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第4章「女ぎつね オン ザ ラン」
第29話「かなわない、届かない。だから――くるしい」
しおりを挟むその日、二十時に終わるはずの清春の勤務は、二十二時になってようやく終わった。ホテルマンはシフトどおりに仕事が終わらないことは珍しくないが、清春はシフトオーバーが通常になってしまっている。
帰るまえに一服していくかと喫煙スペースに立ち寄ると、一足先に美貌の男が煙草に火をつけていた。
親友の深沢洋輔(ふかざわようすけ)だ。
洋輔は清春を見て
「よう、終わったか」
清春はネクタイに指を突っ込んで、軽くゆるめながら煙草をくわえた。
「火、貸してくれ」
洋輔が、ライターで清春の煙草に火をつけた。ゆるやかに煙が立ちのぼるのを見て、清春はようやく肩の力を抜く。
「忙しかったみたいだな」
清春は隣にいる美貌の男を見ながら
「なんだよ、珍しいな。おまえがおれの心配か?」
「いや、仕事の心配じゃなくてな」
というと、洋輔は完璧な美貌をにやりとさせてた。
「昨夜——食えたのか?」
「何が?めしなら、一緒に食っただろう」
洋輔はすっと清春に体を近づけ、
「めしじゃねえよ。あの美人だ」
清春は、煙草にむせた。洋輔がにやりと笑う。
「とぼけるなよ。ゆうべ“白楽天(はくらくてん)”の前であの美人をすっかり囲い込んで、おれにとっとと消えろと言ったくせに。バレバレなんだよ、キヨ」
「そんなんじゃないって、言っているだろ」
「ははあ、機嫌が悪いな。食うには食ったが、食い足りねえってところか」
清春は返事もしない。何もかもが、洋輔の言うとおりだからだ。
食い足りない。もう一度、佐江を思う存分抱きたい。一晩中かけて佐江が泣き出すまで責め立てたあげく、佐江の中で解放されたい。
そう思うだけで、清春の身体は痛みのような欲情をおぼえる。
この痛みはきっと、佐江の中に入らなくてはおさまらない。なのに、次にいつ彼女に会えるのか、清春には見当もつかないのだ。
洋輔が不思議そうな顔をして、のぞきこんできた。
「なんだよ、おい。お互い、どんな女の話も平気じゃねえか」
「今、話している」
「まあ彼女、見るからにお前の好みだもんな。背が高くって、細くってさ。お前、二十歳のころからこのテの女にしか、手を出さないだろ」
ああ、と清春は生返事をした。洋輔は続けて、
「もう一回、寝るのか」
「どうかな」
清春は煙草をくわえた。洋輔は妙な顔をして、
「“どうかな”だと? 二回目をどうするかは、お前しだいだろ、キヨ」
「彼女の都合もある」
「都合? これまで、女の都合なんて気にしたことねえくせに」
清春は不機嫌な顔をして洋輔を見た。
「おまえの話を聞いていたら。おれは心底、クズな男みたいだ」
「今さら何を言っている。お前は女に関しちゃ俺と同じだ、ろくでなしだよ」
「どうせ、おれはクズだよ。洋輔、今日はもう放っておいてくれ」
清春が煙草を押しつぶして灰皿に放り込むのを、洋輔は何も言わずに見ていた。
清春はきれいに整えた髪に指を突っ込み、
「悪い。疲れてイライラしているんだ」
「そうみたいだな」
「仕事のせいだ」
「つまんねえ嘘を、つくなよキヨ」
清春は情けない顔つきで、子供のころからの親友を見た。
「そのツラ、仕事ごときで煮詰まっている顔かよ。だいいちお前、仕事で困ったことなんかねえだろ――あの女だな」
洋輔は親友の顔を正面からのぞきこんだ。
「あの美人と、何があった」
「だから、寝たんだって」
清春は乱暴にそう言って、煙草をもう一本取り出した。
「それでなんで機嫌が悪い? 寝てみたい女と寝た。満足だろ」
抱き足りないんだ、とは、さすがに洋輔にも言いにくかった。なによりも、たとえ相手が洋輔であっても、他の男に佐江の身体を想像させるようなことは、一言も言いたくない。
「彼女、真乃(まの)の友人だからさ。真乃に、ばれるとうるさい」
清春は絶妙に話題をずらした。洋輔が形のいい眉毛をひょいと、持ち上げる。
「だったら、これで終わりにしろよ。頭のいい女みたいだし、言わないほうがいいことは黙ってるだろ」
清春は、複雑な表情で洋輔を見た。
「何だよ、キヨ」
「おまえ、佐江ちゃんとは昨日がほぼ初対面だろ」
「ああ」
「なんで、頭が良いなんてわかる?」
「見りゃわかるさ。あれは、黙っているべき時に口を閉じておける女だ。あの人は余計なことを言わねえよ。
お前がしゃべらなきゃ、寝たことなんて真乃にバレねえだろう」
「——言わないよ」
言えない、と清春は思った。そんなことを一言でも漏らしたら、佐江に殺される。
彼女が本当に愛しているのは、世界中でたった一人、清春の妹の真乃だけだから。
それが分かっていても、清春の身体はもう佐江を欲しがっている。
かなわない、届かない。だから――くるしい。
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