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第6章「夜の女王のアリア」

第48話「おれを捨てるならコルヌイエ以外のところでやれ」

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(TerryによるPixabayからの画像 )

 その日の夜勤は、コルヌイエホテルにしてはめずらしく何事も起きずに済んだ。
 清春は出勤してきた後輩に仕事の申し送りをし、久しぶりにマンションに戻るかと思ったとき、妹の真乃(まの)がやってきた。
 ちらりと見ると、いつもは愛想のいい真乃の顔がつんと尖っている。まずいことが起きたな、と清春は思った。

「どうした、真乃?」

 言われた真乃は異母兄をバックルームに引っ張っていった。まだ早い時間帯でバックルームには兄妹しかない。

「キヨちゃん、今日はこれで仕事上がりよね?」
「ああ」

 異母妹の気迫に押されるように、一歩後ろに下がった。

「なんだよ、おまえ」
「キヨちゃんが佐江と付き合うっていったときにーー」

 話しはじめた異母妹は、怒りで目がすわっている。

「キヨちゃんがこれまで遊んできた女たちと佐江を、一緒にしないでって頼んだわね? 絶対に、泣かせないでって」
「ああ」
「佐江はあたしの親友よ、キヨちゃんが、飽きたからって連絡も取らずにそのまま捨てていい女じゃないの。キヨちゃんの嘘つき」
「おい、嘘つきって」
「キヨちゃんも、しょせん他の男と一緒よ。佐江をまかせておける男じゃなかったのね」
「真乃——」

 妹の奔流のような怒りの言葉を何とか中断させた。

「おちつけ、おれは話がまったく読めていないぞ。佐江ちゃんがどうしたって」

 真乃はつんと尖った唇のまま、自分の制服の胸ポケットからプラスチックのルームキーを取り出した。そのままルームキーを、清春のダークスーツの胸ポケットに差し入れる。

「京の朝九時、佐江があたしのスイートルームに来るわ。キヨちゃんと会って話したいんですって。佐江がコルヌイエに来る以外に、キヨちゃんと連絡を取る方法がないからって」

 佐江が会って話したいという一言に、清春はび くりとした。
 女が面と向かって話したいという時は、ろくなことにならない。清春の経験上たいていが別れ話だ。

「キヨちゃん。今日は絶対に佐江と会ってね。あの佐江があたしに頼みごとをするなんて、ありえない事なんですからね」

 清春は言葉に詰まった。
 たしかに、世界中の何よりも真乃を大切にして愛している佐江が、真乃に頼みごとをするなんてありえない。
 まして色恋がからむ頼み事とは。佐江は一体、どんな気持ちで真乃と話したのだろう。


 おれはまた、佐江を泣かせている。

 自分自身にうんざりしながら、キヨハルは目の前で怒りくるう妹を見た。

「わかったよ、真乃。仕事が片付いたら、おまえのスイートに行くよ」
「そう。九時ちょうどには終われないでしょうけど、佐江も十時までしかいられないの。そのあと仕事があるから」

 佐江は、仕事前にコルヌイエによるのか。
 ふと、コンノードホテルで見た出勤直前の佐江の様子を思い出す。
 つややかな髪をきっちりとアップにして、身体のラインに沿うスーツを着た佐江は匂うように美しかった。
 あの姿をもう一度みたい、と清春は思った。

「わかった、行くよ」

 そう言ったとき、レセプションカウンターからスタッフが飛び込んできた。

「井上さん、大変です、プレジデンシャルスイートのゲストの、リー・ケイさまが、飛行機の出発時間を間違えていらっしゃって」

 清春の顔つきが、瞬時にベテランホテルマンになる。次第に騒然としはじめたバックルームの中で、清春はひとり、冴え返るように冷静な声で話した。

「だれか、トラベルデスクと連絡を取ってください。スタッフを一人、バックルームへ回していただいて。正確な現状は私がプレジデンシャルスイートへうかがって、把握してまいります」

 言い終わると同時に、バックルームの内線電話が鳴った。ナンバーを見るとプレジデンシャルスイートからだ。
 三コールも鳴らないうちに電話を取り、いつもと変わらぬ声でゲストと話しはじめた。

 清春のおだやかな声につられるように、バックルームの空気が落ち着いていく。やがてスタッフは一人ずつ、清春の指示に従って動きはじめた。
 スタッフを横目で見つつ、ゲストが韓国風のイントネーションを持つ英語で話し続ける内容を、素早くメモに取っていく。そしていつも通りの声で事態の収拾につとめるとゲストに伝え、かちりと電話を置いた。
 バックルームを出ていきかけたところで、妹に気が付いた。真乃に近づいて耳元でささやく。

「真野。お前のスイートに十時までに行けるとは思うが、リー様の件の収拾しだいだ。悪いな」
 足早に出て言った。

 佐江に会いたい。が、会いたくない気持ちもある。
 職場で別れ話なんて、冗談じゃない。清春は整った顔立ちに、やや険のある表情を浮かべて、プレジデンシャルスイートに向かった。
 おれを捨てるならコルヌイエ以外のところでやれ、と思った。
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