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第5章「目を閉じておいでよ」
第39話「その気になったら、好きなようにむさぼることができる距離」
しおりを挟む佐江は清春の甘いセリフを、笑って流した。
「そんなに疲れていたら、何もできないでしょう?」
清春は佐江の笑いを交えた声を味わい、距離を測ってギリギリまで佐江に近づいた。
「どんなに眠くても、きみの相手くらいできるよ。ためしてみろよ」
笑って佐江のピアスにキスをすると、色の白い佐江の耳たぶがあっという間に真っ赤になった。
その様子が、かわいらしくてならない。しかししぶしぶ、
「じゃあ、場所を移そうか」
これから、佐江が言いたくもないようなことを聞き出さねばならない。
半ば清春に騙されたような格好で、清春のマンションの部屋にやってきた佐江が真っ先に行ったのは、香りのことだった。
「これ、”ナイルの庭”ですか?」
「うん?」
リビングのソファにブリーフケースを置いて、佐江の方を振り返った。
佐江は警戒心を解いていない。用心深い小動物のような様子で、清春の部屋の中をながめていた。
「——この香り、エルメスのトワレじゃないですか、”ナイルの庭”」
「そう。良く知っているね」
「ずっと、真乃(まの)が使っていますから」
清春はスーツの上着とネクタイをソファの上に放り出し、佐江に分からないようにため息をついた。
真乃、真乃、真乃。
佐江の言うことは、清春の美しい異母妹のことばかりだ。しかめっ面を佐江に見られないようにして、着替えのために寝室に引っ込んだ。
ふと、壁一枚を隔てたむこうに佐江がいる、と思った。
思った瞬間、ぞくっと全身に鳥肌が立つ。
たった壁一枚の先に、佐江がいる。清春がその気になったら好きなように身体をむさぼることができる距離に、惚れた女がいた。
小さくため息をつく。どうしようもない、佐江にその気がないのだから。
リビングに戻ると、佐江が隅のワインセラーから、一本のボトルを抜くところだった。
選んだのはスペインのスパークリングワインのカヴァだ。
清春は慣れた手つきでワインボトルの口金をゆるめ、白いナプキンでボトルの口を覆うと、ゆっくりとコルクをひねってあけた。
ほっそりとしたシャンパングラスをふたつ用意して、金色の泡立つスパークリングワインを注ぎ入れる。このあたりは、コルヌイエホテルでボーイの仕事もしたことがある清春には、お手の物だ。
「どうぞ」
佐江の前にグラスを置いてやる。まだまだ警戒心を解かない佐江は、そっとグラスをもって少しだけ金色の酒を飲んだ。
薄いグラス越しに見える佐江の唇が、清春の劣情を無駄に刺激する。
「煙草は吸わなくても、酒は飲むんだな」
「えっ?」
さっきのカフェで、佐江が一本の煙草も吸わなかったことが、清春の意識に引っ掛かっている。
彼女は、真乃と同じくらいのヘビースモーカーだったはずなのに。
清春があまりに真剣な顔つきだったのか、佐江は笑って
「お酒は、好きですよ。“白楽天”でも、一緒に飲んだじゃないですか。ところで、見せてくださる約束の東京タワーはどこです?」
と尋ねた。
清春は火をつけていない煙草をくわえたまま、ベランダに通じる窓を開けた。
「来いよ。ベランダに出たほうが、良く見えるんだ」
佐江は黙ってついてきた。
ベランダに出るとビル風が強かった。佐江が寒そうに両手で身体を抱きしめたので、清春はさりげなく彼女の後ろに立って風を防いでやった。後ろから見る佐江はいつも以上にほっそりとして、男をそそる。
このまま佐江ののシャツのボタンをはずして、柔らかい身体に指を這わせたい。
欲情を押し殺しながら、佐江の肩越しに小さなオレンジ色の東京タワーを指さした。
そっと、耳元にささやく。
「お約束の、東京タワーだ」
グラスのカヴァを飲みながら佐江は微笑んだ。
「本当だわ。思ったよりも、近くに見えるんですね」
「悪くないだろ?」
「とてもきれい。でも、なぜそんなに東京タワーが好きなんです?」
佐江がほほ笑んで清春を見上げた。
清春は、佐江の後ろに突っ立ったまま煙草を吸う。
東京タワーにまつわる話は、誰にもしたことがない。したいと思ったこともないし、誰かに聞いてほしいと思ったこともない。
この部屋にどんな女も連れてきたことがないのと同じように、誰にも踏み込ませたくない。
なのに清春の口からは、思いがけないセリフがこぼれ出た。
「子供のころさ、おれ、ずっとおふくろとホテル暮らしだっただろ。あちこち転々としたけれど、ある時棲んでいたホテルの部屋から、東京タワーが見えたんだ。
親父もおふくろもいない一人きりの夜は、宿題をしながらずっと東京タワーを見ていた――」
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