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第8章「夏が来りて、歌え」

第66話「記憶にもならない、終わった恋の記憶」

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(Renate KöppelによるPixabayからの画像)

 滞在三日目の夕方、香奈子は予定どおりひとりでコルヌイエホテルに戻ってきた。
 仕立ての良いスーツの肩をそびやかすようにしてスイートに入った香奈子は、バッグを放り出してリビングエリアのソファに座り込んだ。

「おつかれのようですね」

 香奈子は、自分が放り出したバッグを清春がきちんとテーブルに置きなおすのを見て大きく息を吐いた。

「そうね、まだ時差ボケが残っているの。ヨーロッパからアジアに来ると時差に慣れる前にスイスに帰らなくちゃいけないからつらいわ」

 ソファに体を投げ出した香奈子の前に、スッとコーヒーが出てきた。香奈子は黙ってそれを受け取って一口飲んだ。

「アーモンドの香りがするわ。アマレットを入れたわね?」
「たしかお好きだったと思いまして」

 香奈子は姿勢を直し、しゃんとしてコーヒーを飲み始めた。
 アマレットと言うイタリアのリキュールをブラックコーヒーに入れたものは、香奈子の好物だった。アマレットの芳香がコーヒーと交じって一段と濃厚な薫りを作り出す。

 ゆったりとコーヒーを飲み終えると、香奈子はカップとソーサーをテーブルに置き、清春に向かって黙って手を出した。
 小さな手のひらに、清春はバッグから取り出した煙草をおいてやる。煙草はフランス製のジタン。
 香奈子がジタンをくわえると清春は絶妙なタイミングで火をつけた。
 深々と煙草を吸い込む。
 ゆっくりと煙を吐き出してから、彼女はくっくっと笑い出した。

「昔の男のアテンドは、どうしてこう心地いいのかしら。ねえ清春?」

 清春は答えずに自分の手にある煙草の箱をじっとみた。ブルー地に波のような白い模様が入り、青い女性のシルエットが軽快に踊っている。
 この煙草は清春にとっても、なじみのものだ。

「煙草を変えていないんですね。まだジタンを吸っているんですか」
「慣れたら他の煙草に変えられないわ。男とおんなじよ」

 香奈子は煙草を左手の中指と薬指ではさんで吸いつけた。風変わりな煙草の吸い方。七年前、香奈子に夢中だった清春は苦労して苦労して、女のしぐさをまねしたものだ。
 今では、生まれた時からこの奇妙な形で煙草を持ち続けていたように、清春の体の一部になってしまっている。
 記憶にもならない、終わった恋の記憶。

「——おれは、あっさり貴女に捨てられました」

 言うつもりのない言葉が、次々にこぼれてくる。
 昔の女の魔力は、おそろしい。
 清春は次第に、自分が何を言っているのかわからなくなりつつある。
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