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第4章「女ぎつね オン ザ ラン」

第32話「真乃のふりをしたおれと寝たことを、きみ、言えるの?」

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(Pham Trung KienによるPixabayからの画像 )

「……真乃(まの)に、ばれた? あたしとキヨさんがコンノードホテルに泊まったことが、ですか?」

 佐江は高い頬骨のあたりを青ざめさせて、つぶやいた。清春は佐江が淹れたコーヒーを飲みながら、短く言った。

「そう。ばれた。ついでに、おれときみが”婚約”していることも」
「あたしたち、婚約なんて、していませんよ?」
「そうだね、でも田川さんはそう受け取らなかったからさ」


 しれっとした顔で清春はこういった。こう言う以外、今の清春に、何ができるだろう。

「……たがわさん?」

 佐江は驚いたように尋ねた。田川の名前はすっかり忘れていたらしい。

「田川さんは、コンノードホテルのナイトマネージャー。コンノードをチェックアウトした朝、レセプションカウンターに、いい男がいただろう?覚えている?」
「……おぼえています」

 佐江の顔色が変わった。あの朝、清春が田川相手にほざいた戯言を思い出したらしい。

『彼女、ちかぢか嫁になりますから、よろしく』

 とふざけた清春が、そういったのだ。もちろん、田川は冗談だと受け取らなかった。深夜にとつぜんスイートルームを用意させられ、翌朝いっしょにチェックアウトしたのだから、婚約者だと思うのが当然だろう。
 佐江の顔が、どんどん青ざめていく。清春は、あえてのんびりした声で、

「あの話がさ、思った以上に早く知り合いに伝わったみたいで。とうとう昨日、洋輔の耳に届いた。で、真乃はさっそく、きみを問い詰めるためにここへやってくると言うわけ」
「……問題はそこじゃないわ」

 こめかみに手を当てて佐江はつぶやいた。

「どうしよう……どう言えばいいの?……ううん、真乃には下手な嘘をつくよりも正直に話したほうが、きっとうまくいくわ」

 困り果てた佐江は、無意識のうちに自分の小指をひねりあげている。清春はそっと手を伸ばして、佐江が神経質に指をひねり続けるのを止めた。
 佐江の身体が、びくりとする。
 まるで、あの日の朝、初めて清春を受け入れた時のように。


 佐江のかすかな震えを感じて、清春の身体につけたくもない火がつく。身体の熱をうらはらに、ぞっとするほどつめたい声が清春の口からこぼれた。

「佐江ちゃん、きみ、おれと寝たことを真乃に言えるの?」

 佐江の身体がこわばった。
 ほっそりした上半身を包むシルクシャツが、とろりと揺れる。清春のひんやりした視線は、佐江の肩先から小さな骨の形がみてとれる手首まですばやく走った。

 論理的な思考は、もう止まれない。

「おれとのことは真乃に言えるとしても―――」

 佐江の混乱に乗じて、清春はさらに彼女を追い詰めていく。 
 こんな可憐な女を、いじめている男がいる。
 他でもない、清春だ。清春はもう、自分自身をゆるすことができない。

 それでも――佐江を逃したくない。清春の手の中に、このいとおしい女を、閉じ込めてしまいたい。
 たとえ、どんなにひどい嘘をついても。

「真乃のふりをしたおれと寝たことを、きみ、真乃に言えるの?」

 佐江がつぶやく。

「あなたと寝たなんてことを知ったら、真乃はあたしを軽蔑するわ。まして、真乃のふりをした、あなたとだなんて」

 ぐったりと顔を伏せた。

「ひどい。この上、真乃に拒まれたら、あたしはもう生きていけない」

 その時、スマホにメッセージ着信を告げる電子音が聞こえた。佐江がチェックする。

「真乃が、あと十分でうちに来るそうです」
「うん」

 清春は簡単にこたえた。

「それで、おれはどうする?」
「どう?」

 佐江は顔をあげ、清春を見あげた。清春は、床にしゃがみこんだままの佐江の前にきて小さくてよく動く可愛らしい手をとった。佐江の手は、いつだって温かい。

「じゃあ、こうしよう」

 清春の低い声は、あの夜と同じように、佐江の行動を明確に指示していく。

「おれは、このままバスルームにでも隠れていよう。真乃はここに三十分もいないだろうから、おれが来ていることを知られずに済む可能性の方が高いよ」
「それで、うまくいきますか?」

 わずかな希望にしがみつくように、佐江はつぶやいた。清春は笑って佐江の髪を撫でた。

「きみが、うまくいかせたいと思うなら、うまくいく。いいか、忘れるなよ。今回のことは全部、きみが最終的な決定権を持っているんだ。きみが何も言わなければ、おれはここにいないことになる」

 そういうと、清春はすばやく自分が飲んだコーヒーのマグをキッチンシンクへ運んだ。

「ほら、グズグズしていると真乃が来るぜ。玄関のおれの靴をかくせ。あいつ、細かいところに目ざといからな」

 そう言うと、清春は佐江のマンションの小さなバスルームに滑り込んだ。
 清春がバスルームのドアを閉じるのと、エントランスからのベルが鳴るのは、ほぼ同時だった。
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