上 下
66 / 153
第8章「夏が来りて、歌え」

第66話「記憶にもならない、終わった恋の記憶」

しおりを挟む

(Renate KöppelによるPixabayからの画像)

 滞在三日目の夕方、香奈子は予定どおりひとりでコルヌイエホテルに戻ってきた。
 仕立ての良いスーツの肩をそびやかすようにしてスイートに入った香奈子は、バッグを放り出してリビングエリアのソファに座り込んだ。

「おつかれのようですね」

 香奈子は、自分が放り出したバッグを清春がきちんとテーブルに置きなおすのを見て大きく息を吐いた。

「そうね、まだ時差ボケが残っているの。ヨーロッパからアジアに来ると時差に慣れる前にスイスに帰らなくちゃいけないからつらいわ」

 ソファに体を投げ出した香奈子の前に、スッとコーヒーが出てきた。香奈子は黙ってそれを受け取って一口飲んだ。

「アーモンドの香りがするわ。アマレットを入れたわね?」
「たしかお好きだったと思いまして」

 香奈子は姿勢を直し、しゃんとしてコーヒーを飲み始めた。
 アマレットと言うイタリアのリキュールをブラックコーヒーに入れたものは、香奈子の好物だった。アマレットの芳香がコーヒーと交じって一段と濃厚な薫りを作り出す。

 ゆったりとコーヒーを飲み終えると、香奈子はカップとソーサーをテーブルに置き、清春に向かって黙って手を出した。
 小さな手のひらに、清春はバッグから取り出した煙草をおいてやる。煙草はフランス製のジタン。
 香奈子がジタンをくわえると清春は絶妙なタイミングで火をつけた。
 深々と煙草を吸い込む。
 ゆっくりと煙を吐き出してから、彼女はくっくっと笑い出した。

「昔の男のアテンドは、どうしてこう心地いいのかしら。ねえ清春?」

 清春は答えずに自分の手にある煙草の箱をじっとみた。ブルー地に波のような白い模様が入り、青い女性のシルエットが軽快に踊っている。
 この煙草は清春にとっても、なじみのものだ。

「煙草を変えていないんですね。まだジタンを吸っているんですか」
「慣れたら他の煙草に変えられないわ。男とおんなじよ」

 香奈子は煙草を左手の中指と薬指ではさんで吸いつけた。風変わりな煙草の吸い方。七年前、香奈子に夢中だった清春は苦労して苦労して、女のしぐさをまねしたものだ。
 今では、生まれた時からこの奇妙な形で煙草を持ち続けていたように、清春の体の一部になってしまっている。
 記憶にもならない、終わった恋の記憶。

「——おれは、あっさり貴女に捨てられました」

 言うつもりのない言葉が、次々にこぼれてくる。
 昔の女の魔力は、おそろしい。
 清春は次第に、自分が何を言っているのかわからなくなりつつある。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

彼女の母は蜜の味

緋山悠希
恋愛
ある日、彼女の深雪からお母さんを買い物に連れて行ってあげて欲しいと頼まれる。密かに綺麗なお母さんとの2人の時間に期待を抱きながら「別にいいよ」と優しい彼氏を演じる健二。そんな健二に待っていたのは大人の女性の洗礼だった…

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

【R18】こんな産婦人科のお医者さんがいたら♡妄想エロシチュエーション短編作品♡

雪村 里帆
恋愛
ある日、産婦人科に訪れるとそこには顔を見たら赤面してしまう程のイケメン先生がいて…!?何故か看護師もいないし2人きり…エコー検査なのに触診されてしまい…?雪村里帆の妄想エロシチュエーション短編。完全フィクションでお送り致します!

お嬢様、お仕置の時間です。

moa
恋愛
私は御門 凛(みかど りん)、御門財閥の長女として産まれた。 両親は跡継ぎの息子が欲しかったようで女として産まれた私のことをよく思っていなかった。 私の世話は執事とメイド達がしてくれていた。 私が2歳になったとき、弟の御門 新(みかど あらた)が産まれた。 両親は念願の息子が産まれたことで私を執事とメイド達に渡し、新を連れて家を出ていってしまった。 新しい屋敷を建ててそこで暮らしているそうだが、必要な費用を送ってくれている以外は何も教えてくれてくれなかった。 私が小さい頃から執事としてずっと一緒にいる氷川 海(ひかわ かい)が身の回りの世話や勉強など色々してくれていた。 海は普段は優しくなんでもこなしてしまう完璧な執事。 しかし厳しいときは厳しくて怒らせるとすごく怖い。 海は執事としてずっと一緒にいると思っていたのにある日、私の中で何か特別な感情がある事に気付く。 しかし、愛を知らずに育ってきた私が愛と知るのは、まだ先の話。

ねえ、私の本性を暴いてよ♡ オナニークラブで働く女子大生

花野りら
恋愛
オナニークラブとは、個室で男性客のオナニーを見てあげたり手コキする風俗店のひとつ。 女子大生がエッチなアルバイトをしているという背徳感! イケナイことをしている羞恥プレイからの過激なセックスシーンは必読♡

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

処理中です...