の大きな手が、ヒールの中に押し込まれて酷使されっぱなしの足を揉みほぐしていく。香奈子はそれを、見るともなく見ている。

「あれから七年もたったなんて信じられない」

 ぽつりと香奈子は言った。清春は手をとめて香奈子の足元からわずかに疲れの浮いた顔を見上げる。

「おれにとっては、短くない時間でした」
「あなたは若いからそう思うのよ。あたしよりたしか五歳は年下でしょ」
「年齢の問題じゃありません。たぶん、愛情の問題ですよ」
「あたしだってあなたを愛していたわよ」
「あなたのしたいようにね」

 マッサージを終えた清春は、香奈子の22センチの足にルブタンのハイヒールをはかせてやる。

「あなたのしたいように、あなたの都合のいいようにおれを愛したんだ。それが悪いと言うわけじゃありませんが、おれにとっては不利な恋でしたね」

 立ち上がった清春はルームサービスのメニューを手に取り、香奈子に渡す。

「なにか喰わなくちゃダメです。あなたがオーダーしないならおれが勝手にきめますよ」
「強引ね、女に無理じいをしちゃダメだって教えなかった?」
「教わりましたよ」

 清春は内線電話を手に取った。

「ついでに、女の言うがままになっていたら最後には捨てられるってこともね」
「うらんでいるの?」

 手渡されたメニューを適当にめくりながら香奈子が言った。清春はちょっと考えてから答えた。

「うらむほど、憎めませんでした。あんまりにもあなたに惚れすぎていたので」
「ふうん」

 香奈子はまじまじと清春を見た。

「ずいぶん、言うようになったわね」
「七年たっているんです」

 清春は苦笑した。

「いつまでも、夢見る子供じゃいられませんよ」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

隣の席の女の子がエッチだったのでおっぱい揉んでみたら発情されました

ねんごろ
恋愛
隣の女の子がエッチすぎて、思わず授業中に胸を揉んでしまったら…… という、とんでもないお話を書きました。 ぜひ読んでください。

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

彼女の母は蜜の味

緋山悠希
恋愛
ある日、彼女の深雪からお母さんを買い物に連れて行ってあげて欲しいと頼まれる。密かに綺麗なお母さんとの2人の時間に期待を抱きながら「別にいいよ」と優しい彼氏を演じる健二。そんな健二に待っていたのは大人の女性の洗礼だった…

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

処理中です...