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第4章「女ぎつね オン ザ ラン」

第31話「おれは、おれに見向きもしない女に惹かれている」

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(Paul NaudeによるPixabayからの画像 )

 翌朝、清春は朝7時に職場であるコルヌイエホテルを出た。岡本佐江のマンションに向かう。
 異母妹、真乃(まの)より先に、佐江のマンションに着きたい。彼女に会っておきたい。その理由が、佐江に警告をしたいからなのか、ただ顔を見たいだけなのか、清春にもわからない。

 どっちでもいいと思った。

 清春は佐江のマンションに来たことはある。どの時も、清春は必ず真乃と一緒だった。
 真乃のいない清春には、佐江は何の興味もない。

 おれは、おれに見向きもしない女に惹かれていると、清春はため息をついた。佐江の部屋のインターフォンを押す。

 無意識にネクタイの結び目を確認する。きちんとスーツを着ていると、清春は安心できる。テイラーメードのダークスーツは、清春にとって最強の防具だ。

「キヨさん?」

 インターフォン越しに佐江の声がした。機械越しの声でさえ、清春の耳は欲情する――佐江の声だからだ。

「キヨさん――こんな早くに、どうしたんですか?」
「真乃から、連絡があった?」

「いいえ……連絡はありません」
 
 インターフォン越しの声でも、佐江が一気に不安な様子になったことが聞き取れた。
 間に合った、と清春は思った。

「あのね、もうじききみのところに、真乃から電話があるよ。いったいどんな話をされるのか、きみ、先に聞いておきたくない?」
「真乃に関することなら、何でも聞きます。上がってきてください」

 佐江はマンションエントランスのロックを解除した。清春の目の前で、ガラスドアが開いた。
 廊下を歩きながら、清春は考える。

『真乃に関することなら、何でも聞きます』

 佐江の声はいつものように淡々としていて、一週間前に清春の腕の中で見せた可憐な少女の面影はみじんもなかった。


 彼女は、何もかも、なかったことにしようとしている。

 かすかな痛みを感じつつ佐江の部屋のあるフロアまで上がり、清春部屋のベルを鳴らす前にためらう。
 佐江が、あの夜のことを何もかもなかったことにしようとしているのなら、清春はここで帰ったほうがいい。

 真乃が何のつもりで佐江のマンションに来るのか。その内容を佐江に伝えるだけなら、電話でも済んだ用事だ。
 清春の頭はそれを理解していても、身体が納得しなかった。


 会いたい。佐江の顔を見て、声を聴いて、話をしたかった。


 それだけじゃ、ないだろ。

 清春の中で声がする。

 おまえが考えていることなんて、とっくにお見通しなんだ。
 

 多分、佐江も。
 だから佐江はエントランスを開けるのを渋り、この一週間、何の連絡も清春にして来なかったのだ。

 負け犬は、ここで尻尾を巻いて引返すのが正しい。清春は奥歯を噛んで天井を見上げた。
 今なら、まだ帰れる。
 何もかも、なかったことになる。あの可憐な佐江の声も、清春の身体を狂わせた甘いため息やほっそりした身体も、佐江の中の、熱も。


 何もかもが、清春の記憶に残るだけになる。
 
 それでいいと、清春の理性が言う。それなのに身体が、佐江の部屋の前から動かない。
 時間だけがたつ。ため息をつき、やはり帰ろうと後戻りをしたとき、背後でガチャリとドアが開く音がした。

「キヨさん、よかった。遅いので、部屋が分からなかったのでは、と思ったんですよ」
「——ああ」

 と振り返って清春は笑う。自分が、ひどい顔で笑っているのが分かった。佐江が、首をかしげてこちらを見ている。

「どうなさったんです?上がっていらして」

 佐江がドアを開けている。清春は吸い込まれるように中に入った。玄関でスーツのポケットに手を突っ込み、話し始める。

「真乃が、もうじきここに来るぜ」
「そうみたいですね。でも、いったいなぜ?」

 佐江は言葉を切り、いぶかしげに清春を見た。

「それから、なぜそんなところに立っているんです? コーヒーくらい差し上げますよ。キヨさんも、これから出勤でしょう」
「いや、おれは昨日が夜勤だったんだ。なあ、おれ、きみの出勤の邪魔をしているな?」
「まだ八時前ですよ」

 佐江はそう言って、部屋の中に通じるガラスドアをひらいた。

「今朝は九時にうちを出ようと思っていたんです。まだ時間はありますし、真乃の話を聞かなくては。さあ、早くなさって」

 清春はのろのろと靴を脱いだ。佐江の部屋はきれいに片付き、すでに出勤のための着替えとメイクを終えた佐江は、凛として美しかった。


 ——こんなに、きれいな女だったかな。

 清春は、佐江に言われるままに小さなダイニングテーブルにつきながら思った。
 佐江の小さな手は絶え間なく動き、たちまちコーヒーを淹れ終えた。熱いマグカップが清春の前に置かれる。
 彼女はそのまま、清春の向かい側にある椅子に座った。

「では、教えてください。なぜ真乃が、こんなに早くうちに来るんです?」

 清春はコーヒーを手に取る。マグに、佐江の体温が残っている気がした。
 いやいやながらに、口を開く。

「あの話が――真乃にバレたんだ。おれときみが、コンノードホテルに、泊まったこと」


 ひゅっ、と、佐江が息をのむ音が、聞こえた。
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