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第7章「キセキ」
第58話「こんなイケメンでも奥さんには頭が上がらないんだあ」
しおりを挟む(Loc NguyenによるPixabayからの画像 )
『モデルかしら?』と聞かれた清春は、にこやかに
「……接客業ですよ」
と、こたえた。
まるで深夜の路上で見知らぬ女性に話しかけられたのではなく、職場のコルヌイエホテルの優美なメインロビーでゲストから声をかけられたときのように。
若い女は酔いがいい感じに回っているようで、にっこりと笑った。
「接客行? ホストかしら?」
「私には、それほどの甲斐性《かいしょう》はありません。ただの、ホテルマンです」
うわあ、と彼女は目を丸くした。
「ホテルマン? ホテルマンってあれよね、蝶ネクタイつけて黒い上着を着ている人?」
「そういう制服もありますね」
「かっこいい。でも、今は制服じゃないみたいね?」
清春はさすがに笑い始めた。
「今はね。深夜一時ですから」
あああ、と女性は大きくうなずいた。
「休みなんだ、今日。ねえ、じゃあ、もう少し飲もうよ」
「申しわけないのですが、今は金をもっていなくて」
「おごるわよお。なあに、ホテルマンって、そんなにお給料が少ないの?」
「そう言うわけでは……酔っているんでしょう? 駅までお送りしますから、タクシーでおかえりなさい」
親友の洋輔なら何のためらいもなく一緒に飲んで、寝てしまうだろうなと清春は思った。
深沢洋輔は女の誘いを断る男はすべて能なしと呼ぶ男だ。
しかし洋輔と親友であっても、井上清春にはそれができない。
たとえ無一文でも。自宅マンションから締め出されてしまっても。
井上清春には女性に付け込むことができない。
佐江以外には。
岡本佐江のスキに乗じて、彼女を困らせること以外には。
清春はため息をつき、目の前の環三通《かんさんどお》りを流してくるタクシーを見つけようとした。
そのとき、
「キヨさん?」
という声がした。
振り返ると、ライトグレーのスーツに清春のエドワードグリーンの靴をはいた佐江がコンビニの前で立っていた。
その瞬間、清春の全身に安堵が満ち満ちた。
ああ、佐江がいる。
さえ、と言おうとしたところを、隣にいる女性に肘《ひじ》をつかまれた。
「ちょっと、なにあれ……あっ、奥さんね」
「いや、その」
清春がしどろもどろになっていると、若い女性は明るく笑い始めた。
「こんなイケメンでも奥さんには頭が上がらないんだあ。そうよねえ、だからあの男も今夜はドタキャン……」
ふいに、清春は胸が締め付けられるような気がした。
若い女性の明るいメイクの下から、切《せつ》なく苦しく、いっそ泣ければ楽だとでもいうような、透明な恋情が噴《ふ》き出したからだ。
すっと、清春は女性の肩に手をまわした。そして冷たく白い街灯の光を浴びている彼女の顔が、他の誰にも見えないようにしてやる。
そのまま背後の佐江に向かい、
「佐江、タクシーを拾ってくれ。このひとは、車が必要なんだ」
佐江は何も聞かずにだまって、環三通りを流してくるタクシーを拾いに行った。
車はすぐにつかまり、佐江はドライバーと何か話している。それからすぐに車がすうっと清春の前にやってきた。
タクシーのドアが開く。
清春は泣き始めている女性をタクシーに乗せた。
「大丈夫ですか。家まで、帰れる?」
女性は黙ってうなずいた。涙が流れる顔つきは幼い少女のようで、それがまた清春の胸を締め付ける。
その顔が、いつか見た佐江の泣き顔によく似ていたからだ。
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