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第6章「夜の女王のアリア」
第51話「あきらめるしかない。あきらめられるわけがない」
しおりを挟む(Briam CuteによるPixabayからの画像 )
佐江の働いている八越デパートまでは、コルヌイエの最寄り駅から電車で五分ほどで到着する。
コルヌイエホテルでの勤務を終えた清春は、とりあえずデパートの前までやってきて考え込んだ。
ここまでやってきてもまだ、清春は自分が何をしたいのか、よくわからない。
ひたすらに佐江の顔を見たいと思うが、仕事ちゅうの彼女の邪魔になりたくない。しかし今はまだ朝の十一時で、佐江の仕事が終わるまでに半日以上ある。
なによりも、清春は佐江の前に顔を出すことにためらいがある。
佐江は、忙しいなか出勤前の時間を割いてまでコルヌイエホテルに来た。清春に会うためだ。そんな佐江を顔も見ずに追い返したことが、清春の負い目になっている。
今さら、どのツラを下げて彼女に会うんだ?
冷静な部分はそうたしなめるが、理性の助言に従えないほど、佐江に会いたい清春がいる。
ぐずぐずとデパートの中に入り、店内マップをながめた。
佐江の店は八階で、同じフロア内に広いカフェがあった。マップを見る限りではカフェはエレベーターのすぐそばにあり、佐江の店から見るとフロアの対角線上だった。それほどの距離があるとカフェからは佐江の店は見えないだろうが、少なくとも清春が考えうるギリギリの距離まで、佐江に近づける。
思い切ってエレベーターに乗り込んだ。
平日の午前十一時。清春以外に八階で降りた客はいなかった。そのまま、すべり込むようにカフェに入る。広いガラスの仕切り壁のむこうに、佐江の働く店が見えた
清春は壁ぎわのテーブルを選んだ。
カフェは佐江の店から見てフロアの対角線上にある。しかし双方の間にあるのは背の低いショーケースだけだ。思った以上に佐江の店が良く見え、エスプレッソを飲むうちに、明るめのグレーのスーツを着た佐江が店からフロアに出てきた。
年配の女性客を送り出してきた佐江はにこやかに笑い、かぎりなく優雅に一礼した。
佐江は清春の記憶にあるとおりに美しく、それ以上に、つややかに見えた。ほっと肩を落とし、佐江が店に入ってしまうまでじっと目で追った。
やがて彼女が店の中に入ってしまうと、清春は胸ポケットから今朝、佐江がよこしたメモを見る。
『なにごとも、ありませんでした』
佐江の端正な字を指でそっとなぞると、まるで女の背中を指で撫で上げているような快感が指先から立ちのぼってきた。
だが。
『なにごとも、ありませんでした』と佐江に言われたら、清春にはもう言えることは何もない。佐江の身体も体温も柔らかな声も、何もかもをあきらめるしかない。
あきらめられるわけがない。
二杯目のエスプレッソに口をつけたとき、カフェの前を小柄な若い女が通り過ぎた。胸に名札をつけているところを見ると、このフロアで働くスタッフらしい。
彼女はちらりとカフェ内の清春を見て、大きな目をくりっと動かした。可愛らしい印象の女性で、清春がもう少し若ければ声をかけてみようと思うようなきびきびした身ごなしだった。
その若い女はすうっと佐江の店に入っていった。
清春は顔をしかめた。
まさか初対面の女に見られただけでトラブルが起きるとは思わないが、ここで佐江に見つかることだけは絶対に避けたい。すぐさま席を立ち、会計を済ませる。
エレベーターで一階に降り、そのままデパートを出てから清春はあっと声を出した。
まだ新しいマルボロの箱とライターを、カフェに置いてきてしまった。
——どうしようか。
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